祖母が存命の間に恋人を紹介した―看取りと未来をつなぐ旅―
「背中を押したのは、祖母の病室」
僕の名前はA。
大阪の天王寺に住む、ごく普通の会社員だ。
真面目だけが取り柄で、誰かに大きな迷惑をかけることもなく、波風を立てずに生きてきたつもりだ。
そんな僕に、最近ひとつだけ胸が高鳴る出来事があった。
会社の同僚、Bさん。
明るいのに落ち着いていて、冗談も通じるのに礼儀を忘れない。
仕事でミスをしたとき、誰よりも先にフォローしてくれたのも彼女だった。
そのとき思った。
「この人や」
そう直感した。
いずれは告白するつもりだった。
焦らず、もう少し距離を縮めてから――そう思っていた。
だが、ある晩、母から電話があった。
「A……ばあちゃん、ちょっと危ないんよ」
母方の祖母。93歳。
鳥取の田舎で一人暮らしをしていた。
「心臓がだいぶ弱っとるみたい。まだ話はできる。でも、お医者さんは……長くないかもしれんて」
慢性的な心不全。
何度も入退院を繰り返し、今回は回復が鈍いらしい。
僕は一瞬、言葉を失った。
頭が白くなったあと、真っ先に浮かんだのは、
祖母の笑顔だった。
僕が大学に受かったとき、
就職が決まったとき、
帰省すると必ず作ってくれた煮物の味。
「Aくんが幸せなら、それでええ」
いつもそう言ってくれた人。
その夜、布団に入っても眠れなかった。
――もし、祖母が僕の結婚姿を見ることなく旅立ったら?
僕はまだ何も見せていない。
仕事も恋も、胸を張って報告できるほどのものを。
そのとき、はっきり思った。
「告白しよう」
祖母に会わせるために付き合うのではない。
それは違う。
僕はBさんが好きだ。
前から、ずっと。
ただ、迷っていただけだ。
でも祖母の知らせは、
僕の背中を押した。
人生は、思っているより短いのかもしれない。
翌日、会社で僕はBさんに声をかけた。
「仕事終わったら、少し時間もらえる? ○○室で」
鼓動がうるさい。
定時後、誰もいない会議室。
「前からBさんのことが好きでした。付き合ってください」
情けないほど直球だった。
沈黙。
一秒が永遠に感じた。
そしてBさんは、親指と人差し指で丸を作った。
「わたしもAさんのこと、誠実な人やなって思ってたの。よろしくね!」
拍子抜けするほどあっさりだった。
僕は、心の底から安堵した。
その夜、母が祖母の病院へ電話をしていた。
僕は身振りで「代わって」と伝えた。
叔母から祖母へ。
「もしもし。Aくんか」
少し掠れた声。
「仕事頑張っとるか?」
「うん。おばあちゃん、体調どうなん?」
「あはは、まだまだ元気やけん。ばあちゃんのことよりAくんの方が心配や」
明らかに無理をしている。
僕は覚悟を決めた。
「俺な、会社で彼女ができた」
少し沈黙。
「おばあちゃんの生きとるうちに、そっち連れて行きたいくらいやわ」
電話の向こうで、祖母は笑った。
「うれしいわあ。でもな、ばあちゃんのことは心配せんでええ。来るときは交通気ぃつけな」
淡々としていたけれど、
その奥にある喜びは、僕にもわかった。
絶対に会わせたい。
意識のあるうちに。
翌日、僕はまたBさんを○○室に呼んだ。
「俺にとってBは大切な彼女や」
「どうしたの、改まって」
「田舎のばあちゃんがな、心臓が悪くてちょっと危ないんよ。まだ話せる。でも先はわからへん」
Bさんの表情が変わった。
「ばあちゃん、ずっと俺のこと支えてくれてた人でな。俺がちゃんとした大人になった姿、見せたいんや」
言葉を選びながら続ける。
「無理は言わへん。でも、もしよかったら……会ってもらえへんかな」
沈黙。
Bさんはしばらく考えて、ゆっくり頷いた。
「行くわ」
「でもね、Aさん。わたし、同情で行くわけじゃないよ」
僕は顔を上げた。
「Aさんの大事な人に会うってことは、わたしも本気で向き合うってことやと思ってる」
胸が熱くなった。
「ありがとう」
その瞬間、僕は確信した。
彼女は“連れていく人”じゃない。
一緒に歩く人だ。
翌日、僕とBは上司の席へ向かった。
「有給を取ります」
上司は顔をしかめた。
「こらー!こんな忙しい時期に揃って有給か?お前らどういうカップルしてるんや!」
周囲の視線が刺さる。
僕は深呼吸した。
「仕事は前倒しで全部仕上げます。引き継ぎ資料も作ります。それでも取ります」
「理由は?」
「祖母が入院しています」
上司は舌打ちした。
「……ほんまに戻ってきたら死ぬほど働けよ」
「はい」
法律は強い。
でも、覚悟も必要だ。
僕らは徹夜で仕事を片付けた。
そして当日。
大阪メトロ御堂筋線の天王寺駅。
Bさんが改札から現れた。
「お待たせ」
「ありがとう、来てくれて」
「今日はロマンチックな景色はおあずけやね」
僕は笑った。
「ほんまはゆっくり見せたいルートなんやけどな」
御堂筋線で新大阪へ。
そこから新幹線、姫路へ。
さらに特急で鳥取へ。
特急の昼食は、正直あまり美味しくなかった。
でも、胸はいっぱいだった。
病院に着いたとき、僕の緊張は頂点だった。
病室の扉を開ける。
「Aくんや。来てくれてありがとう」
祖母は痩せていた。でも目は生きていた。
「隣の子は?」
Bさんが一歩前に出た。
「おばあさま、こんにちは。Aさんの彼女です」
一瞬、僕を見てから、続けた。
「結婚を意識したお付き合いをしています」
僕は息を飲んだ。
でもその言葉は、重くなかった。
覚悟の響きだった。
祖母の顔が、ぱあっと明るくなった。
「ほんまにありがとう……うれしいわあ」
その笑顔を見た瞬間、
僕は思った。
来てよかった。
本当に。
「十日間の灯り」
祖母の病室は、思っていたよりも静かだった。
機械の規則正しい音と、窓の外を通る風の気配だけがある。
Bは椅子を引き、祖母の手をそっと握った。
「冷たくないですか?」
「大丈夫や。若い子の手はあったかいなあ」
祖母は笑った。
僕はその光景を、少し離れた場所から見ていた。
胸がいっぱいで、うまく言葉が出ない。
Bは、祖母に自分のことを話していた。
どんな仕事をしているか。
Aが会社でどんなふうに頑張っているか。
昼休みにどんな会話をしているか。
まるで、僕の知らない僕を紹介してくれているようだった。
祖母は何度も頷いた。
「Aくんはな、小さいころから人の顔色ばっかり見とった。優しい子や。でもな、自分の幸せは後回しにしがちや」
ドキリとした。
「Bさん、もしこの子が無理しとったら、ちゃんと叱ってやってな」
Bは少しだけ笑って、強く頷いた。
「任せてください」
その返事は軽くなかった。
帰り際、祖母は僕だけを手招きした。
「Aくん」
「なに?」
「自分の幸せを、一番に考えなさい」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
それが祖母の、最後のはっきりした言葉だった。
大阪へ戻る新幹線の中。
僕は窓の外を見ていた。
「ありがとうな」
「ううん」
Bはペットボトルの水を渡してくれた。
「おばあさま、素敵な人やね」
「うん」
「Aさんが優しい理由、ちょっとわかった気がする」
その一言で、涙が滲んだ。
それから十日間。
祖母の容体は少しずつ悪化した。
意識が朦朧とする時間が増え、食事もほとんど摂れなくなった。
僕は会社と病院を往復した。
Bは毎日、仕事の合間にメッセージをくれた。
「今日はどう?」
「無理してない?」
短い言葉が、支えになった。
デートの約束はしなかった。
未来の話もしなかった。
今は、それどころじゃなかった。
ある夜、母から電話が来た。
「A……今すぐ来られる?」
その声でわかった。
危篤だった。
僕は会社に電話を入れた。
「祖母が危篤です。休みます」
上司は一瞬黙り、
「……行ってこい」
それだけだった。
鳥取に着いたとき、祖母はほとんど意識がなかった。
親族が集まり、静かに見守っていた。
手を握る。
かすかに温もりはある。
「ばあちゃん」
返事はない。
でも、僕は続けた。
「ちゃんと仕事しとる。彼女もできた」
声が震える。
「幸せになるから」
そのとき、祖母の指が、ほんのわずかに動いた気がした。
それが最後だった。
心電図の音が、ゆっくりと平らになった。
母が泣いた。
叔母が泣いた。
僕は、しばらく何も感じなかった。
葬儀は、淡々と進んだ。
焼香の煙の匂い。
白い花。
棺の中の、静かな顔。
あんなに賑やかだった人が、動かない。
それが現実だった。
火葬場で扉が閉まる瞬間、
ようやく実感が追いついた。
もう、声は聞けない。
もう、「Aくん」と呼ばれない。
胸の奥が、空洞になった。
大阪へ戻ってからもしばらく、僕は抜け殻のようだった。
会社に行き、仕事をする。
でも、何かが足りない。
ある夜、Bが言った。
「無理に元気出さんでいいよ」
「……うん」
「悲しいのは、ちゃんと愛してた証拠やもん」
その言葉に、僕は初めて声をあげて泣いた。
Bは何も言わず、そばにいてくれた。
祖母がいなくなった現実は変わらない。
でも、僕は一人じゃなかった。
一ヶ月ほど経つと、少しずつ日常が戻ってきた。
仕事にも集中できるようになった。
笑える日も増えた。
祖母の写真に向かって、僕は小さく言った。
「ちゃんと前向くわ」
四十九日が近づいていた。
僕はBに言った。
「また一緒に、ばあちゃんの家に来てくれへん?」
Bはすぐに頷いた。
「行くよ」
その返事は、最初に病院へ行くときよりも、ずっと自然だった。
僕らは次の週末、大阪駅で待ち合わせた。
ここから先は、悲しみだけの旅じゃない。
少しだけ、未来へ進む旅だ。
「見守られているということ」
四十九日前日。
大阪駅のホームに立つと、少し冷たい風が吹いていた。
「新快速ってほんま速いよね」
Bが笑いながら言う。
「せやな。大阪から姫路まで一気やからな」
JR西日本の新快速は、軽やかにホームへ滑り込んできた。
車内は思ったより混んでいる。でも不思議と心は落ち着いていた。
発車すると、街並みがどんどん後ろへ流れていく。
「なんか、時間も一緒に進んでいく感じするね」
Bが窓の外を見ながら言った。
「うん。止まってくれへんからな」
姫路駅で降り、今度は播但線へ乗り換える。
ディーゼル車両の独特の音。
少し古びた車体。
窓から見える山の輪郭。
「この路線、ええなあ」
Bが嬉しそうに言った。
「都会から山に入っていく感じがする」
「せやろ。子どものころな、この路線で帰省するのが楽しみやったんよ」
列車は徐々に山間へ入っていく。
川沿いを走り、トンネルを抜け、田畑が広がる。
「なんか、ゆっくりやね」
「うん。急がんでもええって言われてるみたいやろ」
Bは小さく頷いた。
「人生も、こんなんがええね」
僕はその横顔を見た。
あの日、祖母の病室で「結婚を意識しています」と言った彼女。
あれは勢いでも見栄でもなかった。
覚悟だった。
和田山駅でさらにローカル線へ乗り換える。
車両は一両編成。
乗客もまばらだ。
田舎の真ん中を、ゆっくり走る。
Bが声をあげた。
「うわぁ……きれい」
一面の田んぼ。
遠くに連なる山。
小さな集落。
「大阪では見慣れない光景やね」
「俺もお気に入りのルートなんよ。鈍行の車内の匂いとか、なんか落ち着くねん」
「うん、わかる」
電車がガタン、と揺れる。
そのリズムが、どこか懐かしい。
やがて、祖母の住んでいた地域の小さな駅に着いた。
駅名は、相変わらず控えめな看板に書かれている。
祖母の家は、少しだけ静かになっていた。
庭の草は伸び、でも縁側はそのままだ。
四十九日の法要は、親族だけで静かに行われた。
僧侶の読経が、部屋に低く響く。
叔父と叔母が、僕らに言った。
「来てくれてありがとうね」
「彼女さん、ほんまにええ子やなあ」
Bは深く頭を下げた。
儀式が終わり、みんなが帰ったあと、僕は一人、仏壇の前に座った。
写真の中の祖母は、いつもの笑顔だった。
線香の煙がゆらゆらと揺れる。
もし、あの世があるなら。
祖母はきっと見ている。
僕が葬式でちゃんと涙を流したことも。
危篤のとき、手を握って「幸せになる」と言ったことも。
今日、四十九日でしっかり供養したことも。
そして――
彼女と電車に揺られ、田舎の風景を見ながら未来を語ったことも。
将来を意識して、真剣に付き合っていることも。
親孝行しようと決めたことも。
仕事を投げずに向き合っていることも。
全部。
きっと、天国から見てくれているに違いない。
僕は小さく呟いた。
「ばあちゃん。俺、自分の幸せをちゃんと考えるわ」
あの日の言葉が、胸の奥で温かく光る。
振り返ると、縁側にBが立っていた。
「終わった?」
「うん」
「なんかね、ここ、あったかい家やね」
「せやろ」
「おばあさま、今もここにおる気がする」
僕は空を見上げた。
青く澄んでいる。
寂しさは、なくならない。
でも、それは重たい石ではなく、
胸の中で静かに支えてくれる重みになっていた。
「なあ、B」
「なに?」
「これからも、よろしくな」
Bは少し笑って言った。
「こちらこそ。結婚を意識してるんやから、逃げへんで?」
僕は思わず笑った。
祖母の家の前で、僕は初めて未来を具体的に思い描いた。
大阪に戻り、仕事をして、
ときどきこの田舎に帰る。
そしていつか、ここに子どもを連れてくるかもしれない。
そのとき、祖母の話をするだろう。
「ひいおばあちゃんはな、強くて優しくてな」
夕方のローカル線に乗る。
窓の外の景色は、来たときと同じはずなのに、少し違って見えた。
悲しみだけの景色ではない。
これからの人生の始まりの景色だった。
電車がゆっくりと走る。
そのリズムに合わせて、僕は心の中で言った。
ばあちゃん。
ちゃんと生きるからな。
見ててや。
物語は終わらない。
でも――
僕はもう、前を向いている。




