拝啓、愛してくれた皆様
序章
人には、その人なりの考えた結果の行動がある。
しかし人は他者の理屈を鑑みることなく、自分の都合に照らし合わせて解釈する。
その解釈を持って、他者が不在の場で、さもそれが正しいかの如く、周囲に自らの正当性を喧伝する。それを聞いた周囲の人々は同調するように、他者を批判する。気づけば他者は悪者扱い。無能扱い。その人にはその人の考えた結果の行動があったにもかかわらず。
周囲の批判を受けた彼はどうか。
彼は自己の正当性を己の中だけで確認し、他者の批判を気にすることはない。また必要以上に他者を批判することもない。
己にただ正直に人生を歩んでいた。
「結局は自分自身に意地を張っていただけか…」
2011年1月。
拝啓、愛してくれた皆様。
自分が嫌いになりました。
第一章
1968年2月。私の人生は、小さな田舎町の小さな家から始まった。
時代は戦後不況から抜け、いざなぎ景気の到来と共に、翌年に迫った東京オリンピックを待ち望む人々で、大いに盛り上がっていた。
私の父は穏やかな人柄で、彼の怒った顔を一度たりとも見たことがない。この時代には珍しく、自ら家事に取り組み、家族を優先する。そしていつも笑顔な父だった。全くもって何を考えているのか掴み処のない父ではあったのだが、ただ、確かに一つ言えること。彼は、誰からも嫌われることのない人生を意識して歩もうとしている人だった。
ある日の夕食のこと。家族揃って食卓に向かっていた。 湯気の立つ味噌汁の香りが畳の部屋に広がり、だしの匂いが鼻をくすぐる。
「この味噌汁、ちょっとしょっぱいわね」母が言う。舌に残る塩気を気にするように、湯呑みのお茶を口に含んだ。
「いや、これが一番好きなんだ」父は言う。湯気で曇った眼鏡を指で拭いながら、笑みを浮かべて箸を進めた。
「お父さん、いつもそう言うけど、本当に好きなの?」私が言う。味噌の濃さに子どもながら違和感を覚え、思わず問いかけた。
父は笑って答えず、ただ箸を動かし続けた。味噌汁の湯気が父の頬を赤く染め、茶碗に当たる箸の音だけが静かな部屋に響いていた。
またある日のこと。学校で友人とのいざこざで、私が悔し涙を流し帰宅した日。
私はランドセルを放り投げ、居間の畳に座り込んだ。
『どうしたんだ』父は新聞を畳み、私の顔を覗き込んだ。
『友達に馬鹿にされたんだ…』
父は少し考え込むように笑い、『そういう時は、笑って返せばいいんだ』と言った。
「でも、それじゃ悔しいままじゃないか」
父は少し黙ってから、いつもの笑顔で「嫌われないっていうのも、大事なんだよ」と言った。
幼心ながらに私は、その父の言葉に説明のできない少しの反発心と、たくさんの温もりを感じたことを今でも記憶している。
私はこんな父が大好きだった。
父のような大人になりたいと願った。他者を傷つけることなく、他者と争うことなく、自己の憤りを昇華させながら豊かに生きる父になりたいと。
そんな父の元で育まれた私もいつしか大人になり、社会の一員としての希望と自覚を胸に
日常の些末な出来事に、若者独特の根拠のない高い熱量で日々を送っていたのだった。
この頃の私は良くも悪くも未熟だった。
未熟故に他者を美化し、他者を愛し、他者の行動の一つひとつに現実を垣間見ては、喜びまた疑い、失望を知るのだった。
そしてまた、未熟故に美しく、未熟故に己に正直に進んでいられたように感じられる。
私にはこの頃に、結婚を考えるパートナーがいた。彼女の名は絵里奈。
彼女とは、職場の飲み会で隣同士になったことをきっかけに、連絡を取り合う関係になった。
学生の頃に少しだけかじったバンド活動の話で意気投合し、音楽や青春時代の思い出を共有していった。絵里奈は、初めて会った人にも「ねえ、それってどういうこと?」と遠慮なく問いかける。肩を軽く叩きながら笑うその距離感の近さに、誰もが心を許してしまう人柄の持ち主だった。一方、映画のワンシーンや私の何気ない一言にすぐ心を動かされるほど、感受性豊かな女性でもあったのだ。
お互いが惹かれあうのは、とても自然で、瞬く間の出来事だった。
月日は流れ、私と絵里奈はお互いの将来についても考えるようになっていった。
二人は同棲を始めた。都会の中の小さなアパートで。それは故郷のような小さな田舎町ではないけれど、子供のころに私が安心して暮らしていた小さな家へのスタートラインのように思えた。
絵里奈と過ごす日々はとても穏やかで、時に彼女が私に新しい発見をさせてくれる。
その日は朝からしとしとと雨が降り続いていた。窓ガラスを伝う水滴が幾筋も重なり、外の景色をぼやけさせていた。アパートの小さな部屋の中は、雨音が一定のリズムで響き、まるで静かな音楽のように二人を包んでいた。
絵里奈は窓辺に座り、頬杖をつきながら外を眺めていた。 「雨の音って、心を落ち着けてくれるよね」 そう言って振り返る彼女の瞳は、雨粒のように澄んでいた。
私は少し笑って答えた。 「俺は昔から雨って嫌いだったんだ。外に出られないし、気分も沈むし」 絵里奈は首を横に振り、少し身を乗り出して言った。 「でもね、よく耳を澄ませてみて。屋根を叩く音、窓を流れる水の音、遠くで車が水を切る音…全部が重なって、ひとつの曲みたいに聞こえない?」
私は黙って耳を澄ませた。確かに、雨音は単なる雑音ではなく、柔らかい旋律のように響いていた。 「なるほど…言われてみれば、悪くないかも」 「でしょ?」絵里奈は嬉しそうに笑った。「私はね、雨の日って世界が近く感じられるんだ。外に出なくても、自然がここまで届いてくれるから」
私はその言葉に頷きながら、彼女の横に腰を下ろした。 「絵里奈は、いつも俺に新しい見方を教えてくれるな」 「ふふ、そうやって素直に言ってくれると嬉しいよ」 彼女は私の肩にそっと寄りかかり、窓の外を見つめた。
雨音と彼女の温もりが重なり、私は初めて雨の日を「癒し」として受け止めることができた。
絵里奈と過ごす日々は穏やかだった。雨の日に肩を寄せ合い、料理を一緒に作り、何気ない散歩の中で新しい発見を分かち合った。彼女の感受性に触れるたび、自分の世界が広がっていくのを感じていた。
しかし、月日が経つにつれ、二人の心の奥に小さなずれが芽生え始めていたように感じる。 ある日私は「結婚したからといって、ずっと幸せでいられるかはわからないよね」「長い人生、俺と絵里奈の気持ちが常に向き合っているはずないんだから」
特に意味を持たせたわけではない。私の結婚に対しての見方と絵里奈とどう向き合い幸せに豊かに暮らしていこうか。私なりの正直さであり、誠実さであり、言うならばそれは未来を真剣に考えている証だった。
だが絵里奈は、その言葉に安心を見出すことができなかった。彼女が欲していたのは「愛されていると感じられること」「未来を二人で信じること」「努力を認めてもらえること」だった。私の正直さは、彼女にとって「未来を揺るがす言葉」として響いてしまっていた。
この頃の私は、絵里奈との小さなずれを感じながら、彼女との距離をつかみあぐねていたのだと思う。
少しでも距離を戻したくて、ある日私は彼女の好きな花を買って帰った。花の香りが部屋に広がり、ほどけるように緩みながら、静かな温もりへと変わっていった。
「いつもありがとう。俺もちゃんと考えてるんだよ」そう言って差し出すと、絵里奈は一瞬目を見開き、やがて微笑んだ。「嬉しい…でも、あなたがそうやって気を遣ってくれるのは、何かあった時だけだよね」その言葉は柔らかかったが、奥に寂しさが滲んでいた。
互いを失うまいと願うその切実さが、かえって二人の歯車を微妙に狂わせていったのだった。
花の香りが薄れていく頃には、二人の間に漂う静けさは再び重さを帯びていた。その重さは食卓にも忍び込み、やがてある晩の夕食後、言葉の行き違いとなって姿を現した。
絵里奈はソファに腰を下ろし、両手を膝に置いたまま視線を逸らしていた。 私は正直に思ったことを口にしただけだった。だが、その正直さが彼女を傷つけていた。
「嘘でもいいから、時にはほめて欲しいの!」 絵里奈の声は震え、涙が光を受けて揺れていた。「あなたの正直さが、みんなの正しさだと思わないで。私は、ただ安心したいだけなの」
私は言葉を失い、ただ彼女の言葉の重さを受け止めるしかなかった。
父の「嫌われないっていうのも、大事なんだよ」という言葉が頭をよぎる。
正直さは美しいと思っていた。しかし、その美しさが愛する人を苦しめることもあるのだと、初めて痛感した。
「未来を信じるより、今を守ることが私には大事だったの」
その言葉は怒りではなく、疲れた吐息のように淡く響いた。
絵里奈は椅子を静かに引き、立ち上がった。 足音は柔らかく、けれど確かに遠ざかっていく。玄関の扉が閉まる音は、冷たい夜気に吸い込まれていった。
その夜、二人は別れを選んだ。
1996年10月。
拝啓、愛してくれた絵里奈様
二人を迷わせたのは、誠実でありたいと泣く、私の正直さでした。
第二章
正直さは誠実の形だと思っていた。でも誠実さが人を傷つけるのなら、それはただの自己満足なのかもしれない。
祭壇には白い菊が並び、線香の香りが絶え間なく漂っていた。 参列者のすすり泣く声が時折響くが、場は静けさに包まれている。
その静けさの中心に、もう父の姿はなかった。
雲ひとつない青空が広がり、父の歩んだ静かな人生を映しているようだった。
私は焼香を終え、深く頭を下げたまま一人心で語りかけた。
「父さん。僕を育ててくれてありがとう。本当に感謝しています。」言葉を口にした途端、私の胸の奥に温かさと寂しさが同時に広がった。
「もうここにあなたはいないのに、僕の心はまだあなたに問い続けています。 人とどう関わればいいのか、自分をどう守ればいいのか。 あなたのように静かに歩むことが僕にできるでしょうか。 僕は正直でありたい。誠実でありたい。 その生き方がもし誰かを傷つけるのなら、僕は孤独を選びます。 たとえその孤独の先が見えなくても、そこに僕の生き方の答えがあるのなら。」
問いかけても、返事はもう届かない。 線香の煙だけが揺れ、父の沈黙が永遠になったことを告げていた。 胸の奥に残るのは、答えのない寂しさだけだった。
式が終わると、親族たちは互いに言葉を交わしながら席へと移り、やがて一つの卓に集まった。別れの余韻を胸に抱えつつも、食事の場が整えられ、語らいの時間が始まろうとしていた。」
親族の一人が笑いながら言った。 「いやぁ、あの人は本当に誰にでも優しかったよね。怒った顔なんて見たことない。まあ、その分、強く頼られることは少なかったけどさ」
すると別の親族が杯を傾けながら頷いた。 「そうそう。何を決めるにも『みんなの意見に任せるよ』って言ってたな。あれじゃ頼りがいは感じられなかったよな」 周囲もつられて笑い、場の空気は和やかに見えた。
その笑い声が重なるたびに、私の胸の奥に小さな棘が突き刺さるようだった。 周囲の笑顔を見つめるうちに、胸の奥で言葉にならない思いが膨らんでいった。
ついに私は箸を止め、声を絞り出すように言った。
「父は家族を引っ張っていくタイプではありませんでした」 声は震えていたが、確かな響きを持っていた。 「でも父は、たくさんの温もりを僕の心に残してくれました。父は人と争わない人生を求めました。周囲を憎むことをやめてしまっていたんです。父はいつも笑顔を絶やさない人でした」
私は一度言葉を切り、深く息を吸った。
「これが、父の選んだ生き方でした」
「もし、ここに父がいたならば、やっぱり父は何も言わず微笑むのでしょう。それがいい事かどうかわかりません。でもこれが父の選んだ生き方でした」
気まずさを隠すように湯呑へ伸びた手は、宙で迷い、やがて膝の上へ戻った。
親族たちは互いに視線を交わしながらも、誰もすぐには言葉を返せなかったのだった。
「父さん。僕は正直であり、誠実でありたい。どうしても他者と同調するような人生を送りたいとは思わないのです。たとえ孤独に包まれても、その道を歩む覚悟を持ちます。」
2003年11月
拝啓、孤独を友とする未来の僕へ
もう僕の心は、ただ孤独と歩むほかありませんでした。
第三章
孤独を選んだのではない。 正直さと誠実さを求めた結果、私は孤独に生きるほかなかったのだ。 数年間、孤独を友として歩んだ。自分を偽ることなく、他者を批判することなく。ただ己の理想に従って生きる日々。
しかしその歩みが、次第に私を追い込んでいったのだろう。人との結びつきは薄れ、声をかけてくれる者もなく、私は社会の輪郭から遠ざかっていった。孤独に価値を見出そうとは思わない。それはただ、私の生き方の帰結としてそこにあるだけだった。
夜の部屋は静まり返り、時計の針の音だけが響いていた。 窓の外には街灯の淡い光が滲み、遠くで車の走る音がかすかに聞こえる。その静けさの中で、私は虚空に問いかけた。
「人はなぜ生きるんだ」
私は正直に生き、誠実に生きたかった。他者をおもいやり、人と人とが心で助け合える。それが自分の求める理想の人間像だった。しかし結果はどうだ。孤独に閉じこもり、一人で自分の言い分を通そうとするだだっこと同じではないか。
人間とは、うまくいかない時でも社会で共生することが大切なのではないか。 互いに迎合し、時に偽りを交わしながらも、人々は社会の中に居場所を築いている。 私はその輪に入ることができない。正直さを守ることが、私を孤独へと閉じ込めていた。
「嫌われないっていうのも、大事なんだよ。」
その言葉を反芻し続けた私の人生は、正直さと誠実さを選び、共生することをやめ、そして今、存在の意味を見失いつつある。
孤独は理想への手段ではなく、ただ社会の異物となった証として重くのしかかる。問いは答えを持たず、ただ心の奥に沈殿していく。孤独は私を自由にしたが、その自由は空虚に近づいていた。
やがて私は一枚の紙を取り出し、震える手で言葉を記した。墨の匂いがわずかに漂い、白い紙の上に黒い文字が滲んでいく。
答えを探すように、私は屋上の空へと歩み出た。
頭上には満天の星が瞬いていた。 冷たい夜気の中、星々は静かに光を放ち、永遠の沈黙を湛えている。
ふと眼下を見下ろせば、街は灯に満ち、人々が支え合い、憎しみ合い、愛し合いながら生活を営んでいた。その営みはざわめきとなって遠く響き、星の静けさとは対照的に、絶え間なく動き続けている。
私はその狭間に立っていた。星々の沈黙と、人々の喧騒のあいだで、孤独な思索を抱えながら。
答えはどこにも見つからず、私はすべてがどうでもよくなっていった。
そして、私は一歩を踏み出した。
その先に待つものが、終わりなのか始まりなのか、私自身にもわからなかった。
「結局は自分自身に意地を張っていただけか…」
2011年1月。
拝啓、愛してくれた皆様。
自分が嫌いになりました。
終章
夜が明けると、街は再びざわめきを取り戻していた。 私は結局、この世界に別れを告げる勇気を持てなかった。 人間とは、なんと脆く、弱いものだろう。それなのに――思いとは裏腹に、胸の奥には不思議な晴れやかさが芽生えていた。
孤独は消えない。誠実さと共生する居場所を求め、絶えず私の中で揺れ続けている。けれど、孤独を抱えたままでも、人と共に歩んでみたい。
それは、人間が歩む道に絡みつく、理想と偽りの影なのだろう。
私は街へ降りていった。駅前のパン屋からは焼きたての香りが漂い、通勤の人々が足早に行き交っていた。小さな公園では子供たちがランドセルを背負い、笑い声を響かせながら走り抜けていく。その光景は、昨日までの私にはただ遠いものだった。 だが今は、そのざわめきの中に、少しずつでも自分の居場所を探してみようと思えた。
職場の扉を開けると、同僚が「おはよう」と声をかけてくれた。その何気ない挨拶は、私に新しい生活の始まりを告げる鐘の音のように響いた。
確かな自信ではないかもしれない。まだまだ危うい決意にすぎない。この不器用な歩みの果てには、また迷いと苦悩が待ち受けるだろう。それでも、歩みを重ねることでしか見えない景色がある――そう思えた。
やがて季節は巡り、春の風が街を包む頃。 私は小さな喫茶店で、見知らぬ人と笑い合う自分を見つけるかもしれない。夏の夕暮れには、友人と語らいながら汗を拭う自分がいるかもしれない。秋には落ち葉を踏みしめながら、孤独を抱えつつも誰かと歩く自分がいるだろう。 冬の寒さの中で、温もりを分かち合う瞬間を、へたくそなりに守ろうとする自分がいるのだろう。
2011年5月
拝啓、愛してくれたこの世界へ
この泣きたくなるほど不器用で、それでもなお愛すべきあなたを、へたくそなりに愛し続けてやろうと思います。
人間の心が高慢で、矛盾に満ちているのだとしたら、それら全てを受入れ、ありがとうの言葉と共に生きて見定めてやろうと思います。
人間の心が清く、守りたくなる存在なのだとしたら、それら全てに身をゆだね、ありがとうの言葉と共に生きて愛されてやろうと思います。
あの日嫌いだった自分を、へたくそなりに許してやろうと思います。
そして、春夏秋冬を繰り返しながら、この慈愛と矛盾の世界を、へたくそなりに、死ぬまで生きてやろうと思います。




