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第十一話 勇者様!水道料金が未払いです!

地獄のストライキ騒動という、前代未聞の厄介事がようやく終結してから一週間。

片腕として、いや、もはや本体と言っても過言ではない助手のリリアは、「魂が削れた」という切実な理由で長期休暇を申請し、見事受理された。かくして、静寂を取り戻した執務室には、再び私一人。積み上がった書類の山だけが、あの喧騒の日々が夢ではなかったことを証明している。


「ああ、静かだ……」


ペンが紙の上を走る音と、時折聞こえる自分のため息だけが響く空間。これだ。私が求めていたのは、この平穏無事な事務作業の時間なのだ。ハンコを押す。書類をめくる。またハンコを押す。ああ、なんて素晴らしい。この単調さこそが、心の安寧をもたらしてくれる。


――コンコン。


その安寧は、無遠慮なノックの音によって、いとも容易く打ち破られた。


扉を開けると、そこには見慣れた税務官が、土下座でもしそうな勢いで頭を下げて立っていた。その顔には「切羽詰まっています」と油性マジックで書いてあるかのようだ。


「書記官殿!この通り、お願いに上がりました!」

「……何の用です? 先にお伝えしておきますが、私は何でも屋ではありません。専門は書類仕事とハンコ押しです」


冷たく言い放つ私に対し、税務官は「それも重々承知の上で!」とさらに頭を下げた。もはや腰の角度は九十度に近い。


「誠に、まことに言いにくいのですが……また、貴方様のお力をお借りしたく……」

「お断りします」

「そこを何とか! 地獄の調停を成し遂げた書記官殿の交渉術があればこそ、解決できる案件なのです! この通り!」


ガバッと顔を上げた彼の目には、涙すら浮かんでいるように見える。大げさな男だ。しかし、これほどまでに懇願されては、無下に突き放すのも寝覚めが悪いというもの。私は大きなため息を一つついて、本題に入ることにした。


「……で、今度は一体何なんです? まさか天国でストライキが、なんて言いませんよね」

「いえいえ! もっとこう、俗世のお話でして……実は、水道料金の徴収が難航しておりまして、人手が全く足りていないのです」

「はあ……水道料金」


聞けば、滞納者のリストには一筋縄ではいかない曲者ばかりが名を連ねており、徴収員はことごとく門前払い。中には物理的に追い返された者もいるという。そんな面倒事を、なぜ私が。


「かの水スライムの長老を説き伏せた貴方様ならば、かの者共からもきっと……!」

「それは交渉というか、取引だったんですがね……」


私のぼやきは聞こえないふりをされ、半ば強引に滞納者リストと徴収袋を押し付けられてしまった。こうして、私の静かな午後は、騒々しい取り立て業務へと姿を変えたのだった。



最初に向かったのは、街の外れにある怪しげな塔。リストによれば、高名な魔法研究家の住居らしい。

扉を叩くと、中から尊大な声が響いた。


「誰だ。我は今、深淵の真理を探究している最中である。俗人との会話に割く時間はない」

「水道局から参りました。料金が三ヶ月分滞納されておりますので、お支払いを」

「水道だと? 馬鹿を言うな。我が塔を満たすこの清冽な水は、我が魔力によって大気中の水分を凝縮させたる純水なり! 断じて下賤な水道水などではないわ!」


面倒なのが来た。私は懐から羊皮紙の契約書を取り出し、扉の隙間から突きつける。


「先生がご入居の際に交わされた給水契約書です。確かに先生は水魔法の達人でしょうが、蛇口をひねって水が出るのは、我々が管理する水道インフラのおかげです。このインフラ維持費として、料金をお支払いいただく義務がございます」

「む、むむ……そ、そんな契約、忘れたわ!」

「ご安心ください。こちらに先生の魔力署名がくっきりと残っております。お支払いいただけない場合、残念ながら給水を停止し、魔力署名の不履行ということで魔法協会にも報告させていただくことになりますが」

「なっ……!? 分かった、分かった! 払えばよかろう、払えば!」


扉がわずかに開き、中から震える手で金貨が数枚差し出された。幸先の良いスタート……とは言え、すでに精神的に疲労困憊だ。


次に訪れたのは、見るからに羽振りの良さそうな商人の屋敷。しかし、何度呼び鈴を鳴らしても応答がない。典型的な居留守だ。だが、甘く見てもらっては困る。私は耳を澄ますと、ドアの向こうから微かに聞こえる声に集中した。


(……まだいるのか? しつこい奴め……)

(旦那様、くしゃみを我慢するのはお体に障りますぜ)


「ご主人。そこにいらっしゃいますね。ご安心ください、日が暮れるまで、いえ、ご納得いただけるまで何日でもお待ちしますので」


私がにこやかに告げると、中から慌てたような物音が聞こえ、数分後、ばつの悪そうな顔をした商人が扉を開けた。


そして、リストの最後に残された名前に、私は天を仰いだ。


『勇者』


よりにもよって、あの勇者もとい問題児である。

彼の屋敷は王城の一角に与えられた豪華なものだったが、どこか閑散としている。扉を叩くと、中から気の抜けた返事が聞こえた。


「はーい、どなたですー?」


現れたのは、伝説の剣を壁に飾り、聖なる鎧をそこらへんに脱ぎ散らかした、金髪の気の良い青年だった。


「書記官殿じゃないか! どうしたんだ、こんな所に?」

「水道料金の徴収です。勇者殿、半年分も溜まっておりますが」

「え、あ、ははは! すっかり忘れていたぞ! いやー、悪い悪い!」


悪びれる様子もなく、勇者は豪快に笑う。この男、金銭感覚を含めたあらゆる常識が壊滅的なのか?


「というかだな、書記官殿。俺は数多くの魔物を倒し、この世界を救った英雄なのだぞ? 水道代くらい、永久にタダにしてくれてもいいんじゃないか!」

「勇者であることと、公共サービスの対価を支払う義務は、全く別の話です。法の下では、勇者もゴブリンも等しく一市民ですので」

「ゴブリンと一緒か……」


妙なところで落ち込む勇者をなだめすかし、支払いを促す。しかし、彼は困ったように頭を掻いた。


「それが、これまでの討伐の報奨金は、この間の祭りの際に壊れた街の修復費用として全額没収されてしまってな……今はスッカラカンなんだ」

「……はあ」


もはや言葉も出ない。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。私の目は、彼の腰にぶら下がった、奇妙な模様の鱗が入った袋を捉えた。


「それは?」

「ああ、これか? さっき裏山で散歩してたら、珍しいリザードマンがいたから、ちょっと素材を剥いできたんだ。結構いい値で売れるらしいぞ」

「……それを売って、お支払いください」


結局、私は勇者に付き添って冒険者ギルドの換金所まで行き、リザードマンの素材を売り払い、ようやく滞納料金を全額回収することができたのだった。



心身ともに疲弊しきって、私は執務室へと帰り着いた。窓の外は、すでに夕闇に染まっている。

椅子に深く沈み込み、今日一日を振り返る。魔法使いに商人に勇者……もうこりごりだ。明日こそは、静かにハンコを押すだけの日にしよう。そう固く誓った、その時だった。


「おお、書記官殿! なんと素晴らしいタイミング! まさに神のお導きですな!」


いつの間にか、部屋の隅のソファに、人の良さそうな笑みを浮かべたあの僧侶が腰掛けていた。いつからそこにいたんだ。というか、不法侵入では?


混乱する私をよそに、僧侶は立ち上がると、分厚い名簿のようなものを恭しく掲げた。


「ちょうど良かった! 実は、我が教団を熱心に支持してくださる信徒の方々からの、愛のこもった寄付金の徴収が遅れておりましてな。是非とも、貴殿のお力をお貸しいただきたい!」


その満面の笑みは、もはや悪魔のそれにしか見えなかった。


私の平穏は、一体どこにあるのだろうか。

異世界転生なんてどうでもいい。ただ、静かにハンコが押したいだけなのに。


私の心の叫びは、夜の闇に溶けて消えた。もちろん、声には出せずに。

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