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第十話 王様!労使交渉は私の仕事じゃありません!

それは、ある晴れた日の朝のこと。私がまだ夢と現実の狭間を漂いながら、寝ぼけ眼で洗面所の蛇口をひねった時、その異変に気付いた。


……シーン。


流れるはずの水の音が、まったくしない。蛇口のノブは虚しく回り、乾いた金属音が朝の洗面所に響くだけだ。水道料金は先日、分厚い請求書の束に涙しながら支払ったばかりだ。何かの間違いだろうか?


「ま、まさか差し押さえ…?いや、そんなはずは…」


独りごちたその瞬間、窓の外からけたたましい叫び声が聞こえてきた。


「水が出ないぞー!俺の命のモーニングコーヒーが淹れられない!」

「いやぁぁ!洗濯物が山のように溜まってるのに!着られる下着はもうないのよ!」

「噴水の水が止まってる!これじゃ鳩も水浴びできないじゃないか!」


どうやら、この悲劇に見舞われているのは私だけではないらしい。王都中の蛇口が沈黙を守っているのだ。これは十中八九、私の仕事が増える流れである。役人、いや何でも屋としての長年の勘が、けたたましく警鐘を鳴らしていた。


陰鬱とした表情で出勤すると、案の定、王宮は蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。辛うじて原始的な仕組みの下水は機能しているようだが、近代技術の粋を集めた上水道が完全に停止しているのである。衛兵は鎧の隙間の汗を拭えず不機嫌になり、宮廷料理人たちはスープの出汁が取れずに泣き叫び、庭師は花壇の花が萎れていくのをただ見守るしかなかった。


天地がひっくり返ったような喧騒のなか、私とリリアは、やつれた顔の侍従に導かれ、玉座の間へと呼び出された。


玉座に腰かけた王様は、威厳も何もあったものではなかった。昨日から髪を洗えていないのだろう。自慢のウェーブヘアは見る影もなく、鳥の巣のようにくしゃくしゃになり、なぜか小さな木の枝まで刺さっている。王様は悩ましげにその鳥の巣…もとい、髪をかきむしりながら、我々の姿を認めると懇願するような声を上げた。


「おお、書記官!待っておったぞ!実はとんでもなく困ったことになってな。お主の力を貸してほしい!」

「勿論でございます、陛下。この国の危機、臣下一同、力を合わせる所存です。しかしながら、私はしがない書記官でして、書類仕事以外の戦力にはなりかねます。魔王の討伐などであれば、騎士団の方へ…」

「うむ、魔王なら騎士団に丸投げするのだが、今回の敵は少々厄介でな…」


と王様が指し示した先には、玉座の脇に置かれた水槽。その中で、ぷるぷると震える水色の柔らかそうな球体が鎮座していた。水スライムだ。しかし、よく見るとその胸元(らしき場所)には、墨で書かれたであろう物騒な文字が浮かび上がっている。


“断固団結!”

“我々をこれ以上搾取するな!”

“徹底闘争!”

”やりがい搾取撲滅委員会”


「陛下、彼らは…?」

「うむ、王都の上水道を統括しておった水スライムたちじゃ。彼らが…その…ストライキを起こしてのう…」

「ストライキ!?」


私とリリアの声が、見事にハモった。


「彼らなくして王都の水道は機能せん。そこで書記官、君には彼らとの労使交渉を担当してほしい!」


とんでもない任務が発令されたものである。



執務室に戻り、山積みの書類の脇に交渉用のテーブルを準備しながら、リリアが不安そうに呟いた。


「これ、本当に私たちの仕事なんでしょうか…?労働争議の仲裁なんて、前例がありませんよ」

「私も同感だけどさ、王様のあの髪を見ちゃったら断れないよ…。それに、今夜は隣国のお姫様を招いた晩餐会があるらしい。それまでに解決しないと、国際問題に発展しかねない」


ため息をつきながら、ストライキ中の水スライムたちが提出した要求書に目を通す。主張は至ってシンプルだった。あまりの労働量に、体を構成する水分が蒸発しきって過労死(過労蒸発?)する個体が相次いでいる。この現状の改善、具体的には仕事量の減少と人員補充が果たされるまではストライキを継続する、とのことだ。


私もまた、終わらない書類仕事に魂を削られる役人として、彼らの言い分は痛いほど理解できる。しかし、ストライキは勘弁してもらいたい。ちなみに、水スライムの代わりに人間の作業員を投入する案も出たらしいが、そもそも水道管が人間が通れるサイズに設計されておらず、全身の関節を自在に外せる超人でもない限り作業は不可能。入り口で立ち往生している作業員の報告書には「物理的に無理です」とだけ書かれていた。


すなわち、彼ら水スライムには一刻も早く職場復帰してもらうしかないのだ。しかし、追加の人員投入まで職場復帰はしないと明言されている以上、私が何とかして新たな働き手をかき集めなければならない。幸い、スライム自体は王宮の庭にも多数生息している。土いじりをしたり、日向ぼっこをしたりしている彼ら、もとい無職スライムをスカウトすれば、問題は解決するはずだ。


そう、この時の私は、まだ事態を楽観視していたのである――。


私はまず、中庭で土壌の手入れや除草作業をしている一般スライム(グリーン・スライム)たちに、水道業務への協力を要請しにいった。


「やあ、皆さん。日々の業務ご苦労さま。実は今、水スライムさんたちが人手不足で困っていてね。君たちに少し手伝ってもらえないだろうか?」


すると、数匹のスライムがぷるんと震え、若者言葉で答えた。


「ええ~、マジすか。僕ら、じめじめした暗いとことか無理なんすよ。メンタルやられるんで」

「まあ、やってもいいですけど、当然、割増賃金は出ますよね?あと、危険手当と深夜手当も。僕らのワークライフバランスを侵害するわけですから」

「ていうか、そもそもそれって僕らの仕事じゃなくないすか?水スライムの問題は水スライムで解決すべきでしょ。縄張りの尊重って、そういうことだと思うんすよね」


まるで歯が立たない。我々人間が汗水たらして働くうちに、このスライムたちは労働者としての権利に目覚めていたようだ。


仕方がない。こうなれば、野生のスライムをスカウトするしかない。私とリリアは、王都郊外にあるという「じとじと洞窟」に生息する野生の水スライムに会いに行くことにした。


ダンジョンへの道中は、決して楽なものではなかった。道を塞ぐゴブリンの群れには「君たちの居住区のインフラ整備計画書」を提示して買収し、立ちふさがるスケルトンの騎士には「骨格標本としての学術的価値に関する報告書」を読み聞かせて知的好奇心を刺激し、道を譲ってもらった。リリアが「書記官の仕事って、一体何なんでしょうね…」と遠い目をしていたが、気付かないふりをした。


なんとか洞窟の最深部、水スライムの集落にたどり着いたが、そこにいたのは、王宮の労働者のように擦れてはおらず、もっと狡猾でタフな交渉相手だった。


「ほう、王宮の使いかね。で、我々に何を望む?」


長老らしき、一際大きな水スライムが、地底湖から重々しく問いかけてくる。


「ぜひ皆様のお力を拝借したく。もちろん、相応の待遇はお約束します」


そう言って私が雇用契約書を差し出すと、長老はゼリー状の体でそれを受け取り、一瞥もせずに言った。


「まあ、やってもいいですじゃろう。じゃが、条件がある。まず、我々全員分の社会保険と、万が一の際の損害保険への加入は絶対じゃ」

「それから、王都内に我々専用の居住区画の確保。湿度は常に90%以上を維持すること」

「それと、この洞窟の現状維持と、今後一切の人間の立ち入りを禁止する条約の締結もお願いしたいのう」


次から次へと繰り出される要求は、明らかに王国の予算をオーバーしている。我々も王様から預かっていた「立ち退き執行申請書」や「国王勅命書」といった伝家の宝刀を振りかざして対抗したが、彼らはぷるぷると震えながら「そんな紙切れ、水に濡らせば読めなくなりよるわ」と一蹴する始末。完全に足元を見られている。


どうしたものかと頭を抱えていると、洞窟の入り口から息を切らした王宮の使者が駆け込んできた。


「しょ、書記官殿!大変でございます!陛下が!王宮で開催中の晩餐会で、メインディッシュのコンソメスープが出せないとお怒りです!即刻の解決をと!」


…やむを得ない。背に腹は代えられない。


「分かりました!全てそちらの条件通りに受け入れましょう!ですから、今すぐ!今すぐ勤務を開始してください!」


私の悲痛な叫びが、湿ったダンジョンの苔むした壁に虚しくこだました。



その後、新たな人員(野生の水スライム)の投入により、上水道は見事復旧。王宮では、国王陛下直々の表彰式が執り行われた。ツヤツヤの髪を取り戻した王様から大げさな言葉と共に表彰状を授与されたが、正直、我々が欲しいのはそんな紙切れよりも、まとまった休暇なのである。


そうして這う這うの体で執務室に倒れこみ、椅子に体を沈めた、まさにその直後だった。


ドガァァン!


執務室の扉が、まるで攻城兵器で打ち破られたかのような轟音を立てて開いた。そこに立っていたのは、鬼の形相をした会計官だった。その手には、今回の交渉で発生した費用をまとめた分厚い羊皮紙の束が握られている。


「貴様らァァァッ!なんだこの莫大な出費はァ!スライム用高級住居!?天然苔の空輸費用!?特別災害補償保険!?断固!断固認められんぞォォォ!」


会計官の怒号が、執務室をビリビリと震わせる。


私とリリアは、無言で顔を見合わせた。そして、長年のコンビネーションで、同時に動いた。


私は机の引き出しから愛用の耳栓を取り出して装着し、リリアは音を立てないようにそっと席を立つと、まだ怒鳴り散らしている会計官を廊下に押し出し、がちゃりと静かに扉の鍵をかけたのだった。


扉の向こうで何かが叫んでいるが、もう知らない。少なくとも、今日の分の仕事は終わったのだ。多分。

Copyright@秋山水酔亭 2025

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