風の声
ある日、神谷はふと、美咲にこんなことを尋ねた。 「“料理の音”って、意識したことありますか?」
美咲は頷く。 「あります。“風のように届く”ものが、音にはあるんです」
その日の「饗」は、音と香りをテーマにした一夜だった。
料理が供されるたび、鷹野はまるで空気の流れを読むように立ち位置を変える。
「風は見えない。でも、“気”を運ぶんです」
鷹野は 「湯気の立ち方、香りの残り方、器を置く音。それら全部が、“食の風景”をつくる」と説明した。
神谷は気づく。
──この店には、「静けさに満ちた演出」があったのだ。 そしてその中心には、風のように目に見えぬ“配慮”が流れている。
「今日は、“盛りつけ”を体験してみませんか?」 美咲に誘われ、神谷は器と対峙する。
「力まず、呼吸で決めてください」
香り立つ茗荷の和え物を、彼はそっと盛る。
そのとき、窓から風が通り抜け、 一枚の木の葉が、皿のそばに落ちた。
「それも、添えてみましょう」 美咲が微笑む。
供された料理には、ガラスの器が用いられていた。
「“風通しのいい器”を選びました」
美咲が説明する。 「これは、宙吹きガラス。中に空気を封じ込めながら、職人が“息”で形をつくるんです」
ガラスの泡一つ一つが、 職人の呼吸の痕跡だった。
「音も香りも風も、人の“気”が通ることで生まれる」 神谷はそれを、今ようやく理解し始めていた。
その後、神谷はオフィスで、部下の何気ない言葉に耳を傾けるようになった。
──言葉は“風”のようだ。 強く吹けば人を傷つけ、 優しく通れば、誰かを動かす。
「聞こうとしてこなかった声を、感じられるようになったかもしれない」
神谷はそう思いながら、静かに次の一歩を踏み出した。




