オアシスの街ワーフ
「すみません」
また人にぶつかった。
今朝から、何度目だろう。
本から目を離したダールは、ふぅ、とため息をひとつついた。
文書館へと向かういつもの慣れた道のはずなのに、今朝はやけに人通りが多い。
それもそのはず、サラダ―ル国の北のはずれにあるこのオアシスの街ワーフは、朝から賑わっていた。
というのも、昨夜、空の商人のキャラバンが到着し、夜のうちに積み荷が卸されたことが、町中に伝わっていたからだった。
サラダールは砂漠の国。
国土の大半は広大な砂漠の地で、その領土に大小の街が点在している。
でありながら、北のはずれに離れ小島のようにポツンとあるワーフの街は、さらにその北に連なる山脈からの水脈を受け水源に恵まれていた。
街のあちこちで泉が湧き出し、街には水路が張り巡らされ、水路に沿って街路樹が立ち並ぶ緑豊かな“砂漠の街”。
水が豊かであることも然り、サラダール国内や隣国の都市などへの中継地点としても立地条件が良く、僻地ながらもあちこちから商人が多く立ち寄り、栄えている。
当然、今を時めく「空の商人」が商売を行う重要な拠点のひとつにもなっている。
「やれやれ。空の商人サマサマだな」
ダールは再び、読んでいた本に目を落とし、歩き始めた。
本を読みながら歩くのは、白いものが混じった顎鬚を不精に生やし、優し気な眼差しをたたえたこの男の常である。
頭にかぶっている紫の縁取りがある被り物は、彼が祭職についていて、しかも高位の地位にいることを示している。
通り過ぎる人の多さを避けるために、ダールはいつも通らない道を曲がった。
途端に、人の賑わう声や音が静まった。
このあたりは古い市街地のクワディームと呼ばれる地区。
かつてはワーフの中心街として、様々な店が軒を連ねて賑わっていたが、今は閑散として閉まったままの店もある。
開いている店の軒先には、店員かただの住人かもわからぬ者が、つまらなそうに椅子に座って、通り過ぎるダールをなんとなく眺めている。
空の商人が活躍するようになってから、サラダール国のいくつかの主な都市に、新しい市場が作られた。
むろん、空の商人が出資して、自分たちの商品を中心に売り出すためだった。
そのため、このクワディームのような旧市街は客をごっそりとられ、閑古鳥が鳴いている。
しかし、どこからともなく漂うパンを焼く匂いや、スパイスの混じったティーの香りなどが、未だ息づくこの町の存在を感じさせている。
「おじさん。靴はいらないかい?」
すぐそばで子どもの声が響き、ダールは驚いて本から目を離した。
見ると、10歳くらいの男の子が、大きな袋を肩に担いで、ダールを見上げていた。
「安くしとくよ。一足でも二足でも、買ってくれよ。いい品だよ」
(こんな小さな子が…)
もう何年も、子どもには無償で教育を受けさせ、労働への従事には制限をつけるように、行政省へ進言しているというのに…。
貧しさゆえの、子どもへの無教育と、労働せざるを得ない状況。
少しずつではあるが改善されていたのに、空の商人の台頭によって、再びそれが悪化してきている。
ダールの心に怒りが湧き上がった。
「ほら、気に入った靴を選んでやろうか…」
商売文句を口にしながらも、少年の目はそぞろだと気がついた。
少年の視線の先をたどると、どうやらダールが持っている本が気になるらしい。
ちらちらと、開かれた本のページを覗き込もうとしている。
「この本が気になるのか? 読んでみるかい?」
ダールが開いたページを少年に向けてあげると、少年はくいつくように本に視線を落とした。
が、少年の目はページの上をうろうろと泳いでいるだけで、読んでいる感じはしない。
この本は、神の教義を寓話として読み解いた物語なので、子どもにも読める程度のはず。
ダールの頭に、もしや、と沸いた疑念が、思わず言葉に出た。
「…君、字が、読めないのかい?」
少年は、ハッとダールの顔を見ると表情を硬くした。
そして、大きな袋を肩に担ぎ直すと、小走りに通りを走っていってしまった。