23◆歩いた先の出会い
歩けど歩けど、灯りにまるで近づかない。泥濘を踏んでしまった靴は中までぐちゃぐちゃで歩くたびに濡れた音を出している。少しだけ目は慣れたけど、手探りで前に進まなければ何があるかわからない。
「きゃんっ」
木の根に足を取られ転ぶが、少し擦りむいたくらいで大きな怪我はない。一向に辿り着かないもどかしさがあり、気持ちばかり逸る。なので織姫は「負」の気配が濃くなるのを見逃した。チカリ、と赤い閃光が目の前を駆け抜けてから気が付いたのだ。
オカシが来る。
この閃光が見えたということはもう近くまでいる。身を守るものもなく、身を隠したところで闇はオカシの世界だ、意味はない。
何も見えない中、負の塊を前方に感じた。真っ暗なのにビルほどの高さを感じる。見上げればぼんやりと光るものがある。オカシの目だ。
女の悲鳴のようなけたたましい嫌な鳴き声をオカシが上げる。
「エ アラ カキカク シオエ タグル」
織姫は皇に伝わる守りの呪いを唱える。力があった頃はこの呪文だけで辺り一面は結界となり負の塊のオカシなど砂のように崩れ去っていたのだけど、やはりそうはならなかった。だけどこの守りの呪文はオカシに対峙する力を持たぬ者でも唱えれば、悪いいたずらをするようなオカシを跳ねのけるくらいの効果はあるのだ。今は目の前のオカシと戦う力はないけど、オカシを目の前に恐怖するということはなかった。怖い気持ちはあるけど、それだけではなく、何か手は無いかと探る自分がいる。これは織の前の生で培った習慣だ。
「私が生きて戻るならば、縁を」
ぼんやり光るオカシの目を見上げながら織姫が囁くようにそう言った刹那のことだった。
真っ黒な空に陣が展開される。皇のものとは違う、だいぶ簡略化された陣だ。
「どなたかいらっしゃるんですか?」
陣の中央から八方へ光の玉が広がり、爆発した。それは攻撃ではなく辺りを照らしただけのようだ。そして姿が見えたオカシは獣のような体に長い首、そして頭は巨大な人の女の頭が憤怒の表情をしたものだった。
「お嬢さん、そこを動かないでくださいね」
空に広がった陣はすでに消えている。あれは空間移動のためのものだろうが、一体どういう仕組みで発動させたものか織姫にはわからなかった。滞空時間に辺りを照らして状況確認をして、今は剣を構えてオカシに向かって落ちてくる人がやったことだろうか。この巨大なオカシを目の前にその人の声はとても落ち着いていた。
その人は剣を大きく振りかぶるとそのオカシの脳天めがけて振り下ろした。いくらなんでもあの巨大なオカシを一刀両断は無理があるだろうと思いきや、先ほど八方に広がった光と同じ光を剣が放ち、そのままオカシを真っ直ぐ縦に切り分けて地面まで降りた。とんでもない力技である。
(皇の中にもこんな無茶な力押しができるくらい力が強い人はいなかった…)
織姫は一番の神力使いと言われていたが、力の強度のみで押せるかと言えば無理である。神力は祓いの力に特化していて、負の力にとっては劇薬のように効果的というだけだ。他にも優秀な能力者揃いの皇一族ではあるけども、どちらかと言うとテクニカルに長けているので、かつてたくさんの場数を踏んだ織姫もこんな討伐は見たことが無かった。
八方で爆ぜて光源となったエネルギーはゆっくりと弱まっているらしいが、まだ目で確認するには十分な光がある。
「お嬢さん、こんな所に一人とは転移の事故ですか?心細かったでしょう。私は日帰軍白隊の佐河と申します。討伐遠征のためここ馬鱗第四危機区まで部隊を率いております。白隊のテントがありますのでまずそちらへ移動をしましょう」
光を背にそう言った青年はにこやかだった。軍人にしては線が細い、いわゆる細マッチョという体型だが、手足が長く戦うのに恵まれた体に見える。
(さがわ?もしかして日帰軍の英雄佐河英明の関係者?)
さがわ、とだけ聞いても日帰軍の英雄と紐づけなかったと思うが、あれだけの力を目の当たりにすると流石に繋げて考えてしまう。織姫が亡くなる以前、現れたフラを倒し封じて殉じたという能力者の軍人。
織姫がそんなことを考えている間に佐河と名乗った男は足の踵で土に陣を描く。織姫がやったように草を抜き描きやすくすることもない。
(陣の円…繋がってない…)
描かれる陣は織姫が描いたものとは違う。よく知られる教本に載っているようなものとも違う。なんというか、こんな簡単な陣は見たことがないのだ。
「お嬢さん、お手を失礼します。私と手を繋いでいれば一緒に陣で野営地まで飛べますので」
「あの、この陣って軍で採用されてるものなんでしょうか」
織姫はこんな時だが思わず聞いてしまった。差し出された手にぽんと手を乗せる。
「いえ、これは一般的な教本などに載ってる簡単なものですよ」
「えっちょっとまってこんな色々省略した陣…っ!」
陣は正確に描くべし。少しの違いで術が発動しなかったり、下手をしたら呪詛に成り果てることもある。織姫はそう叩き込まれて教わったし、きっと軍だってそうだと思う。こんな何がしたいかもわからない陣が発動するわけがないと思いきや、したのだ。
陣が激しく発光し眩しさに織姫は目を閉じたが、次に目を開けた瞬間先ほどとは違う景色が広がっていた。転移が成功したことも驚いたが、人工の明かりが灯り、人の気配がする場所に来たことにほっとした。討伐拠点である野営地まで飛んだのだ。
「佐河さん、本当にいたんですね」
「はい、行ってみてよかったです。この様子だと転移事故かと思います」
「そりゃ運が悪い…お嬢さん名前は?本部からご家族に連絡をしよう」
佐河と織姫を出迎えた男は今回の討伐隊の副官で吉見という。連絡をしてもらえるのなら大いに助かるが、問題は皇側が本気で取ってくれるかどうかだ。
「えっと…織姫っていいます…連絡は皇の統神宮に入れてもらえると助かるんですが…」
織姫がそう言うと、佐河と吉見は顔を見合わせる。統神宮の織姫といえば退治屋組織の皇の頂点、皇一族にとっても大事な姫である。その姿を見たことはないが年齢は二十七か八だったはずであり、尚且つ目の前にいる少女は一見して退治屋的な波動を感じない。
「織姫さんと同じ名前なのですね」
「…そうですね…」
本人なので、と言いたいが、言えない。さすがに信じてもらえる要素が無さすぎて織姫は思わず遠い目になった。
「わかりました。それでは佐河隊長、自分は本部に連絡を入れてきます」
「頼みました吉見副隊長。では織姫さんのことは私が」
吉見と佐河は業務分担をするのにあえて役職を付けて互いを呼んだ。同期で気安い二人の業務中のけじめみたいなものである。
「では織姫さん、まずはお風呂に入りましょうか。森をさ迷って大変だったでしょう」
織姫のドロドロになった姿を見て佐河はまず提案をする。擦り傷に薬を塗るにもまずは洗った方がいい。
「お風呂あるんですか!?」
「今回は三週間ほど滞在しておりましたので入浴セットも持ってきてます。ほら、そこの川から水を汲みあげてろ過して使うんですよ、面白いでしょう」
「うわぁ、すごい!」
「そんなわけでみなさん、これからしばらく入浴禁止ですよー」
佐河が他の隊員たちに言うと、そこかしこから「へーい」と返事があった。佐河と吉見は鍛えているとはいえ細身な方であるが、他の隊員たちはもっと体格がよく、なんというか柄が悪そうに見える。教育されている幹部候補と、現場を担う実務担当者の違いということだろうか。上官と部下の対応がフランクに感じるのは、日本でイメージしていた軍隊と日帰の軍隊は違うからかと思いきや、そういう訳でもないらしい。それは風呂上りの織姫の元に集ったガラの悪そうなオジサンたちが語ることで知った。
「転移事故とはなぁ、お父ちゃんお母ちゃんがさぞ心配してるだろう。ほらこれ、菓子食いな」
「うちの娘が同じくらいだけど、そんなのに巻き込まれたら全国探しにいくぜ」
「今日はこんな場所だけど辛抱してくれな」
織姫の前にお供えのように菓子が集まってくる。ガラの悪いオジサンたちは子持ちのようで、織姫を放っておけないらしい。
「みなさん、女の子を囲まないでください。怖いでしょう」
佐河は織姫を取り囲むオジサンを遠ざけ、1mほど離して配置した。抵抗を試みたオジサンも効果は無く佐河に位置を微調整させる。
「オジサンたち、去年まではフリーの退治屋だったのよ。軍の新しいオカシ対策組織で中途採用するってんで入ってみたらさ、あんな若造に顎で使われるようになっちまったの」
「見た?今の。口調は丁寧でも有無を言わさないし、ああ見えて暴力で隊を支配してるんだよ。見た目で騙されちゃダメよ」
「みなさん、嘘はやめましょう嘘は」
殴って従わせているわけじゃないだろう。だけど先ほどの力押しの退治と転移を見ただけでも、佐河には逆らえないと思わせるだけの力があるのはわかる。退治屋とは基本的に能力が劣る者には従わないものである。フリーの退治屋となれば序列のある組織にいたことが無い者がほとんどであり、その傾向はより高い。その寄せ集め隊を纏めて機能させているのならば佐河は相当腕のいい能力者だろうと織姫は思った。軍隊にしてはざっくばらんとしているのも、一から兵として訓練された能力者たちではないからだ。
織姫は軍隊のご飯を初めて食べた。戦闘糧食というらしい。レトルトのチキントマト煮と白米、とてもお腹が空いていたのもあるが美味しかった。やっと水も飲めたのだが、やはり川の水は飲んではいけないようだ。動物の糞尿のこともあるし、不法投棄などでどんな成分が混ざりこんでいるかわからないということだ。
「森で一人でいる時にお腹を壊したらそれが死因になってもおかしくありません。川ではなく湧き水を見つければ飲むことはできますが、それも見つからないときは朝露や雨水になりますね」
「それも何も持ってなくちゃ難しいだろ、突然飛ばされたんじゃなぁ」
「私はビニール袋はいつも携帯しているんですが、これを地面に埋めて水を得るのも可能です。織姫さんも持っておいて損はないですよ」
「ビニール袋で?どうやって?」
「穴を掘って底にビニールを敷いて、穴を塞ぐようにまたビニールを敷いたらですね、土から上がる水蒸気がビニールに付いて水になるんですよ。それを穴の中のビニールに集めるんです」
さすが軍人はそんなことをするのかと思いきや、それは無いらしい。
「補給が来なくなったらそこまで追いつめられる前に撤退するぜ」
白髪交じりのオジサンにガハハと笑われ、それもそうかと織姫は思う。だったらどうして佐河はビニール袋をいつも持っているのだろうか。ごみ入れだろうか。
そして夜は佐河と吉見が二人で使っていたテントを明け渡されて、織姫は寝床を奪ってしまったと恐縮するが、他の隊員たちのテントも余裕があるので問題ないという。
「心細いとは思いますが、外は交代で見張りもいますし安心してください」
そして織姫は横になると考えを巡らせる前に意識が遠くなっていった。体力の限界はとうに超えていたのだ。佐河に助けてもらえなければ今頃生きていたかもわからない。織姫にとっての十四年ぶりの日帰はひとまず一日目は生きながらえることができたようだ。




