最低だって言ってよ
唯はずるい。いつもドライなくせに、どうしてこうも完璧なタイミングで私の心を覗いてくるのだろう。
「疲れた?」
朝のHRが終わったあと、唯がそう言って私の顔を覗き込んできた。
ふいのことに私は一瞬たじろぐ。
学校来たばかりで何を言ってるんだろう。別にHRをしただけで疲れる程私は体力のない人間じゃない。唯だってそれくらい分かってるはずだ。
なのに彼女は再び言った。大丈夫?と。
「な、にが?」
素直な返事だった。
唯はやはり淡々と答える。
「分かんないけど、」
「……」
「そろそろ限界なんじゃないかって、思っただけ」
「限界?」
「水香、本当に悩んでることはなかなか言わないから。彼氏のこと、とか」
あぁ、やっぱり唯だ。私は思った。
誰よりも私のことを分かってくれているのはやはり彼女だと。
少しの沈黙が流れた。悩みは確かにある。それは太一くんのことももちろんそうだけど、大和のことが大きかった。
「実は……」
引くかな。弟とキスしたなんて。
「……」
弟を、大和を、弟と思えないなんて。
多分、自分でも気付かないくらい、ずっと前から。いや、気付きたくなかったと言った方が正しいかもしれない。
唯は心配そうに私を見た。
私は視線をそらし、言った。
「実はね……太一くんと、うまくいってないんだ」
唯は何度か頷いてから、そう、と一言呟く。
大和のことは言えなかった。いくら唯でも、これだけは言えない。
「何か、他にも付き合ってる子が、いるっぽい」
「……」
「もう私のこと、好きじゃないの……かも」
「……」
「別れ、ようかなっ、て」
自然に声が震えた。泣きそうだと思った唯が、トイレ行く?と言ってくれた。私は首を横に振る。
「いい。大丈夫」
声が震えたのは、泣きそうだったからじゃない。
悲しかったのは、太一くんが浮気をしていることじゃない。
太一くんばかりを責めるような言い方をした、卑怯な自分が許せなかった。
そして大和のことを無かったことにしようとしてる。
真っ黒な罪悪感が堪らない。好きな人を裏切るのが、こんなに辛いなんて知らなかった。
「水香はそんなことされてもまだ、彼氏のこと好きなの?」
「……」
「もし好きじゃないなら、」
「……どうしよう」
「え?」
「私、太一くんのこと、すごく好きなのに……どうしたら、いいのかな」
好きだった。本当に、その気持ちに嘘はないよ。なのに裏切った私は大馬鹿者だ。しかも大和と。
どうしたらいいんだろう。太一くんのことは本当に好き。
なのに私……。
ふと浮かんだのは、昨日間近で見た大和の真剣な表情だった。
身の入らない授業を受け、やっと昼休みになった。
私は唯と購買へ行く。気分は重かった。昼休みの購買は戦場と化すのだ。
「あ、ジュース買ってくる」
「うん」
唯が自販機へ走り、私は購買に並んでいた。他の生徒が入り混じる中、視線を感じて横を見ると、同じクラスのマナだった。
目が合うと、マナはにこりと笑う。華が咲いたような彼女の笑顔は実に綺麗。学年の中でも特に美人だと噂されている。
「人、多いね」
「ね」
「あのさ、水香。聞いていい?」
「水香の彼氏って、隣り駅の男子校だったよね」
「あ、うん」
確かに付き合い始めの調子に乗っていた頃、私は太一くんと携帯で撮った写真をみんなに見せていた。ベラベラとのろけ話もしてたっけ。今考えると、ただの馬鹿だ。
でも何故今になってマナがそんなこと聞くんだろう。
「この前、見かけたんだ。太一くん」
「え?」
「名前……太一だったよね?」
「あ、うん。そうそう」
誰といた?と、聞こうとしてやめた。
こわかった。上手くいってないと思われることも、可哀想な目で見られることも。
「マナは彼氏と順調?」
「うん。今は大学のテストで忙しいみたいだけど」
「いいねぇ。大学生の彼氏」
「へへっ」
すると唯が戻ってきた。私の分のジュースも持って。
途端にマナは、じゃあ、とさり気なく離れて行く。手を振る彼女は女の私から見ても色っぽい。
彼女が去るとき、髪の毛から淡いコロンの香りが漂った。匂いまで美人だとは。
「携帯鳴ってるよ」
「あ、」
唯に言われて携帯を見る。
画面を開けば太一くんだった。電話だ。
途端に襲ってくる罪悪感が出るのを躊躇させた。でも無視するわけにもいかないので深呼吸をしてから通話ボタンを押す。
受話器から、いつもと何の変わりない彼の声が響いた。
「もしもし」
「あー、水香?お前今日、暇?」
「え?」
「飯行かねえ?」
「……うん」
「何か元気ないじゃん」
「そんなこと、ないよ」
じゃあ駅で。そう言って電話を切ったあと、耳に機械音が残った。
唯は何も言わなかったけど、きっと心では気にかけてくれてる。
何とかパンを買い、購買前の人混みから抜け出せた時、再び携帯が鳴っていることに気がついた。
急いでポケットを探り出す。画面にははっきり、大和と表示されていた。
何で?私は戸惑った。大和が私に電話してくるなんてかなり珍しいことだった。
あんなことがあったから?彼は言いたいのだろうか。やっぱり無かったことにしよう、と。
「……はい」
意を決して電話に出た。すると受話器の向こうから大和の気だるそうな声。
彼は言った。
「お前、俺のカード取っただろ」
「は?」
「だから、TSUTAYAのカードだよ」
「……」
確かに、喧嘩もキスもせず、少なくともまだ表面上は私たちが姉弟だった1ヶ月程前。
私はDVDを借りようと勝手に大和の財布からTSUTAYAのカードを抜き取った。
だけどそのまま返すのを忘れていたのだ。TSUTAYAのカードは今もまだ私の財布の中にいる。
黙っていると、やっぱりお前かと呆れた様子で溜め息を吐かれた。
「とりあえず、今日使うから返して」
「でも」
「俺、学校終わったら取りに行くから」
「いいよ。私がそっち渡しに行く」
「珍しく優しいじゃん。いいの?」
「うん。だって」
そこまで言って私は言葉を切った。
太一くんとデートだから。そう言おうとしたのだ。大和がそれを聞いて何を思うかは分かる。だから言えなかった。
曖昧に言葉を濁すと、彼は黙った。
受話器の向こうで大和が小さく息を吐くのが分かる。
「あいつと、会うから?」
「……」
「気使わなくていいよ」
「別に……」
「じゃあ、こっち着いたら電話して」
それだけ言うと、電話は一方的に切れてしまった。やはり不愉快な機械音が耳に残る。
キスをしたことはどちらも触れない。触れてはいけない話題だと、空気が語っていた。
何故かは分からないけど、泣き出してしまいたかった。きっと、大和も同じだろう。本当は私よりもずっと苦しいのだ。
知っていたのに。分かっていたのに。
「さっきの電話、弟?」
階段を上っている時、唯が尋ねてきた。
うん、と私は頷く。
唯は大和を知っている。何度も家に遊びにきたことがあるし、中学の頃は唯がうちに泊まった時は3人でテレビゲームなんかして盛り上がっていた。今ではあまり顔を合わす機会がないけど。
そして唯は、大和が本当の弟じゃないことも知っている。
「元気なの?あのクソ生意気な弟」
「元気元気。相変わらずクソ生意気だよ」
「そ。丸くなってなくて安心」
「時々本気でムカつくけどね」
「仲良いもんね、あんた達」
私は思わず黙ってしまった。そして慌てて頷く。
仲良いもんね、という唯の一言が突き刺さった。血の繋がらない姉弟は……私達は、一体どこまで仲良しでいていいんだろう。
もうお互い、子供じゃない。手を繋ぐのも、同じベッドで寝ることも、いちいち意味を持ってしまうところまで成長してしまったのだ。
だけどそれは別に悪いことではない。少なくとも、世間一般では。
学校が終わり、唯とは駅で別れた。
私は太一くんと大和がいる男子校へと向かう。電車に揺られながら溜め息を吐いた。
まずは大和にカードを返して、早く退散しよう。2人が鉢合わせするのはあまりよろしくない。太一くんは何も思わないだろうけど、特に大和は。そして私にとっても。
しかし男子校というのは緊張する。共学しか通ったことのない私にとっては、特異な雰囲気が漂っていると思う。
駅を下りると、冷たい風が頬を撫でた。あぁ、もうすぐ11月になるんだ。
ブレザーを着た下校中の男子学生達とすれ違いながら、私はそんなことを思った。
学校が近づいてきた頃、私は大和に電話をかけた。
校門まで来た時、大和が電話に出る。すぐに行くとのことだった。
仕方がないので校門で待っていた。
女子がいるのが珍しいのか、はたまた彼氏待ちと思われたのか、通り過ぎる人みんながニヤニヤと笑いながら好奇の目で私を見てくる。
「誰待ち?俺呼んで来ようか?」
そう声をかけてきたのは、金髪にピアスのいかにも頭の悪そうな男だった。一人ではない。横にも二人仲間がいる。負けず劣らず馬鹿っぽい。
あまり柄の良い学校じゃないということは知っていた。
だけどまさか絡まれるとは思わなかった。
もう少しスカート長いやつ履いて来たら良かった。そう思ったのは、金髪男のニヤニヤした視線が、女子高生特有の短いスカートで止まったからだ。
やばい、恥ずかしい。早く来てよ大和。
そう一心に願いながら私は無視を決め込んだ。ナンパも輩も無視が一番いい。すぐに諦めて帰るだろう。
だけど金髪男たちはなかなか帰ろうとしない。わざわざ視界に入ってきてまでしつこく話しかけてくる。
その時、後ろから聞き慣れた声がした。
「あー。女子高生、発見」
私が振り返ると、金髪男達も振り返る。
太一くんだった。
私だと分かっていたのか、顔を見た途端余裕の笑みを浮かべた。
私もつられて笑顔になった。
金髪男達が面白くなさそうに舌打ちをする。
彼はゆっくりと近付き、金髪男達を睨みつけた。
「すっげ可愛い子がいると思ったら何だ、水香かよー」
頭をかきながらそんなことを毒吐く彼に、金髪男が目をそらして言った。
「つまんね。太一の女かよ」
「そ。いいだろ」
「あぁ、モテる男はいいよなぁ」
金髪男が私を見ながら意味ありげにそう言ったのが分かった。だけど何も気付いていないふりをした。
きっと太一くんのことを校門で待っている女は私だけじゃない。金髪男にすら心の中で馬鹿にされてるんだ。そんなの全部、自分で分かってるよ。分かってるけど、どうしようもできないから苦しいんじゃないか。
太一くんに邪魔だと言われ、金髪男達は帰って行った。
彼は子犬みたいな顔で私に笑いかける。
そして少し乱暴に私の髪の毛をくしゃりと撫でた。
「びっくりしたよ。初めてじゃん、お前がうちの学校来るの」
「うん。弟に用事もあったから」
「何だ弟かよ。そんなに俺に会いたかったのかと思ってちょっと萌えたのに」
「はは。もちろんそれもあるって」
太一くんと話しながらも私はどうやって大和にカードを渡すかで頭がいっぱいだった。どうしよう。このままじゃ鉢合わせしてしまう。
私のそんな不安は、間もなく現実のものとなった。
こちらに向かって歩いてくる大和の姿が見えたのだ。心臓が跳ねた。
「大和……」
小さく呟くと、太一くんが私の視線の先にいる大和をとらえた。何も知らない彼はいつもの調子でへらりと笑う。
「おぉ、水香の弟か」
「どうも」
大和は無愛想にぺこりと頭を下げると、すぐ私に向かって右手を出してくる。カードを渡せという意味なんだろう。
私は慌ててカードを大和に手渡した。いや、突き出した。早くこの場を去りたかったのだ。
大和はカードを受け取ると無造作にポケットに突っ込む。そして一度だけ、私をじっと見た。
「カード、ごめんね……」
「別に」
それだけ会話を交わすと、大和はすぐに背中を向け、校門を抜けてしまった。
その後ろ姿を見ているとどうしても引き止めたい衝動に駆られた。何故かは分からない。追いかけたってどうすることもできないのは分かっているんだけど。
「もしかして俺、嫌われてる?」
大和の姿が見えなくなったあと、太一くんが苦笑いをしながら言った。
私はそんなことない、と首をふる。
早くここから離れたかった。
太一くんと2人でデートをして、笑えたらそれで今日は幸せだと思った。
「なぁ水香」
「ん?」
「……もう気にしてない?」
「なにが?」
「あれだよ……俺が浮気したこと」
してない、と言えば大嘘だ。だけど今の私に太一くんを責める権利はない。私も、大和とキスをしてしまったのだから。
罪悪感がまた、私の胸を刺した。
私はこの事実を墓場まで持って行こうとしているんだ。
最低だって言ってよ
(そしたら私、救われる気がする)
ファミレスへ入った時、、太一くんの携帯が鳴った。
彼はちょっと出てくると言って席を離れた。
戻ってくると、開口一番にごめんと苦笑いする。急に予定が入った、と。
注文する前で良かったよって、私は笑った。