忘れちゃいけないことがある
水香の様子がおかしいのは一目瞭然だった。
暗い顔をして帰宅した水香は、リビングを通り過ぎて自分の部屋へ駆ける。
両親は仕事で、家には俺しかいないのに避けるってことは、原因は少なからず俺にあるんだろうか。
テレビを点けっぱなしにしたまま俺は水香を追いかけた。
自分の部屋へ入ろうとする水香の腕を強引に掴む。
「何かあったのかよ」
「何もないよ。なんで?」
白々しいくらいの笑顔。
俺は少し迷ってから手を離す。
何か言う前に水香はさっさと自分の部屋に戻ってしまった。
ばたん、と目の前で閉じられたドア。立ち尽くしたままの俺の心に陰る黒いもの。
不安、なのか心配なのか何なのか。
ふぅ、と短く溜め息を吐いて頭を掻いた。
(俺には全部、吐き出して欲しいんだけどな)
義弟とか、家族とか、それ以上とか、そういう次元の問題じゃない。
別の人間なのが、時々すごくもどかしい。
夕食のあと、俺がひとりで部屋にいると暫くして水香が入ってきた。風呂上がりの髪の毛がまだ少し濡れている。やはりその表情は浮かない。
ベッドに寝ころんでいた体をすぐに起こした。立ったままの水香を無言で見つめていると、ベッド脇のコンポを指さされた。
「うるさい。音小さくして」
人の部屋にいきなり入ってきて、挙げ句うるさいとは。
呆れながらも言われた通りボリュームを下げる。
「なに思い詰めた顔してんの」
わざと笑って聞いたけど、彼女は笑わなかった。
「ねぇ大和」
「ん」
「もしもの話ね」
「うん」
水香が拳をぎゅっと握る。そして予想外の質問を投げてきた。
「もし、私達の関係がみんなにバレたらどうする?」
俺は一瞬言葉に詰まった。
俺と水香の間に緊張が走る。
「みんなって?」
「親とか、友達とか」
「……誰かにバレたのか?」
「違うよ!ただ……どうするのかなって、思っただけ」
「俺は、」
短く息を吐いた。あぐらを組んでから再び水香を見る。
見えない何かに怯えている彼女はひどく弱々しく映った。
「……俺は、水香が思ってるよりもずっとお前のことが好きだし何よりも大事だよ」
「……うん」
「どんな形であれ、水香の傍にいるつもりだ。誰に反対されても。でももしお前が辛いなら、身を引くけど」
綺麗事を並べながら、本当に水香から身を引くなんてできるのか正直分からなかった。水香に出会ってからのこの何年間、何度も諦めようとしたけど結局離れられなかったのだから。
でも今は、こう答えるのがベストだと感じた。
「そっか。うん。それ聞いてなんか安心した」
本当に?
「ごめんね、変なこと聞いて」
「……水香はどうするんだよ」
「分からない。でも私も変わらず愛してる。絶対」
もう寝るね、と彼女は背中を向ける。思わず引き止めると、変わらぬ笑顔で振り向いた。
「本当に聞いただけ?」
「うん……それだけ」
「なぁ水香。もしお前が一人で何か悩んでるなら言えよ。これは俺とお前、二人で考える問題なんだからな。本当に誰にもバレてないんだよな」
「信じて。大丈夫だから」
水香は俺の目を見ないまま部屋を出た。
忘れちゃいけないことがある
(僕らはいつでも崖っぷち)