世界が色づくその前に
『水香とあなたは姉弟なのよ!』
俺に向かって母親が怒鳴ったのは、あの時が最初で最後だった――
小学五年生。夏休みもあと1日で終わる、8月30日。
俺は宿題の中で唯一やり残した夏休みの工作というものを目の前にして呆然としていた。
あぁ、面倒臭いな。なんて思いながら何となく水香の部屋へ向かう。
案の定、水香もせっせと工作に取りかかっているとところだった。部屋中に木工用ボンドの臭いが充満している。
「なあに?」
顔も上げずに水香が言った。
「みーちゃんも夏休みの工作?」
「うん。大和は?」
「まだやってない」
おいで、と顔を上げて手招きする水香の笑顔。何だか嬉しくて、彼女の隣りに腰を下ろした。
「何作ってるの?」
「貯金箱だよ!」
見て分かんない?というように水香が作りかけのそれを見せてくる。もの凄く下手くそだった。
「大和の分も作ってあげようか」
「うん!」
正直、自分で作った方が上手く作れると思った。だけど得意気な水香が可愛くて可笑しかった。
それにこれで宿題をやらずにすむなら、たとえいびつな形の貯金箱でも、何でもいいと思ったのだ。
牛乳パックを切ったり、折り紙を貼り付けたりと、随分忙しそうな水香の隣りで貯金箱が出来上がるのを黙って見ていた。
そこに会話はなかったけど、その時間はとても穏やかで、安心できた。
その時はただ単純に、水香の隣りにいられることが嬉しかったんだ。
初めは本当にそれだけで、良かったのに。
水香が作ってくれた貯金箱は、夏休みが終わって新学期が始まって不必要になってからも捨てなかった。
ずっと自分の机の上に置いてあったそれを見つけたのは母親。
俺は言ったんだ。
「この貯金箱をお金でいっぱいにして。将来水香と結婚するんだ」
冗談半分、本気半分。
笑ってくれるかと思った。
だけど母さんは今まで見たことないような恐い顔をして俺を見下ろした。
「無理に決まってるでしょ。馬鹿なこと言わないで」
その冷たい言い方にむっとした俺はとっさに反抗した。
「できるよ!だって本当の姉弟じゃねーもん!」
それがいけなかった。
母さんの白い手が俺の頬を叩く。
乾いた音が部屋中に響いた。
一瞬何が起こったか分からず、じんじんと熱を持つ頬が妙にリアルだった。
「水香とあなたは姉弟なのよ!」
もし、本当の姉弟だったらきっと母さんもここまで怒らなかった。
母さんも恐かったんだろう。本当の姉弟じゃないという事実が。
家族4人で過ごす年越しは特に何をするでもなく、お約束通り紅白を見て年越しそばを食べた。
父と母はお酒を飲みながら眠たそうに日付が変わるのを待っている。
テレビには、日本の歌姫と騒がれている女性歌手が写っている。水香の好きな歌手だ。
ブラウン管の中、目を瞑って一心に唄う彼女はやはり別世界の人間なんだろう。
「絶対整形だよな、この女」
「……」
「しかもこの歌なんかのパクリじゃねぇ?」
「……」
「あ、今歌詞間違えた」
「うるさいよ大和」
「……」
テレビにかじりついてるミーハーな水香に一喝され、仕方なくそばを啜った。
すると母が急に何か思い出したように声を上げる。
「チャンネル変えて、チャンネル」
「は?なんで」
「ジャニーズ見よ、カウントダウン!」
あんたいくつだよ、という言葉を慌てて飲み込む。
強制的にチャンネルを変えられ、テレビ画面はジャニーズ一色になった。
目がハートになっている母親の隣りで、父はつまらなそうにつまみをかじっている。
「若い男の子ってやっぱりいいわねえ。大和もオーディション受ければ?もしかしたら受かるかもしれないじゃない」
「そんなわけないだろ」
「勝手に大和の写真貼って応募しちゃおうかな」
「やめてくれ。マジで」
水着の馬鹿は母親譲りなんだろう。きっと。
相変わらずテレビを見ながらキャーキャー言ってる母さんに、水着まで呆れてため息を吐いていた。
もっと呆れた父親がカウントダウンも待たずに『もう寝る』と言い立ち上がると、母さんは我に返ったのか、慌てて父親を追いかけた。
「ちょっと2人とも、カウントダウンしないの?」
「だってお父さんが寝るって言うんだもん。お母さんも寝るね。おやすみ」
「ちょっと……」
そんなのあり?という水香の呟きは、リビングのドアが閉まる音にかき消された。
ぷつりと会話が消え、リビングにはテレビの音だけが響いている。
俺と水香は顔を見合わせ苦笑いをした。
カウントダウンが始まった。
10、9、8、と確実に新年に近付いていく。
リビングの静けさとは裏腹に、テレビの中では大勢の芸能人がスポットライトを浴びて日付が変わるのを今か今かと待ちわびていた。
7、6、5…
あぁ、今年もいよいよ終わりか。
悪くなかったな。なんて少しだけ干渉に浸りながら水香を横目で盗み見る。
4、3、2
水香は柿の種を口に運びながら、つまらなそうにテレビを見ていた。
1、0…
日付が変わった瞬間、画面の向こうではスモークやら花吹雪やらが飛んだ。
俺と水香はただ黙ってそれを見ているだけだった。
「大和」
「ん」
「あけましておめでとう」
「おう」
「おう、じゃないし」
「はいはい、おめでとう」
「何それ。むかつく」
年が変わっても、変わらないやり取り。
だけど水香と2人で新年を迎えられたことが素直に嬉しかった。
「大和」
「なに」
「ね、海行きたい」
世界が色づくその前に
(どこまでも行こうか)