沈む想いは恍惚と
水香があいつと別れたからと言って、俺の中のもやもやした感情が消えたわけじゃなかった。嫉妬なんていうそんな単純なものじゃなかったんだな、と改めて気付けたことに少し安心する。それはそれで、複雑なんだけれど。
お互い好きだということは分かってる。でも水香は一度も口には出さない。俺も付き合ってほしいなんて馬鹿げたことは言わない。
低迷してるんだ、簡単に言えば。
正直……どうしたらいいか分からない。
未来がないならもう諦めるべきなのか。
たかが恋愛なんかって思う時もある。別に死ぬわけじゃない。
でもいざ水香のことを考えたら、やっぱり俺は水香が好きなんだって思う。多分、絶対、理屈じゃないんだ。
日曜日。
携帯の着信音で目を覚ました。俺の枕元でけたたましく鳴り響く携帯電話。まだ寝起きのまま薄目を開けると窓から射し込む太陽が眩しくて再び目を閉じた。
しかし鳴り止まない携帯に、仕方なく起きる。ディスプレイを見ると、亮太だった。
「……何だよ」
わざと不機嫌に電話を取れば、それと反対に底抜けに明るい亮太の声が寝起きの頭に響いた。
「まだ寝てたのかよ」
「うるせぇな」
「今日暇だろ? 飲み会来いよ」
「は?」
「敦のやつが女呼んでくれるらしいぜ」
「いや、俺は……」
「お前も呼べって言われてんだよ。絶対来いよ。お前が欲しがってたCD貸してやるから」
そう言い残すと亮太は一方的に電話を切った。俺は濃いため息を吐いてベッドの上に電話を投げる。
何であいつ、あんな自分勝手に生きられるのか知りたい。本当にそればっかりは才能だと思う。憎めないから、尚更だ。
すっかり目が覚めてしまった俺はまだぼーっとする頭で部屋を出た。リビングへ行くついで、水香は出掛けたんだろうかと一切物音のしない彼女の部屋を覗いてみれば、布団にくるまっている水香の姿を見つけた。
(まだ寝てんのか)
声はかけないまま下へ降りた。母親はパートに行っているらしく、リビングには父親しかいない。休日の親父らしく、ソファーに寝転んでテレビの駅伝を見ていた。
「やっと起きたのか、大和」
「はよ……」
「水香は?」
「まだ寝てる」
交わした会話はそれだけだった。父親は再びテレビに目をやり、俺は食パンをトースターに入れる。
再婚する前、親父が仕事にいる間、家の中で俺はずっと一人だった。昔休日も仕事へ行っていた親父が俺は嫌いだった。今なら、母親が死んで親父も苦労してたんだって少しは分かるが全くと言っていい程コミュニケーションをとっていなかった俺たちの間には見えない溝が残っているんだろう。そもそも親父は、子育てに向いている性格ではない。
「俺、今日夕方から出かける。遅くなるって母さんに言っといて」
「分かった」
親父の返事はいつもこれだ。信用されているのか、もしくは俺に興味がないのか、余計なことは尋ねてこない。誰と行くんだとか、どこに行くんだとか、あんまり遅くなるなよ、とか。遊びたい盛りの高校生からしたら確かに楽だけど、いつも俺は何故か、聞かれることのない質問の答えを頭の中で用意しているんだ。それが親父の前で活かされたことは一度もないけれど。
食パンを半分ほどかじった所で、水香が降りてきた。寝起きの頭を掻きながら、隠すことなく大きな欠伸をしている。
もっと女らしくしろよ。と言えば即座に、うるさいと返された。
親父がソファーから顔を出し、水香に話しかける。
「お前今日出かけるのか?」
「あー、うん」
「どこに行くんだ。まさかデートか?」
「違うよ。友達とバスケの試合見に行く」
親父はどこかホッとした表情を見せた。
娘だからなのか何かと水香のことは気にかけている親父。いつか帰りが遅くなって親父に注意された時、あとで水香は愚痴を零していたが俺は少し、羨ましかった。
本当の娘じゃないのに。
とは言わなかった。言えなかった。
時計の針が午後6時を回った頃、携帯が鳴る。亮太だ。
出れば、今近くに来たから出て来いとのことだった。
水香はバスケ観戦とやらで、とっくに家を出ていたし、最近健康志向な父親はジョギングに出ていた。
スペアキーを手に家を出る。外は身震いするほど寒かった。
もう12月だ。あと少しでクリスマスだと、水香が浮かれていたのをふいに思い出した。
駅に向かって歩いていると、向こうから亮太の姿が見えた。おう。寒いな。なんて言いながら合流する。
ニット帽を深く被った亮太がにやーっと笑う。どうやら相当楽しみらしい。
「敦が呼ぶ女って、絶対外れないべ。あいつ面食いだからよ」
「へぇ。だからテンション高いのか」
「当たり前だろ。お前もやる気出せよ」
「あー、うん」
他愛もない話で時間を潰しながら目的地まで向かった。途中電車に乗って、ふた駅で降りた。改札を抜けると敦と義信が待っていた。合流し、女達と待ち合わせているカラオケに行く。
受付へ行くと、もう既に女のグループは部屋で待っているとのことだった。
やたら、全員可愛いから! と敦が連呼するので正直なところ俺もちょっとテンションが上がってきた。
部屋には敦が先頭で入った。BGMが鳴り響くカラオケボックスで、当然の如く照明は薄暗い。
敦、亮太、義信に続いて最後に入る。ソファーにずらりと並んでいる女の子達を見て、隣にいた義信があからさまに鼻の下を延ばしていた。
女の子達は確かにみんな、可愛かった。
雑誌に載っているようなワンピースを着て、同じようなメイクをして、同じように髪を巻いて、同じように笑っていた。どこにでもいそうな男モテ系を意識した女子高生だ。
敦が張り切って仕切ったおかげで女の子達の機嫌もうまいこと上がりなかなか盛り上がっていた。カラオケボックスの安い酒を飲み、男も女もテンションが上がっている。
見ると、敦が真っ先に一人の女の子を口説きにかかっていた。特定の女を作らない敦は、口が上手い。今日あの女が敦と一緒に帰るだろう光景が目に見えた。
「大和くん、飲んでる?」
ほんのり頬を染めて近寄ってきたのは、黒髪を唯一ストレートに下ろしている女だった。名前は……何だっけ。
呆然と女の顔を見ていると、それに気付いた女は自ら名乗ってくれた。
「菜月だよ。さっき自己紹介の時言ったのに覚えてないの?」
「覚えてたよ」
「本当に?」
「本当だって」
あぁ、面倒臭い。
しかし菜月は俺の言葉を信じたのか、名前なんてどうでもいいのか、にこりと笑う。子供をなだめるみたいに笑う女だと思った。
「もしかして今日あんまり乗り気じゃなかった?」
「そんなことねぇよ。こういう場に慣れてないだけで」
嘘だった。男子校の人脈をなめちゃいけない。
「彼女いる?」
「いない」
「一番かっこいいのにね」
「はは。それ言ったの何人目だよ」
「もう、」
菜月に肩を叩かれ、俺はまた愛想笑いをした。
すると菜月は持っていたグラスを机に置くと、更に詰め寄ってくると俺の耳元に口を近づけた。甘いシャンプーの匂いがした。
「君たちって、正直女遊び激しいでしょ」
「そんなことねぇよ。何で?」
「だって」
菜月の視線の先には、狙った女の肩に手を回している敦の馬鹿面がある。
俺は苦笑いした。
「敦は特別。後は普通かな」
「大和くんも普通?」
「あぁ」
「本当に彼女いないの?」
いないよ、と俺は言った。
菜月はふぅんと唸ったあと、少し顔を離す。
「今、きみ酔ってる?」
「多分」
俺は酔っていた。安物の生ビールに。この雰囲気に。菜月の甘いシャンプーの香りに。
「二人で抜けようよ」
菜月がまた笑う。くらりと脳みそを揺らされた気がした。
俺は水香のことを考える。しかしそれも、目の前にいる女にかき消された。
「……いいよ」
出会って数時間の菜月の手に引かれてカラオケボックスを出た。多分誰も俺たちが出たことに気付いていない。あとでメールでも入れとくか、と緩くなった思考回路でそんなことを考えた。
賑やかな駅のホーム。その裏に隠れるように俺たちは路地に入り込む。
どちらからともなく腕を回し、どちらからともなく長いキスをした。
「大和くんは、聞かないの?」
「……なにが?」
「私に彼氏いないのかって」
「聞かねぇ」
「どうして?」
「どうしてって、知りたいと思わないからかな」
「きみって随分はっきりものを言うタイプなのね」
「そうか?」
「そうだよ。私は好きだけど、そういう人」
その時俺の携帯が鳴った。
敦たちかと思って見れば、予想外なことに水香だった。時間はまだ9時前。
しばらく鳴り響く画面を見つめていると、覗き込んできた菜月が眉をしかめる。
「出ないの?」
「……」
「やっぱり彼女いたんだ」
「違うって」
投げ出すように言って電話に出た。
水香は少し疲れたような声で、リビングにあったDVDはどこかと聞いてきた。
「確か、俺の部屋の棚に……」
そこまで言って俺は言葉を止めた。DVDの近くにクラスのやつから借りたAVを置きっぱなしにしていたのを思い出したのだ。
「あ……やっぱり」
「なに? 棚にあるの?」
「いや、間違えた」
「じゃあどこよ」
「あー……と、忘れた」
「は? 困るんだけど」
「俺が帰ってから探すから。今すぐ必要なわけじゃねぇだろ」
「まぁ……。友達に貸すんだから明日までにちゃんと探しといてよ。あんた今日何時に帰ってくるの?」
「さぁ」
「何それ。今どこにいるのよ」
「駅」
「友達と?」
「まぁ……うん」
少し黙ったあと、水香は素っ気なくふぅんと唸った。
その返事を聞いて俺は何故か焦ってしまった。今女といることを水香に悟られたくなかったのだ。
「やっぱり今から帰るよ」
隣りの女が眉をひそめたのが分かった。しかし気にせず電話を切り、上着のポケットに携帯を入れる。仏頂面の菜月が俺の腕の裾を引っ張った。
「ねぇ本気で帰るの?」
「うん。悪いな」
「……そう。じゃあ番号教えてよ」
「あぁ……うん」
また電話するね、と菜月は去って行った。みんなのところへ戻ったのか、そのまま帰ったのか分からないけど、別に俺が知ることじゃない。
俺も改札に向かって歩き出した。冷えた手をポケットに突っ込んで。
終電にはまだ早い時間だったけど、まぁいい。
仕事帰りのサラリーマンと並んで、片道10分の電車に揺られながら今日のことを思い返した。特にこれといった感情は湧かなかった。
家に帰ると水香だけが一人でテレビを見ていた。聞けば母親はパートの忘年会、親父は残業らしい。
俺はすぐさま自分の部屋からDVDを持ってきて水香に渡す。受け取る時、彼女は何か言いたげに俺を見つめた。
「なに?」
「別に」
そう言うと、ふいと顔を背ける。キッチンへ行き、缶に入ったクッキーをつまみ食いしていた。
俺はリビングの真ん中に突っ立ったまま水香の背中を見つめる。まだ少し酒が残っているせいもあるのか、無性に押し倒したい衝動に駆られた。やばいな、俺。さすがにそれはやばい。自分を抑えるため、話しかけることで気を紛らわせた。
「水香は今日何してたんだ?」
「バスケ観戦。かっこいい人いっぱいいたよ。しかも他校のバスケ部に電話番号聞かれちゃった」
「……ふーん。良かったじゃん」
言ったものの、そんなことひとつも思っていない。何だよ、くそ。
「大和は、何してたの。今日」
「合コン」
「……どうりで酒と香水の匂いがするわけだ」
「……悪いかよ」
「どこで何しようとあんたの勝手だし」
あまりにも素っ気なく水香が言うから、俺もむきになってしまった。絶対言うはずのなかった言葉が口をついて出てしまった。
「その中の一人と、キスした」
それでも水香はいつもと何ら変わりなく見えた。一瞬間が開いたものの、そのあとすぐに、そうなんだと呟く。
「少しは妬けよ。かわいくねー」
上着も脱がないまま、そう言ってリビングを出ようと背を向けた。ひどく子供っぽくて、自分でも嫌になる。
そのまま自分の部屋に上がり、ベッドにダイブした。電気も点いていない暗い部屋でしばらくうつ伏せのまま動かなかった。
まだあの甘いシャンプーの匂いがする。それは俺の心をひどく重くした。
沈む想いは恍惚と
(ごめん、水香)