そばにいる
家に帰ると、リビングからはカレーの匂いがした。母親がキッチンに立って、お帰りと微笑む。
「遅かったね」
「映画見てきたんだ」
「あら大和、彼女でもできたの?」
「は?」
「だってあなた、映画とか見に行くタイプじゃないでしょう」
ただの友達だよ、と適当に流すが、母親はニヤニヤと笑いながらお玉片手に近づいてきた。あぁ、鬱陶しい。
「で、どんな子?」
「だから違う……」
その時、二階から水香が降りてきた。俺を見て、帰ってたんだ と言いながら冷蔵庫からお茶を出す。
「ねぇ水香。大和彼女できたんだって」
「へぇ」
水香のその返事はあまりにも素っ気ないものだった。少しも気にしない様子で彼女はペットボトルをラッパ飲みする。
一人テンションの高い母親は、更に寄ってきた。
「今度連れて来なさいね。あなた今まで一人も紹介してくれたことないじゃない。水香なんて今まで何人連れて来たことか。今の彼氏だって……」
「あ、私別れたから」
唐突に水香は言った。母親が聞き返すよりも先に、俺が声を上げる。
「は? いつ?」
「今日」
やはり彼女の顔色は変わらない。驚いた母親は俺から離れ、今度は水香の方に駆け寄って行った。
「振られたの、水香?」
「違う。私から別れたの」
「なんだ」
じゃあ大丈夫ね、と興味を失ったようにキッチンへ戻る母親。振ったからって、平気だとは限らないのに。
それでも水香は小さく頷いて、ペットボトルを持ったまま二階へ戻って行った。
水香が階段を上る音を聞きながらしばらく突っ立ったままの俺は、慌てて追いかけた。
ノックもせずに水香の部屋のドアを開ける。不躾に入ってきた俺を見て、彼女は怪訝そうに眉を潜める。構わず俺は近寄った。
「なぁ別れたって……」
「本当だよ」
俺は平然とした様子で答える水香に詰め寄った。
あっけらかんとした様子で、水香は自分の爪を弄っている。
「ちゃんと別れられたのかよ」
「うん」
「お前、なんて言ったの?」
「普通に、別れるって言った」
「そしたらあいつは?」
「……」
「あいつは、何て言ったんだよ」
そこまで聞いて、水香は黙った。言葉を探しているようにも見えた。だけど彼女はやはり何も答えない。
水香が話し出すのを待っていると、水香の右頬が微かに赤くなっているのに初めて気付く。
心臓が、大きな音を立てて鳴り始めた。
それ、と戸惑いながら右頬を指差せば、少し焦ったように俯く水香。
「お前、殴られたの?」
「は? なんで」
「だって、赤くなってんじゃん」
「……太一くんだって、わざとじゃないよ。手が、当たっただけ」
何で……そこまで庇うんだ。
別れたんだから悪口のひとつくらい言えばいいのに。何で今もまだ、あいつのこと庇うんだよ。何で俺に隠すんだよ。
無性に腹が立った。別にあいつと別れて、水香が俺のもんになるわけじゃないのに。俺が水香と付き合えるようになるわけないのに。
それでも、俺にとって誰より大事な水香を殴ったあいつは許せない。それを擁護する水香にも腹が立った。
だからわざと冷たい言葉を吐いてしまったんだ。
「お前、まだあいつのこと好きなのかよ」
「何でそう思うのよ」
「だって、好きじゃなかったら庇わねえだろ」
「別に庇ってるわけじゃないけど」
「嘘つけ。何だかんだ言って離れられないんじゃねぇの? 本当は別れられなかったんじゃねぇの? お前、男いないと生きてけないもんな。男の為なら何でもするもんな。お前のそういうとこ、尊敬するよ」
止まらなかった。こんなことを言うつもりなんてなかったのに、言い終わるや否や、水香が俺の頬を思いっきりビンタする音が響いた。
「私も尊敬するよ。あんたのそういう、無神経なところ」
叩かれた頬がだんだん熱を帯びてくる。手加減なく叩いた水香のビンタは、俺の心臓にものすごいダメージを食らわせたのだ。
言って、たたかれて、初めて後悔した。だけどもう遅い。
水香は振り下ろした自分の手を握ったままだ。睨むでも泣くでもなく、水香が俺を見るその目は冷たかった。
「何であんたって、そんなにガキなの」
水香の目が俺を責める。
すぐに謝れば良かったんだ。そんなこと言うつもりじゃなかったって。本当にそんなこと思ってるわけじゃないって、謝れば良かったのに、それができなかった。
「じゃあ、自分はガキじゃないっていうのかよ」
「ガキだよ。だから今まで、太一くんの言うことなら何でも信じてきた。私が泣きながら、太一くんに無理矢理犯られたなんて言ったらあんた悲しむでしょう? 怒るでしょ? そんなの嫌だった。私が庇ってるっていうんなら大和の為に、庇ったんだよ」
「……」
水香は泣いてはいなかった。俺から見た今の水香は、すごく強い女に見えた。でも、そんなことないんだ。強いなんて、そんなこと全然ない。なのに強いふりをするから、だから俺はいつだって水香のことが心配で堪らないんだ。
「……水香」
無理矢理犯られた彼女がどんなに辛かったか。殴られたとき、どんなに痛かったか。なのに水香は、自分じゃなくて俺の為に隠そうとしてたんだ。
俺はたまらず水香を抱き締めた。部屋のドアはちゃんと閉まってなく、少し隙間が開いてたし、下には母親がいる。だけど、そんなこと問題じゃなくなるくらい。
「やめてよ」
「無理」
「大和、離して」
「大丈夫だって」
「やめて……本当に、好きになっちゃう」
そう言って彼女は、俺の背中に腕を回した。
そばにいる
(大人になってしまう前に)