姉と弟、生徒と教師
「おはよう、大和くん」
もはや日課となってしまった吉岡との朝の挨拶。混み合う駅で、彼女はいつも俺を見つけては駆け寄ってくる。冷たい風が吹き抜け、首に巻いたバーバリーのマフラーを抑えながら吉岡は言った。寒いね、と。
「冬だからな」
いつもの如く素っ気ない返事をする。だけどこれは吉岡のことが嫌いだとか、そういうことじゃなくて、ただ単にこういう性格なだけだということを彼女は分かっているらしい。
「大和くん、今日予定ある?」
「別に」
「じゃあさ、映画見に行こうよ」
「映画?」
「うん。だめ?」
「……」
「もしかして、彼女いる?」
「いや、」
「じゃあ、好きな人は……?」
水香の顔が浮かんだ。少し迷ったあと、首を横に振ると、吉岡は嬉しそうに笑う。なんて分かりやすい奴なんだ。
少しからかうつもりで、同じ質問を俺がすると、吉岡は慌てて否定する。
「好きな人っていうか、憧れの人なら……」
「ふーん」
憧れか……俺も、どちらかと言えばそれに近いかもしれない。何だか無性に、こいつが羨ましく思えた。俺みたいに誰にも言えない相手じゃなくて、誰かを普通に好きになるって、本来はこういう感じなんだろう。
「……いいよ」
「え?」
「映画。俺も今日暇だし。観たいの考えといて」
「……うん!」
少しは気分転換になるかもしれない。こいつがどう思おうと、俺にとってはそんな軽い気持ちだった。
放課後、待ち合わせたコンビニの前に吉岡の姿があった。近付いて来る俺に気が付いてないようで、寒さでじっと突っ立ったまま顔の前で手のひらを擦っている。わざわざコンビニの前で待たなくても、中に入ってればいいのに。
「よぅ」
声をかけると、みるみる笑顔になった。何だか犬みたいだ。忠犬ハチ公。
「悪い、寒かった?」
「全然大丈夫!」
これが水香なら多分、ありったけの文句を吐きながら俺の肩を叩いてくるな。待ちくたびれたとか何とか言いながら。
俺たちは並んで歩き出す。吉岡の話に適当に相槌を打ちながら、映画館へと入った。途中すれ違う学生カップルの中に、水香とあの男の姿はないだろうかと探してみたけど、それらしき二人は見つからなかった。ここまでくると俺、相当やばいな。シスコンにも程がある、と世間のやつらは思うだろう。
「で、見たい映画決まった?」
「うん」
吉岡が指したのは、今流行りの恋愛映画だった。正直うんざりした。この手の映画は苦手なんだ。けど全く予想していなかったわけじゃないだけに、俺はあっさり頷くことができた。仕方ない、見たいって言うなら見るしかねぇだろ。
俺はコーラ、そして吉岡はやはりメロンソーダを選び、それからポップコーンをひとつ買った。映画館の中には、平日だということもあり人はあまりいなかった。
交わす会話も少なく、俺たちは一番後ろの席に座る。コーラを三分の一程飲んだ時、映画が始まった。
内容は、童貞の男子高校生が担任の若い新米教師と恋に落ちるというどこにでもありそうなものだった。開始10分程ですぐに寝てしまうだろうと思っていた俺だったが、何だか妙に引きつけられてしまって結局最後まで見てしまった。
特別面白いと感じたわけでも、隣りに座る吉岡が泣いていたように感動したわけでもない。ただ、周りから反対され、こそこそと付き合いを続ける男子学生と教師の姿が何だか自分と重なった。
「感動しちゃったよ」
映画館を出たあと、吉岡は言った。
「大和くんは?」
「普通かな」
素っ気なく、俺は答えた。
確かに、生徒と教師の禁断の恋というのは普通よりも色々と不都合なことが多いんだろう。だけど奴らは、所詮他人同士なんだ。いくら周りから反対されたって、男が高校を卒業するのを待てばいい話。
純愛だなんだと言ってもちっとも共感はできなかった。俺は童貞でもないし、好きになった相手は教師じゃないんだ。
すっかり暗くなってしまった夜の街を歩きながら、俺たちは駅へ向かった。
「大和くんって、今までどんな子と付き合ってきたの?」
「普通だよ。普通の子。別に特別好きなわけじゃなかった」
「……なのに、付き合ってたの?」
「うん。何となく。そういうことってあるだろ?」
「私は、ない。ていうか……付き合ったことないんだ」
それは意外だった。吉岡は可愛いし、性格もまぁ悪いわけじゃない。寄ってくる男はいるだろう。
「俺も、本当に好きになった奴とは付き合ったことないよ」
「……好きな人、いたの?」
真剣に聞いてくる吉岡に声に促され、思わず頷いてしまった。
「何で付き合わなかったの?」
「……その子に他に付き合ってる彼氏がいたから」
「そっか……」
「あぁ……」
嘘、ではない。でもそれが全部でもない。まさか義姉だから、とは言えない。
丁度時間が帰宅ラッシュだったため、駅は人でごった返していた。小さく溜め息を吐き、切符を買う。俺とは違うホームへ行く吉岡は、別れ際にこう言った。
「大和くんは今もまだ、その人のことが好きなんだね」
「え?」
「何となく。でも私、諦めないから」
「諦めないってなんだよ」
「私大和くんのこと憧れじゃなくて、本当に好きになっちゃったみたい」
ありがとう、と残して吉岡は手を振り人混みの中に消えて行った。
しばらく俺は、その場に立ち尽くす。
俺が気紛れに映画なんかに行くって言ったから、《憧れ》だけで止めておいた彼女に、少しは可能性があると思わせてしまったんだろうか。
何だか少し申し訳なくなった。
だって俺には、1パーセントでも水香以外の他の誰かを好きになる余裕なんてないのだ。
ふと目に入った映画の広告。それはつい先ほど見てきたばかりの恋愛映画のポスターだ。
写っているのは童貞男子高校生と新米教師の二人の役者。
何かから逃げるように手を繋ぐ二人は、とても楽しそうに見えた。
俺と水香も、そうなのだろうか。
姉と弟、生徒と教師
(それが禁忌と知らなかったら、僕らは恋に落ちなかった?)