視界が消えた
私はずるい。こんなに自分がずるい奴だなんて知らなかった。
いや、知らないふりをした。
いつだって、被害者でいた方が楽だった。
「来週の土曜日、美和ちゃんの結婚式だからね」
ある日の朝、お母さんは私と大和の方を向き唐突にそう言った。
美和ちゃんとは、私のいとこだ。可愛くて穏やかで頭がいい。確か今年で25歳。結婚するにはぴったりのタイミングだなんてぼんやり考えていた。
私が中学生の頃までは美和ちゃんもこの辺に住んでいた。よく家に遊びに来ていたし、テストが近くなると泣きついてくる私と大和に対し、嫌な顔ひとつせず勉強を教えてくれた。
でも美和ちゃんが遠くに引っ越してしまってからは、2年近く会っていない。
「美和ちゃんの結婚式かぁ。楽しみだね」
「そうねぇ。写真いっぱい撮らなくちゃ」
イベント好きのお母さんは妙に張り切っている。父はやはり無関心に新聞を読んでいた。
先に朝食を食べ終わった大和がテーブルを立つ。カバンを拾い上げ、いってきますといつものようにリビングを出た。
私はその姿を見送りながら、腫れた目を擦る。昨日泣いたせいでパンパンに腫れてしまった私の瞼は鬱陶しいくらい重たかった。幸いお母さんには何も言われなかったけど。
「ねぇ、水香」
私もテーブルを立とうとしたその時、お母さんに呼び止められた。
なに、と短く返事をすると、少し戸惑いながら言いにくそうに口を開く。
「最近おかしくない?あなた達」
「え?」
「大和と、あなた。ぎこちないっていうか……」
「そんなこと、ないよ」
「そう……?ならいいけど、喧嘩でもしたのかなって心配になって」
「大丈夫だよ。最近ちょっと生意気だけどね、あいつ」
冗談混じりに言うと、お母さんは安心したように笑った。良かった、何とかごまかせた。
そうしているうちにお父さんが会社へ出た。
私も続いて出ようとするが、ふと呟いたお母さんの言葉にぴたりと止まった。
「やっぱり血が繋がってないとって、どうしても不安になっちゃうの」
「お母さん……?」
「本当は大和も水香も、今まで無理してきてるんじゃないかって」
「考え……すぎだよ。そんな」
「……そうねよね。今更よね」
逃げるように、私は家を飛び出した。
本当に、今更だ。
2時間目の休み時間、少し気分が悪くなりトイレへ行き、個室にこもっていた。
何だろう。胸の辺りがもやもやする。お母さんのあんな言葉を聞いたからなのか、はたまた太一くんからいつも来るおはようメールがないからなのか、何か得体の知れないものが、ずんと私の胸を重くしているのだ。
溜め息をついてみたけど、何も変わらない。
すると、誰かがトイレに入ってきた気配がした。女の子が2人。1人は聞き覚えのある声。マナだ。
2人は鏡の前で化粧でも直しているのか、話し声が聞こえるだけで個室に入る気配はない。
まだ気分も悪いし2人が去ってから出よう。そう思ってポケットの中の携帯を取り出す。やはり、メールはない。
「水香ってさー、絶対騙されてるよね」
ドアの向こうでそう言ったのは、確かにマナだった。
携帯を持つ手が止まる。心臓が早くなった。何で?何でマナがそんなこと、言うの?
するともう1人の子が尋ねる。
「水香って、マナと同じクラスの?」
「うん。実はさー、ちょっと前の合コンでさ」
「合コン?あんた彼氏いるじゃん」
「まぁいいじゃん別に。聞いてよ」
「はいはい、で?」
「その合コンに、水香の彼氏もいたんだよね」
(……)
「まじ?最低男だね」
「そうそう、そんでもっと最低なことにさぁ」
「うん、」
「浮気してるんだ」
「は?」
「だからぁ、浮気」
「誰が?」
「水香の彼氏が」
「誰と?」
「私と」
頭の中が、真っ白になった。
胸のもやもやは、更に気持ち悪くなる。
頭がぐらぐらして、視界が歪んだ。
太一くんとマナが?
吐き気に耐えきれず、便器の中に嗚咽を零した。慌てて水を流すと、人がいると気付いた2人は、やばいと呟いて黙った。私だということは気付いてないみたいだ。
しばらくすると、ふたつの足音がトイレを出て行った。
そういえばこの前、マナは購買で太一くんのことを聞いてきた。あの時は何の疑問も持たなかったけど……まさか浮気してたなんて。
悔しさと悲しさが襲ってきた。呑み込まれてしまいそうで、思わず携帯を握り締める手に力を込めた。
まさか太一くんは昨日、マナからの電話で帰って行ったの?
もう、ダメだ。こんなの耐えられないよ……。
気付けば電話をかけていた。太一くんではなく、大和に。
7回コールで大和が出ると同時に、休み時間終了のチャイムが鳴る。だけど私はその場を動かなかった。
もしもし、という不機嫌そうな大和の声はいつもと変わらない。
「水香?」
電話口から心配そうな声が聞こえた。
大和の後ろからはざわざわと騒がしい声がする。
「大和、」
「どうしたんだよ」
「私、もう無理だ」
「何があった?」
そう言うと、騒がしい声は聞こえなくなった。きっと人気のない場所に移動してくれたんだろう。
「太一くんがっ……私の友達と、浮気してるって……」
しばらく受話器の向こうから何も聞こえなかった。
私、何やってるんだろう。大和にすがって、こんな所で。
だけど今はこうでもしないと壊れてしまいそうだ。
太一くんがマナの体に触れているのだと思うと、悲しいものが込み上げてくる。胸がキリキリと痛んだ。吐き気はひどくなる一方だ。
「すぐ行く。門で待ってろ」
電話は一方的に切れた。
大和が来てくれるんだ。何でこんなに優しいんだろう。いつもはムカつくくらい無愛想で生意気なのに。だから私……。
何とか個室を出て、教室に戻った。もう授業は始まっていたけど、どうでも良かった。
静かにドアを開け、教壇にいる先生に気分が悪いと訴える。本当なだけに、簡単に早退を許してくれた。
クラスメイト達が授業を受ける中、私はひとり静かに荷物を纏める。斜め前に座っているマナの後ろ姿を見るのもきつかった。
唯が心配そうな視線を送ってきたが、私はそれをかわした。
「大丈夫?」
くるりと振り向いたマナが小声で言った。
―浮気してるんだ―
マナのあの言葉が頭の中をぐるぐる回る。でもここで弱い顔を見せるのは悔しくて、無視はできない。
大丈夫だよ、と口パクで伝え、教室を飛び出した。
一度も止まらず門まで走り抜ける。当然ながらまだ大和の姿はなかった。
息を切らしながら私は門の下にしゃがみ込む。首をうなだれ、何も見ず、何も聞かずただ大和の到着をじっと待った。
冷たい風が吹き抜ける。ひんやりとした空気が肌をさした。
どれぐらい時間が過ぎただろう。
近づいてくる足音に、顔を上げた。そこには息を切らして私を見下ろす大和の姿があった。額には僅かに汗が見える。走って来てくれたのだ。
呼吸を整えながら大和は言った。
「お前、馬鹿か?あぁ……馬鹿だったな」
「なによ……」
「とりあえず行くぞ」
大和は私のカバンを拾い上げ、スタスタと歩いて行く。私も立ち上がり、慌てて追いかけた。
「ごめん」
「いいよ、別に」
「大和、授業中だったんじゃない……?」
「もーいいって」
いつもなら学校にいる時間。昼間の街をぶらぶらとあてもなく歩く。交わす会話は少ないけれど、泣かずにすんだのは隣りに大和がいてくれているからだ。
家には帰りたくないと言うと、大和は頷いてくれた。
制服姿で補導されても困るので、人気のない公園へ向かう。子供を連れたどこかの母親がブランコにいた。
私たちはベンチに座る。途中大和が買ってくれた缶コーヒーを飲みながら、ただ呆然と親子を見る。
「太一くん、私のこと好きじゃないのかな」
ぽつりと呟けば、大和が至極切なそうな顔をするから胸が痛んだ。こんなこと、大和に相談するのがどれだけ残酷なことなのか、分かっているはずなのに。
「そんなこと、ないよ。水香のこと好きだから付き合ってるんだろ」
「でも、浮気してるんだよ」
「本人に聞いてみなきゃ分かんねーだろ」
「今日はえらく太一くんの味方するんだね」
「俺はいつだって水香の味方だよ」
真っ直ぐした目でそんなこと言うから、思わず視線をそらしてしまった。
そして皮肉っぽく、いつもは別れろっていうくせにと言えば、大和も少し笑顔を見せる。
「別れてほしいとは思ってるよ。でもあいつのことで頑張ってる水香に、別れろなんて簡単に言うもんじゃないって、俺なりに分かったんだ」
「じゃあもし、太一くんと別れたら」
「うん」
「私……どうしたらいいのかな」
「……」
「新しい人見つけて付き合うか、それとも……」
そこまで言って大和を見た。今度は大和が目をそらした。
彼は気を紛らわすように自分の爪を弄りながら、瞼を伏せる。
陽の当たる公園で、私たちを囲む空気が僅かに変わった。
「別に誰とも、付き合わなくていいじゃん」
それが大和の答えなんだ。彼の横顔を見て私は悟った。
私と大和の間に付き合うという選択肢は存在しない。お互いを縛り付ける権利もない。姉弟だから。
でも、でももし、禁断と知りながらお互いが恋愛感情を持ってしまったら?
その時はきっと、世界が反転してしまうだろう。
だから今の私には、太一くんを好きな自分が必要なのだ。彼のことは好き。それは本当。だけど……。
その時、携帯が鳴った。一瞬太一くんからメールがきたのかと思ったが、違った。
送り主は唯だ。大丈夫?と彼女らしい短い文がそこにある。
大丈夫だよ、と返事をして画面を閉じた。
全然大丈夫なんかじゃない。
その時、公園の前を通り過ぎようとしていた女子高生がこちらを見ていることに気がついた。あの制服は確か……お嬢様ばかりで有名な女子高の制服だ。
知らない顔だった。目が大きく、背が小さい。あんな可愛い子、忘れるはずがない。
だけどその子が見ているのは私でなく大和の方だった。すぐさま大和に教えると、気付いた大和はあっと小さく声を漏らす。
「知り合い?」
「まぁ……」
その子は小走りでこちらに向かってきた。大和くん、と少し高めの声が耳につく。
「おぅ」
「こんな所で何してるの?……彼女?」
「いや……姉貴」
大和が言うと、明らかに彼女は安心したようだった。私は悟った。あぁ、この子、大和のことが好きなんだ。
ふーん、やるじゃん大和。
「今日学校は?」
「サボリ」
「姉弟揃って?」
「もーいいじゃん。関係ねぇだろ、うっせぇな」
「……」
すごく、冷たい言い方だ。女の子も明らかに傷ついた顔をしている。大きな瞳が潤んだ。私が言われたわけじゃないのに、何故かずきりと胸が痛んだ。私と太一くんも、大和の目にはこんな風に写ってるんだろうか。こんな風に、可哀相に。
「もっと他に言い方あったんじゃない?」
女の子が去ってしまったあと、私は大和にそう言った。
だけど大和は、めんどくさそうに曖昧な返事をするだけで私の目も見ようとしなかった。
そして話を逸らすように、いきなり立ち上がる。
「腹減った」
「え?」
「うどん食いたい」
「……いいよ」
続いて私も立ち上がる。膝に乗せていた携帯が地面に落ちた。慌てて拾おうとしゃがみこんだ時、私は立てなくなった。携帯を握りしめたまま動かない私を不思議に思った大和が声をかけるが、顔を上げることが出来なかった。
「もう、やだ」
涙が零れた。一人じゃないのに、そばには大和がいるのに、私は酷い孤独感に襲われた。
大和は何を言うわけでもなく、そこに立っていてくれた。
午後の公園で、私は目を瞑った。鼻の奥がツンとして、涙も止まらなかったけど。
視界が消えた
(良かった。真っ暗で、もう何も見えない)