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妖精の骨

作者: きゃべつ

一見、教室内は満ちた静寂で息がつまりそうだが、よく目を凝らすと授業中でもそれぞれ皆何かの思いを秘めているのだと分かる。

ささやくような息遣いに、たまに聞こえるシャーペンをノートに走らせる音、携帯のタッチパネルを操作する指使い、それ以外は私のようにただ思春期を感じさせる物思いにふけるだけだ。一番後ろの席からは、全てが見渡せる。

日本史では今江戸時代に突入しているが、必死にノートをとっている者はあまりいない。私もただ声調だけは心地よい教師の旋律に耳をかたむける。音声は脳内で意味を形作られることはないまま、ただの音として私の鼓膜を通り過ぎるだけだ。こんなにつまらない授業を、この教師は何十年続けているのだろう。これから何十年続けるのだろう。私が卒業した後も、この心地よいだけの声調の音楽は教室に流れ続けるのだろうか。

家督相続の為、彼らは多くの側室を持ちましたが、

先生が黒板に赤いチョークで綱吉、と書いた。無意味な日本史を説明する中、ふとその一節だけ私の中で強く意味づけられる。多くの側室を持ちましたが。

多くの側室とはどれだけの数だろう。頬杖をつきながら私は考えた。どれだけいたら、家を継ぐことが出来るのだろう。私は黙々と板書を続ける教師の背中に目を凝らす。彼らは自身に権力があるというだけで、女を侍らすことが出来るのですか、と訊きたい気分だ。

もしそうならば権勢とは羨ましいものだな、と心底思う。過去に遡ってみたい。それだけの理由で男にもてるのならば、私だって権勢をふるってみたいと願う。

それに反して思うこともある。権力者の美しい側室たちのことだ。

泥のようなみっともない顔の男が、選び抜かれた美人を選ぶ。選ばれた誇り高い美人は、家を守るためだけの名目で、美しさを消費し続けなければならないのか。そんなの許せない気がした。少なくとも私には許されない理屈だ。なんて可哀そうなのだろう。せっかく備わった美貌をそんな価値のない男たちに差し出すなんて。

もし美しくなれるのならば、私は自分の価値を高く高く設定するのに。

もし美しく生まれたならば、私は男たちを上から見下ろし、よく吟味して選択した男に自分が最も優れた美貌の持ち主だと誇示するような笑みをつくるだろう。

もし誰にでも来世を迎えるならば、私は美しく生まれ変わりたい。

この顔面に密着する粒のような目に、厚みのない唇、そこから突き出す醜い前歯をすべて修正してほしい。


戸の外で足音がして、読んでいた本から顔を上げた。

本の世界から途端に切り離された瞬間、耳の鼓膜はいろいろな音を拾うようになる。初夏を目前にして、なぜか早々と虫が鳴いている。秒針が一定に動き続ける。腕時計を見ると、針は四時半をさしていた。図書室には私一人しかいない。

いつも遠慮がちに図書室のドアを開ける彼女に、私はいつも通りのほころんだ笑顔を見せた。

後輩の志木子ちゃんは細い腕でダンボールを抱えていた。おそらく足先で器用に戸をこじ開けたのであろう彼女を見て、私は驚いて彼女の持つ重そうなダンボールを受け取った。学生鞄を腕に引っ掛けながらダンボールを三階の図書室まで運ぶのはさぞかし苦労しただろう。戸の前で声をかけてくれれば、私が開けたのに。受け取った段ボールをひとまず机に乗せる。

「どうしたのこれ、すっごく重い」

「司書の本多先生が運ぶの手伝ってくれって。先生も後から二箱持って来ます」

志木子ちゃんは筆箱から取り出したはさみでダンボールのガムテープを切り離し、中身を取り出した。「朝の読書用の本だそうです」辟易した溜息をつきながら志木子ちゃんは額の汗を拭った。今日も変わらず美しい額である。陰る埃っぽい図書室の中でも、彼女の容姿は損なわれない。逆に、埃がキラキラと反射しそこには繊細な空間が出来上がる。

「なんで同じ本ばっかりなの? 皆そんなに志賀直哉が好きなの?」

取り出された本はすべて志賀直哉の文庫本だった。

「三十五冊あります。芥川と太宰ももうすぐ来るはずです」

私が唖然として段ボールの中身を見つめている時、志木子ちゃんが開けっ放しにしていた扉からまたしても段ボールを抱えた二人が入ってきた。司書の本田先生と、一人の男子生徒だった。二人は軽々と片手で持った段ボールを机に並べる。その時わずかに志木子ちゃんの眉がひそむのを私は見逃さなかった。

「悪かったな佐々木。いやー予想外に重かった。これなら二つとも時田に頼めば良かった」

本田先生は首を回しながら女性らしからぬ言葉づかいで、本の取り出しにかかる。佐々木とは志木子ちゃんの苗字である。ため息をついた志木子ちゃんはそれでも律儀に本田先生の図書ラベルの糊付けを手伝っている。私もブックポケットを一冊一冊ペタペタ貼りながら、絶対こんなに大量の本誰も読まないと確信していた。

「これ、誰が読むんですか?」

「んー」ブックカバーを巻きつけながら本田は気の抜けたように、しかし意味深に笑いながら言った。「お前たちだろ」

確か年に一度の頻度で、朝、クラスで集団読書なる悪習が去年も実施されていた。この本はそれらのものだろう。去年は何を読んだだろうか。感想も書かされたのに、もはや私の記憶はぼやけていた。

「私、志賀直哉は読みました」「私も」「俺はまだ」

男子生徒がぼそりと恥ずかしげに付け加える。「俺、そんなに本読まないから」

その言葉に「小説なんてのは、読みたい奴が読めば十分だ」と本田先生が悪態をついた。

「それにこいつらは文芸部だから特例だ。一般的な高校生が自主的に志賀やら芥川やら太宰なんて読むか」

本田先生は今カバーをかけている途方もない量の本に、じろりと一瞥を与えた。「生徒達が朝の教室で一斉にこの本を読むかと思うと、ありがたくて涙が出るね」

最初芥川と太宰の小説が男子棟に配布され、女子棟には志賀の本が配られる。三ヵ月後にはそれらが交換することになるらしかった。私が今ブックポケットを貼っている手元の芥川は、初めは男子棟に滞在することになる。私が今、触れているこの本達が、私が踏み入る事のない男子棟に三ヶ月間、誰か知らない男子生徒の手に渡るのかと想像してみた。同じ高校の敷地内なのに、私達女子は一度も男子棟に入った事がないのだ。その逆もまた然りだが。

女子棟と男子棟がグラウンドを挟むこの高校で、異性に接触する機会は限りなく少ない。体育は共同の施設を使用するが、時間帯が異なるし、唯一の共有のこの図書室にはまず人の出入りがほとんどないと言っていい。本の墓場と表現しても差し支えないと思う。司書の本田先生は、文芸部の私達以外訪なうことのない、静寂の中書庫に篭っては本に耽溺している。古い蔵書の図書室に男子生徒が放課後の時間出入りする事は稀である。私は同年代の男子を眺めて、久々にこの高校が一応共学だということを思い出した。

なるほど確かに彼は、本の世界とはかけ離れた位置にいる風貌だった。図書委員だという男子生徒は、いかにもスポーツ選手まっしぐらといった風情である。本田先生の手伝いにかり出されたのだろう。女ばかりの図書室に居心地悪そうに、気まずげに私が張ったブックポケットに貸出カードを仕舞い込んでいる。

「佐々木、どれが一番読みやすい?」

若干尻込みした様子で男子生徒は志木子ちゃんに話しかける。物怖じした頬にうっすらと朱がさしている彼を見て、私と本田先生は気付かないように作業に没頭するふりをした。それにしてもどれが一番面白い、ではなく読みやすい、ときた。誰にも気付かれないように私はひっそりと笑みを緩ませた。日頃本を読まない者にとって、志賀も芥川も太宰も読みにくさをとっては大差はない。文豪という枷から、遥か遠い過去という理由から、書籍以外にも道楽が蔓延した時代から、それらはもはや彼にとって化石の産物に近いだろう。ストレートすぎるくらい彼の気持ちが丸見えなのに、あくまで話題の内容は色事めいたものではない。志木子ちゃんと親密になるべく尋ねた、話題のその率直さと硬派な声に、私は好感を持った。

「さあ、本のことは本田先生の方がお詳しいから」

志木子ちゃんは知ってか知らずか、彼の顔を見ることなく、作業を淡々とこなしながら質問を流した。あっさりとかわされた男子生徒は、「そうか」と誰が見ても分かるようにがっくりとうなだれた。会話の糸口がぷっつりと切れたのだ。私は彼が少し気の毒に思ったが、志木子ちゃんはこれが日常なのだろう。世間話のようにさらりと好意を持つ者の気を削がす。かさかさと紙の作業の音が沈黙を際立たせた。

本田先生はちらりと志木子ちゃんを盗み見てから、男子生徒に「志賀直哉じゃないか」と場を取り持つように言った。

端正な容姿の志木子ちゃんにはよくあることだ。お人形のように可愛らしい志木子ちゃんは、理知的な眼差しでそれらをいつも排除する。しかしたまにしか見かけないのは、おそらく志木子ちゃんがそういった一切の空気を拒絶しているからに他ならない。私や本田先生といる時に出す、気を許した声は一切見せない。志木子ちゃんがそういう素振りを見せないのなら、私はいつものように放課後の図書室で司書の本田先生の手伝いを黙々とこなすだけだ。志木子ちゃんが好きな作家は、泉鏡花と谷崎潤一郎と吉屋信子であるが、私が彼に教える義理はないので黙っている。

今日の予定であった文化祭の話し合いはなしになり、本を整備した後、私と志木子ちゃんは早々に図書室をあとにした。身支度を整えている時、男子生徒が顔を真っ赤にさせながら志木子ちゃんに話しかけていた。私が本棚に本を仕舞っている隙に、彼は一緒に帰らないかと申し出ているらしかった。

私は彼の無謀であり果敢な挑戦に、呆れ半分関心半分の気持ちでやりとりを少し離れた所で見ていた。けれど断る理由が志木子ちゃんにはない。今日は一人で駅まで歩くのかと思ったが、志木子ちゃんは意外にも彼を置いて私と帰ることを選んだ。容姿も悪くない純情そうな雰囲気の生徒であったので、私は彼の誘いを断った志木子ちゃんを不思議に思った。おそらく彼は滅多にない機会を、それなりの覚悟で挑んだのだろう。

高校から駅までは一キロほどの距離で、いつもはバスだが、部活の日は志木子ちゃんと徒歩で帰宅する。私の自宅は駅東口の傍に佇むが、志木子ちゃんの家はそこから五つ目の駅だ。日没の時刻には遠く、夏の強い夕日がしぶとく私達を照らしていた。駅まで二人で歩きながら、私はそういえば彼女と色恋について語らう事はなかったと思い至った。専ら本の話か、読書しかしていなかった。

「一緒に帰らなくて良かったの?」

歩道を並んで歩いていると、時折、自転車に乗った学生が横をすれ違う。一瞬その姿があの男子生徒に見えて、どきりとした。指摘されるのを予期していたのだろう。それでも志木子ちゃんはシラを切り、「先輩と帰ってるじゃないですか」と笑った。

「あの男子よ。友達なんでしょう?」先程名前を呼ばれていたのだ。知り合いなのだということは、見て取れた。

「あの人とは委員会が一緒なだけですから」

「私なら別にいいのに」

「先輩と帰りたいんです」

その言葉にドキリとする。細い髪が隣で靡くと、光った絹糸のようにさらさらと柔らかさが目立つ。夏服のセーラー服が無垢な雰囲気を思わせる。まるで神に祝福されたような、滅多にない完璧な美しさと言おうか。美しさは絶対なのだと思い知らされる。もはや憧れを通り越して、思慕にも似た美の賞賛だけが残る。惚れ惚れする清楚で美しい容姿を、なぜ彼女は活用しないのだろう。あの程度の男では彼女の隣ではやや見劣りする、ということか。それとも何か理由があるのだろうか。彼女が特定の親しい間柄の者を傍に置かない理由が。彼女は美しい。

歩幅をさりげなくお互い合わせ、私は独特の緊張感に身をおきながら、自分が男だったらこういう子に片思いするのだろうなと、こっそり思案する。美しく、賢く、それでいてどこか頑なな謎の多い雰囲気のこの後輩のことを。私は私が女で良かったと安堵する数少ない利点だ。

「嬉しい事言ってくれる。志木子ちゃん、彼氏とか欲しいと思わないの? せっかく可愛いんだから」

段々と暮れかけた薄暗い夕焼けの助けもあって、その話題を私はするりと出す事が出来た。内心、動悸が激しく高鳴る。

「そうですね。欲しいです」

戯れのような無意味でわざとらしい生真面目な口調だった。先輩はどうなんですか、と逆に返された。実際志木子ちゃんが本当に恋人を欲しがっているのか、私には分かりかねた。流された話題を、私は「縁がないの」と締めた。何となく会話が途切れたまま、駅で私達は別れた。

同じ制服を身にまとっているが故に、志木子ちゃんと生徒の美醜の差は残酷なほど歴然となる。翌日の早朝、志木子ちゃんのクラスに文化祭の展示の企画書を持って行った。小学生の弟さんがいる彼女は、弟さんと家を出る為、朝が早い。八時前にすでに教室の席に腰掛け、燦々と朝日を浴びながら本の世界に没頭する志木子ちゃんに、私は躊躇いながら教室のドアをカラカラと開けた。はっとした様子で志木子ちゃんは視線を私に向けた後、目を細めて笑った。いつも私が見つめる彼女は、本を読み、私が声をかけると虚構の世界から目を覚ました顔をして笑いかける。私は彼女が今一人でこの教室にいたことにひそかに安堵した。

「おはようございます。展示の話ですよね」

「うん、おはよう。もう夏休み目前だからその前に。これね、志木子ちゃんは初めてだろうけど、毎年部員の本の紹介をしてるの」

私は志木子ちゃんに昨夜印刷した文化祭の予定表を手渡しながら、ざっくりと説明した。

双眸をプリントに伏せながら、相槌を打つ志木子ちゃんをそっと盗み見ながら今日も隙がないと感嘆する。見惚れそうになる視線を叱咤し、それらしくプリントを一緒に眺めた。

「今年は私達しかいないから、小説は書けないね。展示だけにしよう」

去年私が一年だった頃、文芸部は三年生が五人在籍していたが、今年入部したのは志木子ちゃんしかいなかった。多少部員の数で不便はあるが、私は志木子ちゃんとの二人きりでの図書室の放課後が好きだった。

「はい。展示用の本はどうすればいいですか?」

「ないなら購入するか、図書室で借りてくるかかな。実物があった方が手に取りやすいでしょ。どうしても手元にない時は、画像を印刷して…」

私の説明に、考え込むように指先で口元を撫でていたが、しばらくしてから彼女は「当てがあるので訊いてみます」と、またプリントに目をうつす。ふとチリリと静電気が流れたような、チリリとした視線が背中に走った。直後に八時を示すチャイムの音が放送される。私は腕時計と壁時計を見比べて、志木子ちゃんに「来週までに紹介する本を決めておいて」と言い残し、教室を辞した。案の定廊下にはあの男子生徒が粛然とそこに佇んでいた。まるで躾の行き届いた犬のように、音も立てずに所在なげに寂しそうな顔を見て、この哀れな生き物に思いがけなく愛らしさを覚えてしまう。私がいたから教室に入れなかったらしい。おはようと挨拶すると、不本意な目で私を見下ろしながら小さく返事をした。改めて見ると背の高い学生だった。

「昨日はお疲れ様。志木子ちゃんと同じ図書委員なんだって? 何か用事だった?」

「いえ。大した事じゃないから」

お邪魔だったかな、と申し訳無さそうにしながら私は、彼が重い口を開くまで待ち構えていた。朝のホームルームの時間が迫っていた。あと少しでここも、女の巣窟になる。一緒に廊下をわざと歩幅をゆるやかに進めながら、暫らく無言を押し通した後、観念したように彼は頬を染めた。

「佐々木って、付き合ってる、人とか、いるんですかね」辺りに人気がない早朝の廊下は、これからおびただしい数の女生徒が登校してくるとは思えない程、朝日の静寂が満たしている。なぜ廊下や教室、学校というものは窓がこうも大きく、沢山あるのだろう。まだ朝だというのに、初夏の日差しは想像以上に私達を真っ当な光の中にさらす。眩しくて目を開けていられない。一瞬教室に残された志木子ちゃんの、佇まいを思い浮かべた。女生徒全員が統一された制服、席、性別の窓際の一番前に座る志木子ちゃんは、おそらく三十分後には埋もれてしまうだろう。眩しい窓からの日差しに、あの白磁のような肌を照らされながらも、登校してくる女生徒、教師の一部として埋没してしまうだろう。あの慎み深い美しさを誰にも悟られる事もなく、女生徒の一部として誰にも気付かれる事もなく。そして志木子ちゃんはそのことに何の感慨も示さず、埋没する自身を受け入れてしまう。

予想したその懇願するような声に、「どうだろう」と私はとぼけた。本当に私も知らない。「あまり志木子ちゃんはそういう話題が好きじゃないみたい」

だって少なからず興味があったら、彼女は端整な容貌をあそこまで持て余したりしない。整いすぎる顔立ちで、衆人に埋没したりしない。気付いたのは私と、男では彼くらいだ。

分かりやすい声で「そうですか」と彼は溜息をつく。苦虫を噛み潰した後、更にそれを無理やり嚥下したように煮え切らない顔で、男子生徒は目を伏せて、隅に埃が溜まった床を、答えがそこに書き込まれているかのように凝視した。その光景を眺める私の目はきっととても冷ややかだったはずだ。答えなど分かるわけがない。あなたになんか分かるわけないでしょ。半年週一回だとしても、時間を二人きりで共有した私でさえ、知らないのに。私の返答はあまり期待に添えなかったようで、男子生徒はホームルームがはじまる前に、俊敏な足取りで男子棟に引き返していった。


その週の部活動日、珍しく私より早く志木子ちゃんが図書室で待っていた。しかし今にも帰宅できるような格好で、机には本も何も広げておらず、鞄を肩にかけていた。

「早いね。どうしたの」

「今日の部活は出られないので。これ、一応紹介する本、プリントアウトしてきました」

右手に持っていたプリントを受け取ると、志木子ちゃんの熱が紙に移り、若干湿り気を帯びていた。渡すとすぐに「すみません」と言い残して図書室の鍵を置いて出て行ってしまった。私は呆気にとられ、暫らく一人で図書館の本棚を見回した後、改めて紹介する本のリストに目を通した。三冊の本がリストアップされていた。プリントにうつる熱を私は撫でながら、椅子に腰掛ける。泉鏡花の全集だった。『外科室』と書かれている。

物音を聞きつけたのか、書庫の奥から本田先生が顔をのぞかせた彼女はどことなく嬉しそうに見えた。売れ残った商品のような気分になりながら、本田先生に向かってプリントをひらひらと見せつける。

「ふられたか」

「ふられました」

「佐々木はもてもてだな」と、微笑ましそうな目で言った。プリントに書かれた『外科室』のリストを見ながら、どんな話だったか、と思い巡らせながら私はぼそりと呟く。

「『痛みますか。』」

「『否、貴下だから、貴下だから。』」

熱の篭った声で本田先生が答える声に私は笑った。美しい声なのに、どことなく喜劇が混じるのは、仰々しい言い回しのせいか。放課後の無意味な時間に繋がる一体感にほっとする。

「台詞だけ聞くと、怖いですね」

「気持ち悪いなあ」

「今日は帰りますね」立ち上がり、鞄を肩にかける。家で本の展示の原稿を書こうと思ったのだ。帰ろうと、図書室のドアを開けると、部活帰りというような格好で、昨日の男子生徒が立ち塞がっていた。

「あの、」

「志木子ちゃんなら、帰ったわよ」

まだ部活動時間だ。意外そうな顔で男子生徒は「いつもこんな早いんですか」と訊く。それはあなたもじゃない、とジャージ姿の汗がにじむ彼を見る。どうやら陸上部らしい。いかにも活発な彼にこの場は不似合いだった。視線を感じたのか、男子生徒は居心地悪そうに「休憩中なんです」と目を伏せた。

「今日は何か用事でもあるんじゃない」

「用事って」

志木子ちゃんの、知らされない家の事情、都合、用事など私などが知るわけがない。分かりきった答えを犬のように待つ彼に、「さあ」とおざなりに笑った。なんだか全てを破壊したくなるような、意地悪い気持ちになって、「恋人と約束でもあるんじゃない」といらぬことまで言ってしまう。途端男子生徒の表情が変った。

「いるんですか彼氏」

「いないと思ってたの?」

いよいよとげが浮き出てきた私の言葉に、男子生徒は悲しそうな目で固く唇をかみ締めた。素直すぎる反応に、私は段々愉快になる。赤く染まる彼の唇に少し気が晴れて、「こないだ言ったようにね」と、今度は出来の悪い生徒を諭すように、優しさを多分に含む声を出した。「そういう話しはあんまりしないから、よく知らないのよ」

ようやく私の皮肉を受け止める余裕が出てきた男子生徒は「同じ部活なのに、知らないんですか」と反抗した。その言葉に苛立ちを覚えた私は、「訊いて来てあげてもいいわよ?」と笑い、「あなたじゃ、訊けないでしょ?」と付け足す。

本田先生がカウンターに座りながら、私達の声を素知らぬ顔で聞き耳を立てているのが分かる。さぞ面白がっているのだろう。やり取りに辟易してきた私は、手っ取り早く解決策に出ようとした。つまり恋人がいるかどうか本人に訊けば良いのだ。私なんかに訊かずに。

「いえ、彼氏がいないっぽいってことは知ってました。帰り道とか、見てたし。だから先輩が、彼氏いるって言った時、びっくりして」

「帰り道? 見てたの? 気持ち悪いわね」

生理的な嫌悪感を露わにした私に、彼は違う違うと、慌てて弁解した。

「別に家まで付いてったわけじゃないですよ。少しです、少し。しょうがないじゃないですか、図書委員以外で接点なんかないんだから」

「だから今日も部活に顔を出して、アプローチするつもりだったんだ」

呆れた。気を使う事も忘れた私の顔を見て、男子生徒の顔は自嘲の混ざるうんざりしたものに変った。少しばかり姿見が良いからといって、穏和に接していた過去の自分を殴りつけたくなる。意外に、しつこい男だ。

「俺だって不相応だって承知してますよ。自分が嫌になりますよ。だから先輩に頭下げてるんじゃないですか」

彼との接触は三度目だが、もう遠慮はなくなってきている。志木子ちゃんに向けられる彼と私の誠実さ、好意、純朴なものは一切ない。放課後の静謐で息を潜むような平穏な時間が、彼の所為で台無しになる。

「私、頭なんて下げられたっけ?」

「覚えてないんですか」

「覚えてないわ」

「佐々木に好きな人がいるかどうか、訊いてくれませんか」

「断ったらどうなるの」

「自分で訊きに来ますよ」

「ここに?」

私は意識的に、一層顔を歪めた。そこで、今まで黙っていた本田先生が「訊くだけ訊いたら良いじゃないか」と口を挟む。その一言に背中を押され、「訊くだけ」と男子生徒に念を押した。無理矢理約束をとりつけられた。彼の無謀な行動力と切迫した目の光に思わずたじろいだ。本田先生は楽しそうに「青春だなあ」と男子生徒と私を眺めていた。

それから私達は、時たま昼休みに申し合わせて会うようになった。変な噂が立ったらたまったものではないと、誰でも知っているが誰も使わないような校舎の死角を利用している。女子はどうしてあんなに恋愛話に飢えているのだろうと、たまに思う。おかげでこうして逢引のような真似をしなくてはならないのだ。

「昨日訊いたんだけどね」

幸いにもこの死角は死角なだけあって、ちゃんと影が私達をいよいよ本格的に眩しくなってきた日差しから遮った。その所為か、男子生徒の顔色は青ざめて見える。湿り気の消えない影は、無気味な寒々しさを浮かべる。白いシャツに濃い影が落ちるのを、綺麗だなと思いながらじっと見入った。

「好きな人はいるって」

「マジですか」

昨日部活で文化祭用に展示する本の紹介文を書いていた。本の粗筋を五行ほど書いて、本の紹介をするのである。志木子ちゃんは「外科室」を書いていた。私は動かしていた右手を休めて、ふと志木子ちゃんを見る。腕時計をチラチラと確認し、時間を気にしている仕種が目立った。何かあるのかな、と思ったけれど口には出さない。ここ最近、志木子ちゃんは何かに苛々していたみたいだ。話しかければ受け答えはするし、愛想笑いはするけれど、それは最低限の愛想笑いで、いつもの余裕のある微笑とは大分遠かった。その分無口になり、本に没頭していた。

「何だか疲れてる」

「そうですか。最近暑いですから」

「井上君に付きまとわれてるんだって?」

「え?」

一瞬何とことか分からないというような、戸惑った顔になる。私は違うのかと、自分の予想が外れていた事に少しがっかりした。「違うの? 委員の彼」

委員、というキーワードで、私の言った彼が井上だと一致したように「ああ」とペンの動きを止めた。本当に忘れていたようだった。

「違いますよ。第一付きまとわれてなんか」

「彼、けなげね。待ち続ける忠犬みたいで」

「犬ですか」

「犬は好きじゃない?」

志木子ちゃんは不思議そうな目で私を見つめ、両手を机に重ねた。自分の指を眺め、しかし実はもっと遠くの何かを見出そうとしていた。白く細く長い指に、私は憧れた。

「鏡花は犬嫌いだったそうです」

私はその言葉に「そうね」と答えた。あんなに可愛いのに、と微笑んだ志木子ちゃんの方が可愛かった。

「大好きですよ、犬は」

「私も」

志木子ちゃんの微笑む目に疲れを感じた私は、何だか胸が苦しくなった。これ以上私を追い詰めないで欲しいと、訴えるような目だった。胸から洪水が流れ出る。本当はこんなことを訊いてはいけない。けれど井上の頼みという大義名文を利用し、私は好奇心を抑えきることが出来なかった。

「好きな人、いるの?」

「はい」

寂しそうな微笑はやはりいつも通り綺麗で、私はまたこりもせず見惚れる。おそらく志木子ちゃんは、私がそれ以上言及しないことを知っていたのだろう。誰が好きなのか、私が訊かないだろうという確信があった。だから私もその期待にこたえるしかない。終わると見越した話題に、私達は互いに笑い合い、またプリントと本に視線を戻す。待ちわびた沈黙が戻ってきた。私はほっとして、作業に集中するふりをする。その日の眠りは酷く浅かった。寝不足の意識が、目の前にある現実の影をとらえてくる。

「マジよ。あなたでないことは確かだけど」

「これ以上へこむこと言わないで下さい」

「もう諦めたら? 井上君なら他にも可愛い子がいるでしょうに」

型どおりの慰めに、井上君は若干気分を害したようで、「そんな簡単に割り切れたら苦労ありませんよ」と、眉の間をかすかに曇らせた。そんなことは分かっている。けれどどうしようもないではないか。彼なら上等な容姿で、すぐに彼女など出来る。志木子ちゃんよりもいささか劣るだろうが、自慢するには丁度よい女など、そこらじゅうにいるではないか。

これ以上志木子ちゃんの話題を彼としてはいけないと、私は内心危惧していた。これ以上、志木子ちゃんを暴いてはいけない。私は恐れていた。

「大体どこが好きなの?」

初めてそんなことを訊かれた様子で、井上君は面くらい、また無言になる。そんなにおかしい質問だろうか。その人に好意を示す部分を、私が探ろうとするのがそんなに滑稽だろうか。くぐもった声で「佐々木は、」と一度開きかけた唇をまた閉じて、暫らく自分の答えを探しあぐねていた。

「図書委員で、一緒になって、最初可愛いなと思って、それで、でも」

私は訊いたは良いが既に訊いた事を後悔している自分に気付きながら、それらしく相槌を打った。ふうん、と鼻でおざなりに返事をする。

「誰か、支える人が必要だと思った。一人じゃ駄目になる。俺が支えてやりたいと思った」

簡潔で傲慢な回答に、私は内心笑いを堪えるのに必死だった。どこかのドラマで聞いた台詞を、現実に耳にするとなぜ人はこうも、滑稽になるのだろう。耳まで真っ赤に染めて押し黙る彼は、ストレートな自分の愛の告白に、単純に羞恥を覚えているだけだった。

でも、私が滑稽だと思っているのはそれだけじゃない。どうして男って、支える「誰か」を自分だと本気で信じられるのだろう。同じことを考えていることに笑った。そんなの不可能に決まっているのに。彼ではあの子を救えやしない。それは絶対的な確信だった。アンバランスな際どい均衡に立つ志木子ちゃんが求める「誰か」は私達じゃない。好きだと言った人が誰かは分からないけれど、きっと求める人はその人に違いなかった。どんな人なのだろうか。少なくとも志木子ちゃんが求める「誰か」に彼は分類されないのだろうと思うと、安心すると同時に、私も入っていないだろうなと思い至り哀しくなる。そう知りつつも、私達は小鳥のように些細な振動で震える少女を愛しく想い、添い、慈しみ、胸のしこりを溶かしてあげたいと祈る。

「そこまで言うなら、言いなさいよ」

泣きそうな顔で溜息をついて井上は「ふられると分かっているのに?」と俯いた。その表情を私はどこか現実と受け入れられずに、眺めていた。可哀想な人。可哀想で、可愛そう。不安定な美に惹かれたことに共通する私達は、この流れ続ける激情を持て余すしかない。目の前のもう一人の私を慰めたくなる。それは、自分自身を慰める事と同じだった。遠くで予鈴が響き渡ったのを聞きつけ、私達はそれぞれの校舎に戻った。

部活でもない日に志木子ちゃんと一緒に帰ることになったのは、放課後一緒のバスに乗り合わせたからだ。つり革につかまりバスに揺られる学生の中に随分美しい子がいるなと思ったら、やはり志木子ちゃんだった。声をかけ、隣の席から荷物をどけて、座るように誘う。嬉しそうな顔で隣に腰を下ろす志木子ちゃんを見ていると、優越感と後ろめたい気持ちがせめぎあった。バスに乗るのは珍しいねと、話を振ると、早く帰らなければならないのだと言った。腕時計を確認する志木子ちゃんの目は、切迫しているように見えた。弟さんが家で待っているのだという。

「最近帰りが早くて」

そういえば確か母親は亡くなっていると聞いたことがある。「そうなんだ。大変だね」そう言いながら、志木子ちゃんの不幸に胸を痛めていた。エアコンの掛かった車内は快適で、涼しい風が上から吹き込んでくる。ふと風に流れてきた香水の香りに私は志木子ちゃんを見た。「どうしました」と首を傾げる志木子ちゃんに、「花の香りがする」と言った。

「花?」

種類までは分からないが、確かに隣から爽やかな花のかすかな匂いが鼻腔をくすぐった。

「香水とかつけてる?」

途端、ぞっとしたような顔で、彼女は身にまとう夏服の生地を握り締めた。花の匂いの先にある見えない何かを払拭するように、制服を右手で払う。「知り合いがアイロンをかけた所為かも」と嫌そうな顔をした後、「気になりました?」と不安そうに訊いた。

「大丈夫、そんなに強い匂いでもないし。良い香りだね」

「そうですか」

志木子ちゃんの声には硝子のかけらが蝕むような、きらきらとした痛々しい響きがある。帰ったらすぐに制服を洗濯するだろうという様子で、花の香りを心底忌み嫌っているみたいだった。とっさに冷やりとした肝をなだめ、ぎこちない笑みを浮かべた。

「でも弟さんがいるなんて、はじめて知ったよ」

「はい、小学生です」

制服のこびりついた匂いを気にしながら、志木子ちゃんは抑揚のないアクセントで言った。その声は穏やかで、柔らかい薄布に包まれたような、うかがい知れない記号がこびりつく。小学生。小学生か。私が住んでいる地区には、志木子ちゃんが住んでいる地区には、一体どれ程の児童が毎日あの箱庭に通っているのだろう。私はその中で志木子ちゃんの弟さんを見つけられるだろうか。ふわふわと、本来の意味から乖離しそうな記号を、必死に脳に押さえつける。「弟」という記号を逃さない為に。一年生かも、六年生かも分からない、志木子ちゃんの弟は、志木子ちゃんの面影を映し出しているのだろうか。志木子ちゃん。志木子ちゃんはずっと秘密を抱えている。だから私も触れないようにしなければと思う反面、知りたいという好奇心が私を乱す。嫌な動悸のする不整脈を抑え、私は花の香りを出来るだけ嗅がないようにした。

「志木子ちゃんに似てる?」

「そうですね。似てるって言われることが多いかな」

志木子ちゃんに似ているのなら、さぞや美しいのだろうと思うことで私は満足した。


改めて考えてみる。美は絶対であるか否か。美はどれ程の価値があるか。改めて、考えてみる。私は昔から美しい人に弱かった。クラスにいる数人しかいない美形を私の中で順位をつけ、選別することもあった。ここまで美しさに執着する女も珍しい。美しさによって、ある程度容姿の自画自賛も許される。美しさは許容である。あの人は綺麗だからしょうがないわよね、と皆が納得する資質があるということだ。例え休日の朝から呼び出されても、大抵の人は嬉々として目的地に向かうのかもしれない。それが例え失恋の愚痴を聞かされると分かっていても、こんな美形を振るなんて、と逆に相手を憤るものなのかもしれない。本当は慰めるのが普通なのかもしれない。それならば面倒だと思う私は狭量なのかもしれない。…本当にそうか? 井上も美しい人の部類にカテコライズされる一人だが、振られて私に縋りついてすすり泣く姿は全然美しくない。鼻をすする汚い音が聞こえる。最近志木子ちゃんばかり見ているせいか、理想が高くなってきているのだろうか。

「いい加減、放してくれない?」

もう勘弁して、という風に縋りつく井上を引き離そうとすると、「薄情者!」と暴言を吐かれた。彼はあの後勇猛果敢にも望みのない賭けを挑んだらしく、潔く振られたらしい。「好きな人がいる」と言われたのだという。随分あっけなかった。けしかけたのは私だと詰られ、こうして休日カラオケに付き合っていた。歌う元気もなく、面倒だなと思いながら「はいはい」と井上の頭を撫でる。けれどもしこれが私が最初に指定したカフェだったらと思うとぞっとした。号泣する男を慰める女。シュールだ。私達は周りから白い目で見られるだろう。誰もいないカラオケの密室に変更してくれて幸いだったと思うしかない。彼は意外と涙もろく、赤ん坊をあやす母親の気分とはこんなものか、と想像した。

「次があるじゃない。幸い容姿は悪くないんだから」

「すぐそんな気になれると思ってるんですか」

思わない。しかし他に慰め方など知らない。恋に敗れた人に何と声をかければいいのか、私は知らなかった。隣室からは失恋ソングが壁を越えて、響いてくる。なぜ世間にはこれ程多くの失恋ソングが流れているのだ。うわあ、と思いつつ、なぜ私は素直に付き合ってカラオケで彼を慰めているのだろうと不思議に思った。

「私がもう少し美人だったら貰ってあげてもいいんだけどね」心にもないことを言うのは別に苦ではなかった。むしろ早く私を解放して欲しい。分かっているのだ、失恋が悲しいということは。そして井上君も失恋すると知っていた筈だ。カラオケルームの天井に備え付けられたミラーボールがゆっくりと回転し、私と井上君の体に人口色の光を当てている。薄暗い密室で抱き合う男女。ある意味危ない構図だが、私達に色事めいたものなどないに等しい。井上君の涙で湿った制服が気持ち悪いなあと思いながら、私も男だったら志木子ちゃんに失恋していたかもしれないと、想像した。井上君が鼻をすする。

「先輩だって綺麗じゃないですか」とこともなげに言った。

私が傷つくのはこういう時だ。平気で人のコンプレックスを、簡単に気にしなくて良いとフォローする。それは自分がそのコンプレックスを持っていないからだ。悪意のない言葉は、時に悪意のこもる言葉より残酷だ。何より本人に自覚がないのが、質が悪い。流してくれて良かったのだ。私に対する美醜の判断など、聞き流してくれれば良かった。気付いて欲しくはないけれど、察してくれない井上に、身勝手な苛立ちがちりちりと燃えた。

私はこういう時、何も出来ないまま、心の中で美しさを愛し、憎み、途方にくれるしかない。自尊心が崩れたことを気付かせぬように、気を使ってくれてありがとうという諦めた顔で「ありがとう」と言うしかない。意識の粘膜から同情が剥がれ、憎悪がこびり付く。

小さい頃眠り続けるお姫様の童話が好きで、大きくなったら私もこんな素敵なお姫様になりたいと思っていた。無理だという事は分かっていたが、私も将来はみにくいあひるの子が白鳥に成長するように、美しくなるのだと信じていた。容姿はそうそう変らない。ある程度の修正を施せばそれなりに見てくれはどうにかなるだろう。しかし私が焦がれ、追求し、欲する美とは遠くかけ離れている。人を見かけで判断してはいけません。そう言ったのは、小学校時代に担任だった教師だった。随分無茶な事を言う。そう思った。それが実現したならば、私はこんなにも惨めになることはなかった。だから私は井上君や志木子ちゃんを愛さずにはいられない。私が欲しくても持てなかった絶対的な価値を備えているのだから。私が、もう少しだけ美しかったら良かったのに。そしたらこんな所で後輩の労わりなどしなくてすむのに。志木子ちゃんならどうするのだろうなどと、どうにもならないことを考えながら、また井上君の髪を優しく撫でた。

その夜の満月は、本当に目が眩むような、陰影がはっきり映るほどの光を放っていた。

夏の汗ばむ気温は、とっくに沈んでいる。先程の刺すような西日も月光に譲る。もうすぐ夏休みだ。肌と衣服が貼りつくような梅雨はとっく明けていて、水分をばっさりと切り落とした清々しさが立ち込めている。夏の夜ほど気持ち良いものはない。

宵はただ月が明るく、涼しい。日差しによって上昇していた暑さも、今は気持ちの良い風が、すんなりと体を通り過ぎる。私の影は、粘液を含む生き物のように、私が歩を進めるたび、ぬるりと動き回るようだ。こんな日に失恋するのは不幸なのか、幸運なのか。井上君はさんざん泣いて歌い暫らくして復活し、赤い目を擦りながら帰っていった。こぶしのきいたロックを私は初めて聴いた。

放課後カラオケルームから解放された後、帰るのが面倒になった私は駅の近くを徘徊していた。夕飯を外で食べるつもりだった。久しぶりに徒歩で帰った私は、道すがら次々と変るテナントを、前は何のお店だったろうかと思い出しながら歩いていた。目の前を歩いている兄弟が、スーパーの袋を仲良く持っているのを見て、微笑ましくなった。もしかしたらという期待が浮かんで、私はその後ろ姿に「志木子ちゃん?」と声をかけた。手を繋がれた男の子が一緒にふり返る。

「先輩?」

何という僥倖。幸運。私は心の中で小躍りした。カラオケ店で井上君と現地解散して良かったと心から彼に感謝した。凄い偶然だ。いくら駅付近とはいえ、休日の夕方この場所で志木子ちゃんとすれ違える確率はさほど高くない。ノースリブのブラウスの柔らかい藍白が新鮮に目を透かす。露わになっている細い腕が、とても綺麗だ。

「偶然。こんな所で会えるなんて、びっくりした」

志木子ちゃんの私服を初めて見た。その細い手を握るもう一人の男の子に視線を下に傾ける。前話していた弟さんだろうか。志木子ちゃんに似て、美しい男の子だった。数式や、年号、元素記号の本来の意味が繋がる瞬間にも似た、激しい回路が私の中を駆け巡る。「徳次、ごあいさつして」と促され、弟さんは私に軽く頭を下げた。

「お姉さん、姉ちゃんの友達?」

「うん、そうだよ。お姉さんにはいつもお世話になってます」

高学年位の年に見える。私はなるべく誠意を持って、弟さんと接した。この頃の年の時、私達は、子供扱いも大人扱いもされない半端な時期だった。加護されるべき存在だったが、選択の余地も与えられた。その頃の記憶を引き出して、感情を思い起こす。私の笑顔に警戒し、見定めるような目で弟さんは私を見た。怯える猫のようだ。「可愛い弟さんね。似てる」と耳打ちすると、誇らしげに志木子ちゃんは顔を綻ばせた。

「誰かと一緒だったんですか?」

その問いに私は「うん、まあ」と言葉を濁すしかなかった。まさか志木子ちゃんが振った男と私が会っていたなどと言える訳がない。私の返事に怪訝な顔をすることもなく、「そうなんですか」と無邪気に目を細めた。

「私は買い物に出てきたんです。それから徳次、えと弟と映画に」

あまりにも志木子ちゃんが楽しそうに話すので、「楽しそう」と私はまぶしい日差しをまともに受けながら笑った。弟の徳次君は私に対してどうして良いか分からないように、ただ志木子ちゃんを見上げ、時々こちらの様子をうかがっていた。これから家に帰るのだという。

「先輩ももう帰るんですか?」

「ううん、何だか帰るのが面倒で。カラオケって疲れるのね。夕飯を食べてから帰ろうかと…」

「ああ」納得したような声を出した後、志木子ちゃんは少し沈黙し、「家で召し上がります?」と誘った。その誘いに「へ?」とまぬけな声が出た。徳次君も驚いた目で志木子ちゃんと私を交互に凝視する。「素麺なんですけど。お嫌いじゃなければ」と上機嫌に笑った。

突然の誘いだ。突然の出来事にびっくりする。何も手土産など用意していない。服も井上君と会うだけだと手抜きで来てしまった。最近井上君と仲良くしていることに負い目を感じていて、心の準備もしていない。様々な情報が脳の回線を駆け巡り、私は混乱に陥った。どうすれば良い。

「たいしたものはないですけど」慎ましく遠慮がちな視線をこちらに向けてくる。「そんな、突然」と私はかすれ声をやっと空気に振動させた。喉に何かが詰まっている。おそらくそれは緊張や罪悪感、歓喜などが混濁したものだ。咳ばらいをしてから、もう一度「突然悪いわ」とひきつった声を出すと、徳次君に訝しむような視線を送られた。

「頭数が変ったら、ご迷惑じゃないかしら」

「大丈夫です。素麺を茹でるだけだから、調整がきくし。大したものではないですけど…」

「ちょっと、待ってて」私は親に連絡し、道々露店で売っていた二つたこ焼きを購入した。「おみやげ」夕食の足しになればと思い買ったが、二人は思いの外喜んでくれた。たこ焼きの袋を持って、志木子ちゃんと弟さんと私は、暑い夏熱にあてられながら、混雑を酔いしれるように陽気に抜けていった。私の足は地面から三センチほど浮いていただろう。電車で志木子ちゃん宅の最寄駅に向かう。彼女の家は駅から歩いて二十分ほどの住宅街の一角に並ぶ一軒家だった。車庫の隣の小さな庭に、熟れたトマトがなり、玄関横の植木鉢の鮮やかな赤紫の朝顔が出迎える。志木子ちゃんが自宅に帰宅すると、ピンヒールの靴が玄関の三和土に並べられていた。上品な漆黒に近い色に若干紺が混じっている。視線を三和土に下ろしながら志木子ちゃんは素知らぬ顔で革靴を脱いだ。私も「お邪魔します」と靴を脱ぎかけた所に、かすれた女性の声が灯の部屋から聞こえてきた。「帰ってきたみたい」という弾んだ声に、徳次くんは小さく舌打ちした。志木子ちゃんはその舌打ちを、手と視線でやんわりと制する。

「どうぞ、散らかってますけど」

「お客様がいらしてるの、私やっぱり…」彼女の夕食に招待されることは私にとって望んでいたことだった。しかし何の心構えもなく招かれたとあっては、私にとって都合が悪い。腰が引けた私に志木子ちゃんは「大丈夫です」と心なしかとげのある小声で囁く。そこには私の恐縮を和らげると同時に、心配りが不要とされる訪問相手に向けての言葉に感じた。

洗面所に寄った後、リビングに案内されるとそこには彼女の父親らしき容貌の男性と、年嵩の女性が隣に座っていた。志木子ちゃんに「おかえり」と笑いかけた男性は、Tシャツにジーパンといかにも家の主らしく寛いでいる。二人とも私達の年代の両親と同等に扱うには、いささか若く、しかし微妙な年長者に私は戸惑いを隠せなかった。「お邪魔してます」と女性は屈託なく志木子ちゃんと徳次くんに声をかける。鼻筋が綺麗な人だった。あの時の花の匂いがした。「鷺沼さん、こんにちは」とそつなく返し、志木子ちゃんは父親らしき男性に私を紹介した。「いつもお世話になってる美森先輩。今日お夕飯一緒に食べてくれるって」

「ああ、どうもいつも志木子がお世話になってます。だけど志木子、今日は大したもんは用意出来ないだろ」

「今日は素麺だもん」

志木子ちゃんの父親らしき人は人の良さそうな印象的な目尻を落し、親者にしては若々しい体つきと素早さで私に座布団をすすめた。私は一旦彼にたこ焼きのはいった袋を手渡し、リビングに隣接する台所にいる志木子ちゃんを追った。制服にエプロンをかけた志木子ちゃんは、社交辞令らしい礼儀正しさで「鷺沼さん」と呼んだ女性に声をかけた。「鷺沼さんも、ご一緒にいかがですか。大したものはありませんが」一見柔和な物言いだが、歓迎されていないと察しの良い者なら分かる丁寧すぎる線引きがある。

「鷺沼さん」はきっぱりと笑顔で断り立ち上がった。「いいえ、お友達の分が減ったら可哀想だし、家で食べるから」引き際よく私が徳次くんとお皿を用意している隙に、もう玄関に向かっていた。鍋を火にかけながら「そうですか、じゃあまた今度」と返す志木子ちゃんはもう鷺沼さんを見てはいなかった。

「お土産にシュークリーム持って来たの。冷蔵庫入れといたから良かったら食べて」というかすれた声が聞こえた。志木子ちゃんは、ご馳走様です、と玄関にいる彼女に声を投げかける。見送りは志木子ちゃんのお父様だけらしい。私はどうしたら良いか分からず、素知らぬ顔で食器をテーブルに並べる事しか出来なかった。玄関の閉まる音がした。

夏野菜のサラダ、ゴーヤチャンプル、漬物、素麺、それから私が持ってきたたこ焼きがテーブルに並べられる。彩りが美しい晩餐だ。鮮やかな野菜が、私の目も肥やす。旬の野菜は瑞々しく、独特のくさみは感じない。ほのかにトマトの青臭さが口に広がるだけだ。これは庭でなっていた志木子ちゃん家のトマトだろうか。いつもより豪華であるのだろうその食卓に招待されたことが私を夢心地に浸らせる。

色付きのものが何本か混じる素麺を、徳次君が器用に器にうつしている。その仕種が何とも可愛らしくて、色付きの素麺を私はさりげなく避けて器に入れた。穏やかだが、賑やかな食事だった。いつも私が記号の欠片のように拾うテレビのニュースを、佐々木家は真剣かつ面白おかしく見ていた。やはり若い父親らしき男性は、志木子ちゃんの義父だった。母親が亡くなっていることは何となく察していたが、再婚の連れ子だったことを志木子ちゃんは、すんなりまるで最初からそうだったようにその事実を受け入れている様子だった。お父さん、と呼びかけることはないが、アキちゃんとかける声には敬愛と信頼が反映している。半年一緒に金曜日の放課後を過ごしていて、志木子ちゃんの家庭事情を耳にしたのは初めてだった。

夕食の後、しばらく志木子ちゃんの父親と徳次君と食後の余韻に浸っていた。いつも、母親の眼前で食べる一人だけの夕食がどれだけ窮屈か、沈黙がどれだけ料理の質を落すか改めて実感する。開け放たれた網戸から、虫や蛙、犬の遠吠えが響いてくると、何だか落ち着いた。台所では志木子ちゃんが流しで食器を洗う音がする。どこにでもある、そう思わせるこの家は心地よい。彼女の好きな書籍が、隅の棚に並べられているのを見て、なんだかほっとした。きっと志木子ちゃんの何気なく一部がそこに放置されているからだろう。志木子ちゃんの私物、痕跡、生活が染み込み、そこにはちゃんと居場所が確保されていた。

志木子ちゃんが連れ子だとしても、弟の徳次君とは半分血が繋がっているのだ。まるっきり他人ではない。私が考えるような、ドラマの演出のような居心地の悪さは感じら

いないのかもしれない。私は徳次君の話し相手になっていた。たまにおかしなタイミングで話に入ってくる志木子ちゃんの父親は、あまり私達女子高生に慣れていないようだった。

二枚目になりきれないような三枚目の容貌で、純朴そうな目元に笑い皺がにじんでいる。

私と徳次君は二人でテレビゲームをすることになった。小学校以来ブランクがある私は、相当に手こずり、案の定惨敗した。なかなか家族は相手にしてくれないのだろう、徳次君は私に勝てたことで気を許したのか、「このゲーム、ウーマンから貰ったんだ」と嬉々として言った。

「ウーマン?」

「あの家にいた奴だよ。家にいた奴」

私はお邪魔した時に一瞬感じたチリリとした空気を思い浮かべ、「ああ、あの人」と顔を思い出そうとした。鼻筋の通ったそこそこの美人だが、志木子ちゃんの隣に立つと見劣りしてしまう程度の、そんな容姿だった。

「何で、ウーマンなの?」と素朴な疑問を訊いた。おそらくあだなか何かだろう。

「お父さんと同じ会社なんだけど、キャリアウーマンなんだって。ご機嫌取りに貰った」

徳次君は、忌々しさと面白みがない交ぜになったような声で言った。多分まだ「キャリアウーマン」の意味を理解してないであろう彼の表情には、子供がどうにもできない事情を持て余す濁流の、そんな寂しさがあった。「よく来るんだ?」となるべく平静な声を出す。「最近ね」とゲームを片付けはじめる徳次君を見ながら、毛嫌いしている割には貰うものは貰うのかと、子供らしさに少し笑った。

「俺の母さんは、俺を生んで死んじゃったから。ゴサイを狙ってるんだって、姉ちゃんは言ってた」

気負いもなく、罪悪感も見せずに、徳次君はそれを言った。推測していた所にいきなり解答を提示されたようなあっけなさと、純粋な驚きがあった。こういう場面で何と返せば良いのかまだ知らない私は、そう、と気の毒そうな顔をするしかない。「だけど、新しいお母さんはいらないんだよな」と現状を思いやる溜息をついた。大体志木子ちゃんの家庭環境は分かった。けれど、それしか分からない。志木子ちゃんが「鷺沼さん」を激しく忌み嫌い、憎んでいるということ以外は。

では、この子は誰が育てたのだ。誰が、お母さんはいらないと言える程の愛情で、慈しんだのだ。この子がまだ赤ん坊の時、この子と同じ位の年だった志木子ちゃんが? 抱きかかえ、乳を飲ませ、あやし、守っていたというの? 母親のいない乳飲み子の弟を? 息を止めたような私の顔を、不思議そうに徳次君は見ていた。震える自分の体を私は抱きしめたくなる。「鷺沼さん」を見る志木子ちゃんの目は、嫌忌、怨恨、憎悪が無分別に一緒くたにされたように、まるで、まるで。たどり着きたくない答えへと導かれそうになるのを、必死で堪える。まさか、それはないだろうと、私は願うしかなかった。

帰り道は夏の暑さが抜けきっていた。それでも私はさっきの言葉が頭の中で反芻し、火照った顔をもてあましていた。反して背筋はひんやりと冷たい。夕食を頂いた後、見送りを断って私は一人、住宅街を歩いていた。駅までの道を思い出しながら、どうしても頭から抜けきれない疑惑があった。涼しい暗闇に一人、という構図が怖くなって携帯を取り出し、誰に電話をかけようかアドレス帳を探す。井上彬の電話番号が目に入り、咄嗟に通話ボタンを押し、もし彼が出たら何を話すのだろうと考える。何も考えていない。用件など何もない。出ないでくれ、と身勝手な祈りは届かず五コールで「もしもし」と井上君の声が電話口から聞こえた。

「先輩? どうしました」

安堵と爛れるような焦燥感に喉をカラカラにしながら、「喉が痛い」と言った。「今日のカラオケの所為で、喉が痛いの」と軽く咳をする。一瞬何の事か気付かず、「え?」という困惑した声をした後、自分が原因だと納得したようにまた困惑した声を出した。不本意な、戸惑った声色で、謝罪した。

「え、ああ、はい。すみません、俺がカラオケつき合わせたから」

「そうよ。おかげで声が掠れちゃって」

「大丈夫ですか」

「どうにかしなさい」

「無茶言わないで下さい」

いとも簡単に私の要求は却下された。私だってどうこう出来るとは思っていない。けれど、それでは私のこの重石のような動悸は消えてくれない。手が汗で携帯を上手く掴んでいられない。どうすればいのか、分からない。

「どうにも出来ないことって、どうする?」

「え?」

「もし、私の喉がどうにもならないとしたら、井上君ならどうする?」

沈黙が落ちる。呼吸の息がよく聞こえた。考えあぐねている。平坦で柔らかい声が聞こえた。ぼんやりしていると聞き逃してしまいそうなくらい、アクセントのない教科書の朗読みたいな声だった。

「思い出さないようにします」

私は、「はあ」と気の抜けた焦点の合わない返事をする。何だそれは。

「人間は本当の意味で忘れる事は出来ないそうです。それが印象深い事なら尚更。だから忘れたふりをして、思い出さないことが一番の解決方法ですかね。俺にとっては」

「それ、解決してないじゃない」

「だって解決出来ないんでしょ。無理にでも忘れるしかないじゃないですか」

それを言われたら、もうどうしようもなかった。この行き当たりばったりでかけた電話口で、押し黙るしかない。彼は私が喉が痛くてわざわざ電話をかけたわけではないと、察していた。

「だから先輩も喉に良いものでも飲んで、早く寝てください」

「分かった。もう帰る」

「まだ帰ってなかったんですか」と呆れた声が聞こえたので、貴方の元想い人の家で夕食をご馳走になったのだと言おうとしてやめた。彼にその事実を伝えるには、まだ日が浅い。私は胸の奥で重要な暗号を呟くように、言葉を反芻した。忘れる、忘れる、忘れる。

「あ、紅茶とか、レモン蜂蜜とか、効くらしいですよ。俺は試したことないんだけど、先輩やってみたらど、」

「先輩」と遠くから呼びかける声に反応して、私は反射的に携帯の通話を切った。ビニール袋を手にぶら下げながら、私に向かって駆けてくる。素早く携帯を鞄にしまい、平静を装う。心の内を見透かされたみたいに狼狽する心臓を叱咤し、汗のにじむ手を振った。

「これ、トマトお好きでしたよね。良かったら」

手渡された袋を見ると中には大きさのバラバラな、赤々しいトマトが寄せ合い、青臭さを主張していた。

「貰って良いの?」

「持ってって下さい」

トマトを受け取った後、私達は何となく帰り道を一緒に歩くことになった。そうして初めて志木子ちゃんが私を送るために、トマトを持って追いかけて来たのだと悟る。嬉しくなった私は、ゆっくりと歩幅を落として、タイミングをうかがった。

「今日は突然ごめんね。お夕飯、美味しかった」

「本当ですか。良かったらまた来て下さい」

「徳次くんがね、鷺沼さんのことを教えてくれたの」

志木子ちゃんの息が止まった。私の目を、顔を、心情を覗くような視線を向ける。真意をさぐる目だった。「徳次、が言ったんですか」

「うん。お父様、近々結婚なさるようで。おめでたいわね」と祝福を含んだ声で、軽々しく笑う。

「そんな訳ありません!」

声を荒げる志木子ちゃんを初めて見た。驚愕で呼吸が狂ったような、声だ。私も驚愕する。けれどどこかそうなることを予測してきた気もしていた。思いつめた顔で志木子ちゃんは、「そんな訳ないです、だって」と小さく呟いた。私は素直に「うん、そうだね」と言った。それ以外に言えなかった。改めて思い出す、さっきの鷺沼さんを見る志木子ちゃんの憎悪、敵意。私の考えが間違いであれば、どんなに良いだろうと願った。まさか、と否定出来ない自分がいる。確信する。彼はおそらく鷺沼さんと結婚することはないだろう。子供達にここまで嫌われていては、反対されて終わりだ。最近志木子ちゃんが早く帰宅し、苛々していた原因が分かった。家で待ち構え、邪魔をし、二人きりにさせず、義父をとられないようにする為だった。

愛しい義父の為に。

「やっぱり、そうなの」

納得した私の声に、志木子ちゃんはこれ以上ない程肌を青白くさせた。私の真意が分かったのだろう。ただでさえ薄い肌から血管が浮き出そうだった。その肌に触れてみたいと思いながら、ビニール袋の取手を強く握りこんだ。「あの人のこと、好きなのね」

志木子ちゃんが泣きそうな顔になる。それも一瞬だった。不本意そうな、気まずそうな様子で、小さく頷く。恥じているような、苦しげな表情にも見える。志木子ちゃんにどうして、と訊かずにいられない。ねえ、あの人が志木子ちゃんの好きな人なの。

「どうして」

単純な問いに、志木子ちゃんは笑った。諦観に近い、腹立たしさの中から微笑がはみ出るように浮かぶ。そこには、寂しさととらえどころのない喜びを感じた。痛みなのか、恍惚なのか、判別がつかない。どちらかなのか、どちらもなのか、私には分からない。

また私は「どうして」と子供のように繰り返した。なぜ、どうして貴方達みたいに美しい人が、こんな思いをするのだと。なぜ、わざわざそんな人を好きになったの。その答えを昔から何度も何度もなぞってきたのだろう。志木子ちゃんは、何度も何度もなぞってきた答えをまた私に繰り返した。やはり目を細め、笑ったままだった。「昔は」と視線を下げる。

「昔は、何でも私のお願いを聞いてくれました。連れて行って欲しいところに連れて行ってくれたり、欲しいものをくれたり。父がいなかった私はとても嬉しくて、アキ兄ちゃんが大好きだった。それから母と結婚して、徳次が生まれて…。母の葬儀ではあの人が一番泣いていました。忙しい葬儀の後は、魂が抜けたみたいにぼんやりして、何も出来なかった。誰かを支えたいと思ったのは、その時が初めてでした」

なぜ、どうして、と私は志木子ちゃんに子供のように繰り返す。それは志木子ちゃんが一番知りたいのだろう。なぜ、母を裏切るようなことをするのか、なぜ、世界中の数ある人間の中から彼を選んでしまったのか。なぜ、好きになってしまったのか。「ずっと、私が傍で支えたいんです」

それは例えば、戦慄と恍惚が細波のように寄せては返す時の感情に似ているだろうか。恐怖の痛みと、愛しさの気だるさを共有することなのだろうか。

「じゃあ志木子ちゃんはどうなるの」

私は思わず懇願するような声で彼女に縋った。肩をつかむ。「どうもしません」動かぬ事実のように、微笑しながら、志木子ちゃんは事もなげに言った。足はいつの間にか止まっていた。なんだか取り返しのつかないことをしてしまったように、私は志木子ちゃんの顔をはっと見つめた。なんて澄んだ目で私を見るのだろう。見透かすような、風を吹かせるような、澄んだ瞳で私を見てくる。なぜ時折、志木子ちゃんはひどく疲れた老婆のような表情になるのか、今分かった。ずっと、ずっと、いつ壊れてしまうとも知れないあの家を、守っていたからだ。気が遠くなるような時間、危うい均衡の糸に足を乗せているからだと、分かった。

段々と、心許ない虚しさとやるせなさが襲ってくる。息苦しさに似た、焦燥か嫉妬か、それとも虚脱感なのか。説明がつかない動揺が私の心に絡みつく。なぜ、なぜこんなにも愛らしく、人目を惹きつける美しさを持つ彼女がこんなにも柔らかな目ですべてを突き放さなければならないのか。

苦しい。お人形のような可愛らしい後輩は、私が思っているよりずっと気位が高く、愛情深い。諦観した瞳、今にも涙が零れそうな、迷いのない煌く双眸。紅涙をしぼる。ふとそんな言葉を思い出した。私は見惚れて声が痞えてしまった。眼前には、すべての罪をかぶり、それを平然と受けとめ、誰にも気取られないように取り澄ました、清々しい笑みが浮かんでいた。今日という日が永遠に続くように、限りない喜びに満ちる、尊い愛情の込もった目付きだった。

「言わなくて、いいの?」

かろうじて私はそれだけ問いかけ、志木子ちゃんの細い手首をつかんだ。

腕をつかまれた志木子ちゃんは、遠い記憶を思い返すような顔で、私に笑いかけた。

「ずっと、傍にいると誓いました。言ってしまったら傍にはいられません」

美しくあれば誰しも幸せになれるものだと、幸せになるべきだと、そう信じてきた。お姫様のような、天使のような、妖精に似る彼女ならそれが叶うのだと、何と思い違いだろう。彼女は今でもこんなにも長い間懺悔していたというのに。

「ずっと、って…」

泣きそうになるのを堪えながら、嗚咽を飲み込んで、問う。実際は問いとはいえない、戸惑った掠れた声だ。志木子ちゃんは音もなくしゃがみこんだ。酷く億劫な動作で、スカートの裾が地面に触れる。くず折れた華奢な体も、美しい顔を隠すだらりとした黒髪も、身をまとう服でさえ、なまめかしく切ない。

一歩足元を誤れば、途端に溺れる薄氷の、それでもきらきらと反射して美しいのは何だろう。なぜこうも、美しさを一寸も損ねずに、涙を流せるのか。下から「骨に、なるまで」とくぐもった声が聞こえて、今度は躊躇いもなく志木子ちゃんを抱きしめる。柔らかい体の中には、確かに私達を支える骨が規則正しく並んでいる。温かい。

志木子ちゃんの妖精の様な可憐さも、肌も、体も老いる事があるというのか。老いて、老いて、老いて、いずれ白い骨が曝け出されるのだろうか。その骨はどのような感触なのだろう。硬いのか、柔らかいのか、脆いのか、粗いのか、艶やかなのか、おうとつがあるのか、しっとりと手に吸い付くのか。どれだけの時間をかけて志木子ちゃんは自身の美を手放し、骨を見出していくのだろう。私はその骨を埋葬することが出来るだろうか。私に、その骨を拾う資格があるだろうか。


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