イブ
アルカはこの場所にきて、彼女にようやく慣れてきた気がする。
「このぐらいの数、なんてことない」
アルカは自分に言い聞かせた。
そしてひとつ、大きな深呼吸をすると、目の前に広がる小隕石群と、レーダーにたったひとつの点滅する光と、時計のカウントダウンを順に見た。
〈5、4………スタート〉
余計な時間は与えない。一気に勝負をかける。
ペダルに全体重を預け、彼女に最大の加速を求めた。
予想された通り、残念ながら一瞬の出力はスタースクッドには劣る。それでもスピードに乗り始めると、自機の状態がイメージしやすいからか案外悪くない。
R3BEがけしかけてきた勝負。負けても彼女を彼に渡すつもりはさらさら無い。だがこの小隕石群内でなら、R3と自分にそこまで差はつかないはずだ。晴れて自分のものにしたい。
「ここ全力で抜けるよ。たぶん痛い思いさせるけど、ちょっと我慢してね、イブ」
イブに決めた。それはアルカも知らず知らずのうちに、ずっと奥底で揺蕩とうていたのものだった。
◇
<イブ>にはそれがはじめ、自分に向けられた声だとは気付かなかった。
それもそのはずだ。響いてくるのは言語というより、
「0ghso―――」「&#mJGS&3――」
と、ぼんやり記号が頭の中に浮かんでくるみたいだった。
体が鉛のように重い。ホテルに着いたのに、いまだ荷物を下ろさないままでいるようだ。横になりたい。スッキリしたい。そう思っているのに、体がままならない。
姿の見えない相手に、ではこちらからひとつ仕掛けてやろうかとも思うが、うまく言語化できない。
リプログラムされた影響か、イブはなかなか完全には目覚めることが出来ないでいた。
体が置いてけぼりにされるような――。いや逆の方が正しそうだ。体だけを持って行かれるような不安を、イブは強く感じた。
体の底が徐々に熱くなっていく。そして一瞬ぐいっと強く引っ張られるような感覚がしたかと思えば、今度は何かが触れてちくちくとした。体はひたすら左に振られ、右に振られるし、天地などはそもそもなかった。
ただただ乱暴にしか思えなかった。声を出せればありったけの罵声を浴びせるところだ。右に切るかと思えば左に切り、上に切るかと思えば下に切るものだから、眠ったままでいられた方が彼女にとってはどれだけ良かったか知れない。
だが皮肉にも無茶が覚醒を早めた。
誰かが〈私〉を動かしている。どうせ自由にならない体のことを忘れることにすると、置かれた状況がおぼろげにつかめてきた。
闇に何かを追いかけている、らしい。〈私〉の視点はかなりのスピードの中、一点だけを凝視している。目標に対してひたすら直線的に思えるその動きも、体をひねったり、手や足すら支点にして、四方八方から飛び込んでくる障害物を見事に避け、鮮やかな曲線を描いていく。本当に当るかと思うものも(問題のない範囲で小さいものは実際に当たっているが痛みはない)あったが、誰かは常にギリギリ、ベストの選択をし続けている。なかなか上手いものだ、と感心した。
とにかく今は委ねてみよう。ジタバタしたところで何になるものでもない。そう腹をくくれば、少し体は軽くなった。
空を舞うとはこんな感覚かも知れない。気流に流されたり、時には逆らって急上昇する鳥たちはこんな気分だろう。
気持ちをようやく落ち着けて、気が付いたことがある。
そういえば遠くでずっと音がしている。本当はチェイスの最初から聞こえていた電子音。はじめは全く気にも掛らないほどの、ゆったりした間隔だった気がするが、今では高まった鼓動のように早い。
それにもう一つ。
隕石群の中では自然に起こること、ぐらいにしか思っていなかったのだが……(今ではもう、<自分>が宇宙空間にいると、イブには察しがついていた)。進行方向に沿って右で左で、石が爆ぜている。それも今ではかなり早くなったピコピコとタイミングを合わせるかのようにだ。もちろんどれだけ加速がつこうとも、誰かは依然として上手く避け続けている。
しかしこうしてみると、まるで行き先を誘導されているような気さえしてくる。
罠だ――。
「……」
自身を動かす誰かへ、それを伝えたくても言葉は相変わらず形にならない。
そしてその誰かさんはまったく耳を貸すことなく、〈私〉はそのまま一直線に進み続ける。
不意に――。
電子音と爆破音が鳴り止み、静寂が訪れた。
目の前に身がすっぽり隠れるほどの大きな隕石が現れ、正面を塞いだ。開いたコースは一つしかない。
「ダメだ。聞こえて――」
イブは訴えるように叫ぶ。
意思が通じたのか、すんでのところでようやく減速したような気がした。
だがそれは全くの気のせいだった。すうと息を止めるのが聞こえたかと思うと、ひとつの迷いもなく急加速して、まっすぐ突進していく。
強烈な甲高い警報と、それには不似合いなほど落ち着き払った合成音声が、体の奥から同時に聞こえる。
〈On a Collision course〉
イブは思わず目をつむった。
次の瞬間には〈私〉の手にはライフルがあり、前方には視界が開けている。
とっくに発砲済みのようだ。銃身の熱がじんわり伝わってきて、遅れてバラバラと破片が叩く音がした。
「GV"SGR#RJ38D――」
さらに続けて、指が引き金を引こうとする。目の前には一隻の船が浮かんでいた。
〈勝手に撃たれてたまるか。私は相手も知らないのに〉
そこまで考える猶予はなかったが、イブの中にためらうものがあった。
なんとか押しとどめられた、のだろうか。弾は発射されず、だが気付けば前方の宇宙船からはこちらへ砲口が覗き、いまだ警報が鳴り続けている。
◇
「アルカ!アルカ・ベル。聞こえるか、そこまでだ」