ある、月の日
マザーが期待したよりもずっと、彼女は記憶を失っていた。自分の名前さえ。
「あなたは誰?どこから来たの?」
その小さな命が長い眠りを脱すると、ティコ基地には喜びがあふれた。間違いなく「喜び」という呼び名でいい。たとえこの瞬間はそうでなくても。
◇
マザーにしてみれば、人類の現在や地球の行く末など聞いてみたかったが、それは仕方がないことだった。どこからどうみても成人に達していないどころか、はるかに幼年の女の子だった(実際LJに乗せられたのは5、6歳の頃である)し、そもそもマシナの作用によって全ての記憶は消えるのだから。これが本来の計画通り、ということになる。彼女がそのまま目覚めたことがそれを証明してしまうのだ。
だからと言うのもはおかしいが、彼女はマシナルから別の期待を背負うことになった。
そのためにはまず名前が必要だった。月で生きていくための。
アルカ・ベル。
これが彼女に与えられた名前だ。付けたのはTT-T。彼が聞いた、あのときLJの内部からこぼれてきた音にちなんでいる。
少しでも所以がある方が良かろう。いや実際そうなのかも知れなかった。マザーもそれに同意した。
「アルカ。あなたの名前はきょうからアルカ・ベル」
とマザーが言い、
「ア」「ル」「カ」
とTT-Tが短く区切った。
アルカは目をぱちくりさせるばかりで、なかなか言葉を発しない。幸い、マザーや他のマシナルに囲まれても怯えることもなかったが、ぼーっと突っ立つばかりで、不思議そうに周りを見渡している。
ヒトがとっくにいなくなったにしては、ティコには案外名残がある。だがそれを見たところで、何も思い出すことはない様子だった。
どれくらい繰り返しても進展をみなかったのだが、突破口を開いたのはある出来事である。
司令室からはかなり広い視野で辺りが見渡せる。といって見えるのはほとんど一面の砂漠ばかり。だがそのときちょうど、ゆっくりと、大きめの光が右から左へ横切っていったのをアルカは指差した。流星だ。それほど遠くない距離。しかし軌道計算上、月に影響がないことをマシナルは知っていたから、
「大丈夫だよ。あれはスタースクッド。ただの流れ星だ」
はじめ、彼女を混乱させまいと、マシナルたちは余計な言葉を極力口にしないように努めていたのだったが、TT-Tの発した言葉にふとマザーはある考えに行き着いた。
「逆だったのかも知れません」
マザーは指であちらこちらを次々差しては、言葉を並べていく。
「モニター」
「窓」
「アンテナ」
「マイク」
「エアサプライ」
「ライト」
「電算機」
「砂漠」
「ビークル」
「ドアー」
それからぐるっと一周指差して、
「コントロールルーム」と二回繰り返した。
そして締めくくりに、直接指をアルカの胸に当てて言った。
「ア・ル・カ」
「ア・ル・カ?」
「そう、あなたがアルカだよ」
そう言って今度は、アルカの手を引いてアルカ自身の胸に押し当てさせた。
「アルカ」
「アルカ!アルカ!」
つっかえが外れたように連呼して、アルカはけらけら笑っている。
さて次は……。
「私はあとで。あなたから」
「はじめましてアルカ。私はTT-T」
「タータータ?」
「違うよアルカ。ティーティー・エン・ティー」
マザーがしたように、TT-Tは細いアームをポッドから伸ばして、自身を差した。
「ターター・ター……」
「ゆっくり言ってごらん。ティーティー」
「ティーティー」
「エン・ティー」
「エン・ティー」
「そう。言えた。出来たじゃないかアルカ。はじめまして」
「ウフフフ」アルカが言った。
「ウフフフ……?」
それを今度はTT-Tが反芻した。
「ヒトの『笑う』という感覚です。TT-T」
ティコで人と過ごした経験を残すのはマシナルはマザーのみである。
だが嬉しそうに話すわりには寂しそうだとマザーの熱量からTT-Tは感じている。水準より一度上がってすぐ落ちた。
「さあもう一回。私は誰だ?アルカ、さあ言ってごらん」
「タータータ!」
「また最初からか……」
フフフ――。アルカからもマザーからも「笑い声」が漏れた。
「これは思ったより時間が掛るな。さあもう一度」
幾度同じやりとりを繰り返しただろう。
「きょうはこのへんにしておきましょう。彼女も少し疲れているようです」
マザーからついに水が入った。
TT-Tの方ではどうということもないが、肝心のアルカの方が飽きてしまって、へそを曲げている。
「我々のことも伝えやすい接し方を探しましょう」
「はい」
TT-Tも同意した。これからは理解して、理解させる必要がある。色々なことを。どうしたってアルカとマシナルは違う存在なのだから。
「もうおやすみアルカ。これからはあなたも月の一員なのですから。睡眠はきちんと、十分に。では彼女を寝室へお願いしますね。タータータ」
◇
マザーがTT-Tを作り出しておよそ3000年。ティコ内の無数にある機械やマシナルのメンテナンスをし、ときには役割を逸脱したりして、様々なデータを収集している間、いつだったか「タータータ」と名がついた。そしてその時間の終り間際、彼にはヒトのような心が棲みついたのだった。