イブとアルカ
高まりが、すっと引いていった。
風が、初めは穏やかに、次第にうねりを伴って激しく後方へ流れていくのをイブは感じる。加速中はざらざらとノイズ交りだったのが、ある点を境にピーンと張り詰め、アルカの柔らかな息遣い以外には何も聞こえなくなった。
スラスターの残した二筋の光はやがて細って、掠れたようになって消える。それを見て、イブはふと懐しさと得体の知れない寂しさを感じた。まるで宇宙にひとり残されていくような…。
イブはその源を自分の中に探してみるのだが、どこにも見つからない。
スピードがある程度に達したところで、アルカはゆっくりと舵を左に切り、イブは惑星の円環をなぞるように大きく弧を描いた。
「吹っ切れたかい? アル」
「ま、少しはね」
何ともはっきりしない。しかしアルカが少し落ち着いたのは息伝いに伝わってくる
「もう少しなら踏み込んでもいいよ」イブはアルカに促す。
「本当に大丈夫なの? あなたが壊れてタータに叱られるのは私なんだから」
「大丈夫。きょうは調子がいい」
「悪い時があっても困るけどね」
どの星からも引力の影響を受けないこの空域は、本当に自由だ。今度は全体重をかけて、アルカはペダルをぐいぐい押し込んでいく。彼女達は切り裂くように縦横無尽に飛び回った。
アルカの操縦とスピードに身を任せていると、イブの心もどこか軽くなる。だがこの日に限って、浮かんだ景色はなかなか消えなかった。
時間にすれば10分くらいのものだ。宇宙のそれは一瞬のようでもあり、永遠のようでもある。二人きりだったせいかも知れない。
〈そろそろいいか……〉イブはゆっくりと力を抜いた。
アルカの目の前に表示される速度は見た目ほとんど変化していない。だがどこかおかしい。イブがそうしたとも知らず、アルカがそれを感じとって、声を上げた。
「どうしたの? まさかと思うけど……。故障?」
考えることがあってイブは返事をしなかった。
慌てたアルカは状態を確認しようと急いでシートから体を起こした瞬間、急制動がかかった機内に重力が跳ね返り、彼女はシートに頭を思いっきりぶつけた。
「なにか答えてよ、イブ……」
アルカの声は弱々しく涙交じりになっている。
「アル。あなたはこんな光景見たことがあった?」
「ちゃんと、すぐ返事してよ……」
アルカは手で目を軽く拭い、安心して体をシートに深く埋めた。
「真っ暗なところにたった一人で浮かんでいるような、さ…。そう、例えばこの宇宙みたいな。小さな光が近付いたり、離れたりしていて、手を振られたような、振り返したような…」
前髪をめくりあげ、赤くなった額をさするアルカに構わず、イブはひとりで話し続けている。
普段よりはるかに饒舌なイブに、アルカは少しとまどいながら、
「何を言ってるかさっぱり分からないんだけれど……」
「思い切り飛ばすとさ。時々今言ったような景色が私に浮かぶことがある、そんなことあるわけないのにね。でもそれを私は不思議と、懐しいといつも感じている。それで急に思いついたんだ。あれはアルの記憶なのかもってね」
アルカは少し考え込んでから、答えた。
「私は小さい頃、誰かに連れられてティコまで来たらしいけれど。何にも覚えていないの、残念ながら。物心ついたときにはここにいて、マシナルに囲まれてた。でも帰ったらジェイに聞いてみようかな」
「今まで聞いてみたことなかったの?」
「不思議とね。気兼ねしたせいもあるけど。私はみんなと違うと感じていたけれど、それをなんとも思わなかったし」
「そんなものなのかな、ルーツって」
「イブの方がよっぽど人間っぽいよね。さっきの意地悪といい」
フフフ、とアルカから苦笑いが洩れた。
「それは悪かったね」
「あなたは私のイメージしたまま動いてくれる。でも記憶までシンクロするなんてことあるのかしら」
それきり二人は何為すこと無く、ただぷかっとしばらく浮かんでいた。耳をすましていると、ざあ、という微かな音に交って、時折電波に乗ったのか、声らしきも聞こえた気がする。
アラームが鳴り、きょうの任務終了を告げた。
「さ、帰ろうか。基地と交信するから、少し静かにしててね」
イブにそれが見えるわけもないのだが、アルカは自分の上唇に軽く指を押しあてた。
「こちらアルカ・ベル。2230哨戒終了。当機以外の影なし。現在のポイント304・59NW268・46O。これより帰投する」
「ティコ・コントロール、あなたの任務終了を確認。ただしマザーからの追加任務を伝える。惑星コリドニアへそのまま向かえ。座標は10593・83NW53・25U。詳細は追って連絡する」
座標からすると…、結構遠いな――。アルカは目の前に浮かび上がったホログラムで、現在位置とコリドニアがあるであろう場所とを指の尺で結び、簡単な計算をした。直線距離にしても、まだおそらく3日はかかるだろう。
「コントロール、これもジェイの訓練の一環?」
「私は知らない」
そう――、とアルカが答えかけたとき、イブの体が一瞬大きく傾いて、彼女は再び頭をぶつけた。
「イブ?また?」
「さっきのは悪かったよ。でも悪気があってしたことじゃない。そして今のもわざとじゃない。なんだか波に打たれたというか、風に揺らされたというか」
「そんなこと言って。宇宙で風が吹くなんて聞いたこともない。いたた、結構硬いんだから、このシート……」
「ごめんごめん。ま、それがあんたの生きてる証拠ってことだよ。私と違ってね」
帰るべき場所はもうコインほどの大きさになっている。ティコへ帰るのだって時間がかかりそうだ。
「アルカ・ベル、任務を確認。目標へ向かう」
しばらく待ったが返信はこなかった。
「ま、いっか。交信終わり」
アルカはふうと、ひとつ溜息を吐き切り、
「それじゃあ、とにかく行きますか、イブ」
「コリドニアに何があるんだろうね」
「さあ。ジェイの考えることはもう分からないな。だってもう少しほめてくれてもいいんじゃない?やっと勝ったんだよ。それにきょうだって……」
「まあまあ。目標までしばらく私がやっておくから、少し寝てていいよ。疲れただろう」
「ありがとう。なら、ちょっと任せるね」
イブが機内を暖気で満たすと、アルカのまぶたはすぐに重くなった。
彼女が眠りに落ちる寸前、イブはこんなことを思って、聞いてみた。
「アル――。最近、星が暗くなったと思わない?」
「――そうかな……?」
それ以上の言葉は返ってこなかった。その代わりに、預けられる背中をイブは愛おしく感じた。けれど同時に、焦れるような嫉妬があるのも彼女は自覚している。