序
カーテンの合間から眩しい太陽が差し込むのと同時に、ラヂオ越しの軽快なピアノに弾むようなかけ声が聞こえる。
ーー腕を〜〜〜げて〜〜の運動から〜〜
毎朝の恒例として、近所のじじばばが公民館に集合しているのだろう。現場にほど近い黄ヱ門の家には、周囲の迷惑顧みないラヂオ放送が聞こえてくるわけだ。
さすが爽やかな朝を演出するだけの放送である。まだ起きたくもないのに、ラヂオのリズムに脳は活性化し、目覚めざるを得なくなる。
「まったく、あのじじばばときたら。近所迷惑もわかっとらんのかい」
水戸黄ヱ門は早起きに対して並々ならぬ抵抗感を持っている。年齢的に言うと外で体操にいそしむじじばばと大差ないのだが、早起きはじじばばの特徴だからとあえて遅くまで布団にくるまっていたいお年頃だ。
黄ヱ門はただのじじいになる気などない。誰もが振り返るスーパーじじいになるのだ。彼らと同じ生活などしてなるものかと天邪鬼極まりない台詞を脳内で発する。
それに。と、黄ヱ門は、にまりと頬を赤く染める。
早く起きてはいかんのだ。せめて後一時間。それから居間に行くのが一番良いと黄ヱ門は知っている。
可愛い可愛い可愛い孫。愛しの明菜ちゃんが朝食を食べる時間だからだ。
『おはよう、おじいちゃん。今日もかっこいいね!』
『明菜、おはよう。可愛い明菜の為に、自慢の筋肉を維持せねばならぬからのう。今日もとれいにんぐ、じゃよ』
『流石おじいちゃん! 私、いっぱい応援するね!』
……なんて、可愛い孫との会話を脳内再生させてみる。うん、今日も褒められる心の準備はバッチリだ。外の音楽は邪魔者極まりないが、可愛い孫のことを妄想して過ごす時間も悪くないだろう。
……と、脳内シミュレーションはバッチリでも、現実はそう甘くないわけだが。
「明菜、おはよう。今日も元気かの」
「……おはよ」
とっぷり妄想に浸っていたところ、気がつけば1時間以上経過していたらしい。慌てて居間にいくと、明菜がぱくぱくと朝食を食べていた。少々出遅れたらしい。
彼女は蜂蜜たっぷりの食パンを半分ほどかじりつつ、テレビに夢中だ。あと10分ほどしたら占いの時間である。その頃にはもう、家を出てしまう。
僅か10分程度の逢瀬だが、黄ヱ門にとってはかけがえのない時間であった。
――ワシの明菜は今日も可愛いのう。
黄ヱ門の送る熱視線を、孫の明菜は冷めた様子でスルーする。
小学4年生と、思春期に差し掛かる難しいお年頃。まして女の子なものだから、年齢の割に精神の発達が早い。気が強い明菜はクラスでも人気者で友達も多いのだが、自分のじじに向かっても随分と言葉が荒かった。
「おじいちゃん、頭邪魔。タクミ君が見えないじゃん」
「ぬ……すまんかったの」
孫かわいさにテーブルの正面に座ったのが良くなかったらしい。テレビの画面――ひいては彼女の贔屓にする男性アイドルのタクミ君なる人物をすっぽりと隠してしまっていたらしい。目の前の可愛い孫は些か不機嫌だ。心底冷ややかな瞳でにらみ付けられたが、それもまた愛い。
席を移動するついでに朝食のご飯を山盛りに盛って、今度は明菜の隣に座った。さぞ嫌そうな顔をされたが、きっと照れているだけだろう。いやよいやよも好きのうち、とはよく言ったものだ。
「おじいちゃん今日も生卵? よく食べるね、そんなの」
グラスに割った2つの生卵を見て、明菜はますます顔をしかめた。
スーパーじじいになる為には、毎朝の栄養摂取が不可欠だ。ボウルいっぱいのお野菜に、常備菜の根菜の煮物。わかめのお味噌汁に焼き鮭。
そして重要なのは貴重なタンパク源だ。生卵を飲めば元気百倍。実際にもっと効果的な食事もあろうに、彼はこの生卵健康法を信じてやまない。腰に手を当てまるっと飲み込む。
これが心底明菜に気持ち悪がられていることには、黄ヱ門は気づく様子がなかった。反応があるのが嬉しくて、ごくごくと嬉しげに丸呑みしてしまう。
心底嫌そうな表情で明菜は顔を逸らした。そしてそのままひょいぱくと食パンを食べてしまい、明菜はすぐさま席を立った。
「……よし、3位。行ってきます」
テレビの占いは蟹座の運勢まで流れた。彼女の結果が分かれば、もう後は興味が無いのだろう。
明菜は赤いランドセルを背に颯爽と家を出て行く。彼女の頭の切り替えは早く、黄ヱ門はにこにこと送り出した。手を振ってみたが彼女は振り返ることはない。前だけを向いて生きていくらしい。ふむ、あれは将来キャリアウーマンになれるぞいと孫の将来に夢を膨らませ、頬を紅潮させた。
可愛い孫も見送ったし、さて、ワシも動くとするかの、と、ご飯をかっ込んでしまう。
明菜を見送ったところで、午前のトレーニングがはじまる。
本来なら朝食を食べる前に行った方が効果的なのだが、明菜との交流は絶対だ。彼女を送り出して、ゆっくり、時間をかけて自らの体に負荷をかけていくのである。
「黄ヱ門さん、今日も精が出ますねー!」
行きつけのスポーツジムで、職員の女性に声をかけられる。すらりと長い手足に適度な筋肉。健康的な彼女ににへらとしながら、黄ヱ門はサーキットトレーニングをはじめた。
とはいえ、じじいだからやり過ぎても回復が追いつかない。筋肉に程良い刺激を与えるため、無酸素運動は40分程度を週に2〜3回にとどめておく。その後はランニングマシンで40分の有酸素運動だ。筋トレを入れない日は、ここにインターバルトレーニングも付け足す。これにより全身の筋力と体力、瞬発力をバランスよく鍛えることができる。
近所のじじばばみたいにひょろひょろの体にはまだまだならぬと、齢70手前の水戸黄ヱ門は心に誓った。
黄ヱ門には夢があった。
あと30年とちょっと。この体を維持せねばならぬ事情があるのだ。
将来の夢は、陸上のマスターズ100歳以上の部に出場し、世界記録を作ってその場で死ぬ。華々しい最期を遂げてやるのである。
そうして、緩みきった表情で、黄ヱ門は理想の最期を思い描くのであった。
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――水戸! 水戸黄ヱ門選手!
――観客のスタンディングオーベーションに見送られながら今ゴーーーールッ!!!
――おっと? しかし、水戸選手の様子がおかしい? おかしいっ! 水戸選手……水戸選手……!!??
『ワ、ワシは……! ワシはもう……だめじゃ……!』
ゴールラインを切った瞬間、黄ヱ門は大地に仰向けになり、大空を仰ぎ見た。
ああ、雲ひとつない青空。黄ヱ門を見送るのには最高の、素晴らしい天気だ。
『おじいちゃん!』
かすむ瞳に、ひとりの可愛い孫が映る。ゴールラインまで、駆けつけてきたのだろう。
涙がこぼれんばかりのその瞳が愛しくて、黄ヱ門はふと笑う。力なく崩れ落ちた手を握りしめられ、黄ヱ門は愛しい孫の顔を見た。
こふり、と、言葉にならない声が漏れる。ああ、彼女に――愛しい孫に愛を呟くことすら、神様は許してくれぬらしい。なんという悲劇だろうか……。
『おじいちゃん……死なないでっ! 私、私将来、おじいちゃんと結婚するんだから……!!』
手に手を取って、必死の形相で叫ぶ孫。可愛い孫に「将来おじいちゃんと結婚する」と言ってもらうのもひとつの夢だった。世界記録樹立と同じ日に叶うだなんて、と、黄ヱ門の頬が綻ぶ。
そうか、これは悲劇などではない。
自らの夢を樹立し、愛する孫に見守られ果てる。こんなにも恵まれた人生などあるだろうか?
……ちなみに、黄ヱ門100歳時にはもれなく明菜も40歳オーバーだが、今回の妄想では割愛することとする。
妄想とは、かくも都合よくできているのである。
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「おい……黄ちゃん! おいっ! このクソじじい! ……あー、だめだ、こりゃ」
「まぁた夢の世界にいっておるのか。しょうのないクソじじいじゃの」
ぺちぺちと。
頬への鈍い痛みに気がつき、黄ヱ門はハッとした。
午前のトレーニングを終えて昼。
いつも通り、ジムからの帰り道にじじい友達の遠山金之助宅に寄ったのであった。トレーニング後の昼食と熱いお茶。ちゃぶ台を囲んで延々とくだを巻き続けるのが楽しくて、こうやって毎日集合しているわけだ。
集うじじいは黄ヱ門を含め三人。
一人。
筋肉脳筋妄想じじい。水戸黄ヱ門。
一人。
女泣かせの軟派じじい。銭形平次郎。
一人。
呆けたふりしたタヌキじじい。遠山金之助。
――“よいじじいの会”と名乗る彼らは、一人違わずになかなかのクソじじいであった。
「おい、黄ちゃん。聞いてるのかい。そんなだから明菜ちゃんに呆れられるんだゼ」
「ぬ、ぬぬ。聞いておるぞ。聞いておったぞい。何を生意気な。明菜はワシのことが大好きじゃ! 今だって!」
「……今だって?」
「おじいちゃんと結婚するって言いおった!」
「……こりゃ、現実と妄想の区別がついとらんなァ」
はあ、と呆れるようにして、銭形平次郎はため息を吐いた。
銭形平次郎。よいじじいの会では一番年下の平次郎は、くわえたばこのよく似合う男だった。流石に今は上着を脱いではいるが、70手前にして大型バイクを乗り回し、スマートフォンを武器に街のおなご達とお茶をしては火傷しそうになるのが彼のスタイルだ。
黒の革ジャンを着こなし、赤のスカーフやティアドロップのサングラスなど、少し古めかしいファッションをしても様になってしまうなかなかの伊達男であった。
「早々にボケたら、死んだカヨちゃんが悲しむゼ」
肩をすくめて、平次郎は呟いた。
黄ヱ門の他界した妻カヨ。黄ヱ門を取り押さえられる希有な人物であったが、そのパワフルさ故、神に召されるのも早かった。
この界隈では、彼女の死ほど大きな損失はないとみな口々に言ったものだった。なぜなら、放置しておくと黄ヱ門は間違いなく暴走するからだ。
彼は思いつきで突然とんでもないことを始める癖がある。
ある日、一人でランニングで房総半島一周しようと思いたった。それを家族に相談する前に、全国一周の旗を持った原付に煽られてしまった。
結果黄ヱ門は、家族に連絡すらせず、北海道本州四国九州を巡り、沖縄までヨットでたどり着き証拠のお土産背負い若者の実家に押しかけた。
お土産には大層感謝されたが、例の原付野郎に“おじいさん”と呼ばれたことにへそを曲げ、フンとつれない返事をして帰宅。自分ではじじいと言っているのに、他人に言われると腹が立つらしい面倒な性格らしい。
それでもって帰ると捜索願が出されておりてんやわんや。家族一同心配どころか酷く立腹し、真冬にタンクトップに短パンスタイルで近所を謝りながら練り歩くという罰を科せられた。
また別の日には、明菜お気に入りのタクミ君みたいに彼女の気を引きたくなった。思い立ったが吉日、金髪のエクステなるものを試そうと美容院に突撃。しかし美容師さんにたっぷりの苦笑いとともに、髪が少なすぎるのでウィッグの方が良いと勧められてしまった。
もちろん、じじい扱いにいたく立腹し、ワシはカツラはせんと一蹴。腹を立てて最終的には地毛を染めることを選択した。
そうして最終的に金と黒の斑色のバーコードという謎の髪型になりこれまた明菜にドンびかれた。
放っておくと次から次へと突拍子のないことをするものだから、カヨのいない今、彼をどうやって押さえるかがこの界隈のもっぱらの課題であった。
「黄ちゃんはなかなかのクソじじいだからなァ」
現実を突きつけられた気がして、黄ヱ門は少しばつの悪そうな顔をする。しかし、クソじじいなのはお互い様じゃと黄ヱ門は言葉を吐き捨てた。
「何を言うか。平ちゃんこそ、若い娘とみれば軟派ばかりしくさって」
皮肉すらも一周し、平次郎は余裕たっぷりに、クールに笑ってみせた。
ある一定以上の年齢を重ねると、たちまち年齢不詳に陥る人種がいるが、それが平次郎だ。もともとの趣味と彼の風貌が見事に調和して「ダンディでかっこいい!」「理想的な歳の重ね方!」と上は90、下は女子大生くらいまで幅広い年齢層に平次郎はまぁモテた。
「わかってねェなあ黄ちゃんは。俺ァ、女の子とチョイとお茶を楽しんでいるだけサ。なァに、今でも愛しているのは家内と紗弥。二人だけサ」
平次郎がモテる原因もここにもある。彼は家内を愛していることをおくびもせずに女の子たちに告げるのである。
ちょいとのろけ話のひとつでもしてやれば、やれ純愛だのやれ可愛いだのとちやほやしてくれる。ダンディに必要なのは一途な心と一片の可愛らしさ。それらを兼ね備えた男こそ、若い子達の憧れであることを平次郎はよく知っていた。
そうやって彼独自の愛されテクニックによって、女の子をとっかえひっかえお茶に誘い、人生を謳歌する。平次郎はよいじじいの会員他二人の嫉妬を一身に浴びるじじいだった。
「まあ、孫に愛されてると言ったら、ワシが一番じゃがのう〜」
ほっほっほと、長い白ひげを撫でながら、遠山金之助は自慢げに笑った。
遠山金之助。“よいじじいの会”では最年長だが、彼はこの会のブレインでもある。若かりし頃には一代で地図データ管理会社を起こし、それなりの財を築いた成金じじいだ。
とはいえ、息子の教育にはやや失敗したらしい。二代目社長の代でがっくりと業績を落とし、最近ではデータ欲しさに大手企業より子会社化への打診がやまない。
金之助は隠居の身。食べていければ会社のことに口を出す気はない。子会社も悪くないだろうと金之助は思うわけだが、条件的には美味しくないらしい。むしろあの手この手で表舞台に引っ張りだそうとするかつての部下たちに辟易し、耳が遠くなり呆けたフリをしてはやり過ごしていた。
「何を言ってるんだ、金ちゃんは完全にぼけ老人扱いじゃねえか」
「そうじゃそうじゃ。孫に一番愛されておるのは、このワシじゃ」
クソじじい三人はそろって、小学四年生の孫を持つ。皆が皆、可愛い女の子で、じじい三人で首ったけだ。
たまたま同じ年に三人の孫が生まれ、彼女たちが立ち上がれば歓喜の踊りを披露し、彼女たちが「じいじ」と言えば喜びのあまり転げ回り、彼女たちの笑顔にめろっめろのまま誰が可愛いだ誰が愛されているだを主張し続けもう10年。誰が勝とうが負けようが関係無い。ただ、孫が可愛い。その事実を主張し合うだけで、じじいたちは満足なのであった。
しかし、この孫愛されゲームに、本日は一歩抜きんでた者が現れることになる。
「そうも言ってられるのは今のうちじゃぞい」
ほっほっほ、と。勝ち誇った笑みで、金之助は部屋の棚においた一つの紙袋を持ち出した。おもむろにそこに手を入れたかと思うと、ひとつの大きな箱を取り出した。
「……そ! それは!」
「なんという卑怯な……!」
それを目にした瞬間、黄ヱ門も平次郎も身をのけぞらせて、唸った。
きらきらと。輝くようなピンク色のパッケージ。ハートがたくさんちりばめられたその商品の名は『アイキュア! プリンセスメイクアップキット』。
アイドルなのか女戦士なのかプリンセスなのか魔法使いなのかよく分からないキャラクターとともに、ピンク色のボックスに色とりどりの化粧品が詰められていた。
それら一つ一つを何に使うのか、黄ヱ門達にはとんとわからなかったが、おませな彼女たちのことだ。色とりどりの化粧品と可愛いキャラクターという最強コンボに目を惹かれるのは間違いないだろう。
「おのれ金ちゃんめ、小癪な真似をしおってからに! 恥ずかしくないのかの?」
「そうだぜ。物で釣るのは最終手段だろうが。クソじじいめが」
やんややんやと二人からは反論があがる。
“よいじじい”たるもの、己の体と知識にて孫に愛される。それがじじい力だ。物で釣るなど単純極まりない卑怯な手段でもって愛されたとしても、それはじじい力としては認めるわけにはいかない。
“よいじじいの会”は、真のじじい力でもって孫の愛を勝ち取る集団であって、金之助がしたことは明らかなる違反行為である。
「貴様、よいじじいの会、会則第三項を忘れおったか!?」
「はて……なんか言いおったかの?」
「……聞こえないふりをしても無駄じゃっ」
「ふむ、最近とんと物忘れが激しくなってのう……会則? はて、会則のう」
あからさまにはぐらかされてしまい、黄ヱ門はますます顔を赤らめた。
このタヌキじじいめ、と、吐き捨てるように宣い、嫉妬に狂った目で『アイキュア! プリンセスメイクアップキット』を睨み付ける。
――ワシに……ワシに、金之助ほどの経済力があればっ……!
卑怯だの何だの言おうと、結局は金之助が羨ましいだけなのであった。金があるなら黄ヱ門だっていくらでも物で釣っているだろう。それが出来ぬ故、会則などと適当な理由をでっち上げながらお互いを牽制していたのだ。
その禁断の“物で釣る”行為の解禁になったならば、孫に愛されるじじい力において、黄ヱ門が一歩出遅れるのは目に見えている。なんとしても、なんとしても金之助の暴挙を阻止せねばならぬと黄ヱ門は目を光らせた。