公爵令嬢の本命ショコラ
ただ意味もなく甘いだけの話が書きたかったのです。
口どけは甘く。
濃厚で纏わりつくように、けれども、ほろ苦い。
大理石の調理台の上に広がって流れるブラウンの色艶が、とても美しい。
テンパリングは優しく丁寧に、しかし、時間をかけすぎないように行う。まるで自分の子供を育てている気分だ。ここで失敗すれば、濃厚且つ滑らかな口どけは実現しない。
一つの工程を終えて出来あがったショコラを指ですくいとる。
香り高い甘みが口の中で広がって芳醇な味わいをもたらした。濃厚な甘みだが苦味があり、後を引かない甘さを残す。
指先についたショコラを舌で残さず舐めとって、令嬢デメルはうっとりと目を細めた。思った通りの味わいとなり、満足だ。口の端についたショコラも器用に舐める。
「良い子ですこと」
バレンタイン公爵家は古くから商家として名を馳せている。国内随一と言われる財力を持ち、幅広い事業を展開していた。
その一環として、製菓店も営んでいる。
周辺諸国では手に入り難いカカオをふんだんに使用した高級ショコラ店。バレンタイン公爵家の令嬢デメルは、一流の職人であり、店のオーナーでもあるのだ。
今は新作ショコラの試作品を製作している。
店が終わって夜も更けているが、商品開発は翌日の仕込みが終わった深夜にしか出来ない。
光の魔法球が無数に漂った明るい厨房で、デメルは作業を続けた。
構想はもう出来ている。幾度となく素材の組み合わせを変えて、あと少しのところまで近づいてきている。
きっと、今日完成してくれる。
大切な人のために作る特別なショコラ。
このショコラを売り出すのは、この国の祭日だ。
年に一度、女性が男性に想いを告げるための日。
元々は大切な人や家族に感謝を伝える日だった。けれども、バレンタイン公爵家の戦略営業によって、「愛する人にショコラを贈る日」という習慣が後付けされたのだ。
これが世に受けて、普段はショコラを買わない女性でも、年に一度の特別なショコラを求めるようになった。国にショコラを広めるきっかけにもなったという。
なんとも金の匂いのする祭日だ。
しかし、これが商売。普段は口に出来ない嗜好品を如何に買わせるかも勝負なのだ。
そして、デメルは特別なショコラを作る職人。
年に一度、大切な人のために大金を払う女性たちのために最高のショコラを作ろう。
冷たい水面も一気に燃え上がるような。欲しいもの全てが手に入るような。甘美で濃密な夢を見ることが出来る、最高のショコラ。
爽やかで甘酸っぱいフランボワーズのショコラ。
情熱的で優美な味わいを纏ったカシスのショコラ。
焦がれるように香ばしいヘーゼルナッツのショコラ。
それぞれのボンボンショコラを成型し、色づけを行う。いつもとは違う特別を演出するために、金の星を散りばめ、燃えるような鮮やかな着色を施していく。火魔法と氷魔法を駆使して、絶妙な温度を保ちながら作業は進んだ。
光沢を放つ一粒一粒の作品を箱に入れると、それはもう宝石。生み出すデメルは、さながらショコラの錬金術師だろう。
「上出来ですわ」
フランボワーズの甘酸っぱさとショコラの苦味が溶け合って、口の中で濃密に混ざり合う。作品は口の中へ入れた瞬間、芸術に昇華した。この瞬間を味わうのも、職人として感じる歓びの一つだ。
そして、最大の歓びは――。
デメルは新商品とは別の皿に目を移す。
特別に用意したショコラのケーキ。
黒いショコラでコーティングされたケーキの上には、フランボワーズのソースと細やかな飴細工の飾りが施してある。飴細工の花で羽を休める一匹の蝶は、勿論、ショコラで出来ていた。
そこに文字を入れようと、デメルは手を伸ばす。
「…………!」
そのとき、店の扉が開いたことを知らせるベルが鳴った。
閉店している。こんな時間に扉を開ける客は他にいない。デメルはビクリと肩を震わせて、作業の手を止めてしまう。
「どうしましょう!」
ついついショコラケーキの乗った皿を持ちあげて立ち往生する。このケーキをどこかへ隠さなければ。
こんな時間に入店する人間は決まっている。思ったよりも早く来たのが誤算だった。
デメルは慌ててケーキを棚の上に隠す。
「こんばんは」
そうしているうちに、来客が厨房へと踏み込む。いつも通りだ。
デメルは動揺を悟られまいと、上品に頭を下げた。
「こんばんは、エヴァン殿下」
訪れたのは長身の青年だった。
鮮やかな青い制服と金の軍刀は王都を守る騎士団の象徴だ。金糸の肩章は騎士団長であることを示している。セピア色の髪とトパーズのような瞳が柔らかで優しい印象を与えた。
「畏まらないでくれよ」
エヴァンは人好きのする甘い顔で笑うと、デメルの方へ歩み寄る。あまりに自然な動作だったため、後すさることすら出来ない。
すぐそこにエヴァンの顔が迫ってきて、デメルは息を呑んだ。星を散らしたような煌めきのトパーズ・アイから目を逸らせない。
「いけませんわ、エヴァン殿下。私、仕事中ですの」
「もう終わっているように見えるけど? あと、殿下は辞めてくれって、言っているはずだよ」
代々、王都の騎士団長の地位には第二王子が就くことになっている。つまり、エヴァンはこの国の王子であり、デメルよりも身分の高い人物だ。適切な敬称をつけるのは当然だろう。
「せっかく、毎晩来ているのに」
エヴァンは厨房に漂う魔法球の照明を一つ手に取って笑う。ごく一般的な照明魔法だが、光の球体と戯れる姿がなんとも幻想的で、つい見入ってしまった。
デメルの仕事は深夜まで続くことが多い。そのため、騎士団であるエヴァンが毎晩、夜警のついでに訪れてくれるのだ。
王族でありながらエヴァンは部下にも市民にも慕われており、街の面倒事にも親身に協力してくれる。公爵家の令嬢であり、高級菓子店のオーナーということで特別扱いされているわけではない。
「目的は、わかっていましてよ」
けれども、エヴァンが来るのはそれだけではないと、デメルは知っている。少し悪戯っぽく笑ってやりながら、デメルは作業台へと視線を移した。
「あ! そろそろ出来ていると思っていたんだよ!」
デメルの視線の先に新作のショコラを見つけて、エヴァンは子供のように無邪気に笑った。
「殿下は本当にショコラがお好きなのですね」
エヴァンの目的は深夜まで作業する令嬢の見守りだけではない。無類のショコラ好きであるエヴァンは、店の上客でもあるのだ。
「今買っても良いかい?」
「試作品ですから、差し上げますわ」
そう言うと、エヴァンは嬉しそうに身を乗り出して両手でデメルの手を握りしめた。
「本当に? 最高だ!」
エヴァンはキラキラと目を輝かせながら、どれを食べようか物色している。その横顔を見ていると、デメルはフッと唇が緩んだ。
職人にとって、自分が作ったショコラが理想通りの味わいとなることは歓びだ。
しかし、それ以上に、客の口に運ばれる瞬間こそが最高の歓びである。
エヴァンがヘーゼルナッツのショコラを指でつまみ、口に運ぶ一挙一動を見守ってしまう。
長くて力強い指によって、小さなボンボンショコラが唇へと到達。厚みがあって形の良い唇が開き、舌の上へと乗せられる一連の動作を見て瞬きを忘れた。指に残ったわずかなショコラを舐めとる仕草一つひとつまでデメルの視界に刻まれる。
「美味しい。やっぱり、デメルが作るショコラは格別だ」
甘くとろけそうな声で言われて、胸が熱くなった。
食べた人に喜んでもらえる。これほど幸せなことはない。職人冥利に尽きる。
エヴァンは次いでフランボワーズのショコラも口に入れた。こちらも気に入ったようで、表情がとろけている。
騎士団として凛々しく剣を振っている姿からは想像も出来ない顔だ。この表情を自分が作ったショコラによって生み出しているのだと思うと、なんだか特別な気分になる。
「ところで、デメル」
最後にカシスのショコラを食べて、エヴァンが視線を上げた。
「あそこにもショコラがあるだろう?」
「ど、どうして、そう思われるのですか?」
棚の上に隠したショコラケーキのことだ。デメルは必死に誤魔化そうとした。
「匂いがする」
ここはショコラの厨房だ。ショコラの匂いなど、至る所からしているだろう。それなのに、エヴァンはショコラの匂いがすると言った。どれだけ利く鼻なのだ。
「嘘だ。デメルが時々、気にするように見ていたから」
自分の視線を観察されていたとは。武術をしている人間は、相手の視線や動きに注目すると、前に言っていたような気もするが……不覚だった。
「殿下のショコラ好きには負けますわ」
デメルは観念して、棚の上のケーキに手を伸ばす。
「すごいな……これも商品?」
出てきたショコラケーキを見て、エヴァンが感嘆の声をあげる。特に飴細工の花に止まったショコラの蝶に興味を抱いたようだ。
「商品ではありません」
「ああ、これも試作品か」
「いえ、そうではなくてよ」
デメルは俯きながら皿を持ちあげる。
宙を漂う光の魔法球が、首を傾げるエヴァンの顔を照らした。
「これは個人的に……差し上げたい方がいるのですわ」
デメルは重い口を開いて、横目でエヴァンの顔を確認した。
「誰に?」
問いながら、エヴァンはデメルのココア色の髪に触れる。
その態度に、デメルは意地らしく視線を伏せた。今にも飛び立ちそうなショコラの蝶が、妙に急かしているように感じてしまう。
エヴァンの指先が髪から耳へ、耳から頬へと移っていく。剣を持ち慣れて硬くなった親指が、デメルの柔らかな唇に触れる。
「そんなこと、聞かないでくださいませ」
わかっているくせに。
少しムッと唇を歪めると、エヴァンが柔らかく笑う。デメルの言葉を促すように待っているのだ。
「エヴァン殿下のために作ったのですわ……でも、まだ仕上げを終えておりません」
観念して言いながら、デメルはケーキを作業台に置いた。
まだ相手の名前を書いていない。仕上げる前にエヴァンが来てしまったのだ。
「仕上げか」
エヴァンは顎に手を当てて考え込む。けれども、すぐに作業台に並べてあったフォークを手に取った。
「じゃあ、仕上げてもらおう。今すぐに」
「え?」
エヴァンはおもむろに手を伸ばすので、デメルは眉を寄せた。彼は器用にケーキの端をフォークで崩してすくい取る。
作品を仕上げる前にフォークを入れるなんて。デメルは呆気にとられてしまう。
「あの」
意図を問うために口を開く。すると、そこに異物が侵入する。
「んッ!?」
舌の上で甘くとろけるのは、ショコラで作ったムース。焼いたメレンゲがじゅわりと溶けていく。酒漬けのチェリーが情熱的な甘みを演出し、周囲をコーティングしていたビターショコラと交わるような味を奏でる。
「もう一口」
エヴァンはデメルの顎を指で掴むと、更にケーキを食べさせた。こんな形で食べさせられるなんて、子供みたいで恥ずかしい。
デメルは拒もうと、エヴァンの胸部を強く押した。けれども、エヴァンは押し切るように顔を急接近させる。
「ん、ふ……ぅ」
戸惑うデメルの唇にエヴァンの唇が重なった。熱い舌が器用に唇を抉じ開けて、中へと侵入してくる。
キャラメルのように甘く、ベリーのように情熱的、そして、ミルクのように滑らか。舌を絡めて、中のショコラが舐めとられていく。逃げようとしても逃げられず、唇の隙間から荒い吐息が漏れていくだけだ。
ショコラが熱で溶けて、ねっとりと濃厚な味を広げていく。エヴァンは残さず舐めとって、ニヤリと笑みを浮かべた。
ショコラを食べるときのエヴァンは無邪気で幼くて、とても可愛らしい。
けれども、今ショコラを食べている彼は、情熱的で力強く、そこはかとなく色香を感じた。その熱にあてられて、デメルは眩暈がしそうになる。
「デメルはどこを嗅いでも、甘い匂いがする」
唇を離した後で、エヴァンはそう言った。彼はデメルのココア色の髪をすくって、艶っぽく笑う。今まで見たことのない表情に、デメルは言葉を失った。
「ショコラのお姫様だ。きっと、キスをすると甘い味がするんだろうと思っていたよ」
エヴァンは再びデメルの頬に手を添えて唇を重ねる。
今度はショコラの味はしない。けれども、いつもショコラを食べているエヴァンの口は、少し甘い気がした。
「あの、殿下……」
「名前で呼んでくれよ」
デメルは戸惑った。けれども、やがて小さく「エヴァン」と呟いてみる。第二王子を初めて呼び捨てて、なんだか落ち着かない。
「君にどうやって求婚しようか考えていたんだけど」
髪をまさぐるエヴァンの指が心地良い。デメルは頬を染めながらも、エヴァンの言葉を待った。
「君からのショコラを貰えると期待して、待っていてしまったんだ」
「まあ……なんて食い意地が張っていらっしゃるのかしら。ショコラでしたら、いつでもお作りしますわ」
「デメルの特別なショコラが欲しかったんだ。許してくれよ」
敢えて女性からの告白を待つなんて、あまり褒められない。その気があるのなら、自分から言うべきだ。身分も立場も、エヴァンの方が上なのだから。
けれども、それも悪くないと思える自分もいた。
想い人に女性がショコラを贈る習慣を作ったのは、バレンタイン公爵家の営業戦略だ。そこにあまり意味はないと思う。
だが、重要なのは由来ではない。
大切な人のために、特別な気持ちを贈る。その手段がショコラなのだ。
手段と名目を手に入れた女性たちは、勇気を振り絞って想いを伝える。
デメルがそうであったように。
「お慕いしておりますわ、エヴァン」
言葉はショコラのように甘く、濃厚な響きを持って空気を震わせる。そして、二人は再び唇を重ねた。
ジャン・ポール・エヴァンのチョコも、デメルのチョコも大変美味しゅうございます。たまの贅沢です。
因みに、ブラックサンダーは箱で常備しています。あれは神が与えし至高の食べ物。