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五月に入ると気温がぐんぐん上昇して、早くも夏本番を先取りしたような気候になった。暦の上では夏に入っていたから、人々はその暑気をなんとか受け入れることができたけれども、気候の変動に体調を崩してしまった男は、無聊な日々を過ごすことになってしまった。特定の女性との関係を持たず、金に群がる友人だけを持つ男には、看病をしてくれる者などなかった。男は快復したなら梅子の娼館に行こうと思わないではなかったが、実際に快復してみると、すぐに別の事柄に気を取られるようになった。
男が関心を持ったのは、東京の美術館で催されているフランシス・ベーコン展だった。男は絵画に興味を持つような趣味ではなかったが、友人の中にその展覧会を鑑賞した者がいた。その友人は芸術や音楽に造詣が深く、男を展覧会に誘った。だが、先にも言ったように男は絵画に興味を持つような感受性は持ちあわせていなかったし、ベーコンの代表作とされる作品の画像を示されると、男はますます萎縮してしまった。その作品は得も言われぬ恐怖感を男に与えたから。
友人が一人で二度目の鑑賞に出かけてしまった後で、男は敬愛する著名人が展覧会に熱狂していることを知った。男はいかにも現代人的なやり方で――主にネット上で――その情報を拾った。身近な友人に誘われるよりも、会ったこともない著名人の言葉の方が効果的だったらしく、これは行かねばと男はそわそわしてきた。男は五月の中頃の天気の良い日を狙って、朝から出かけて行った。
それだけの熱狂的な好事家がいて会期末も近いことから、展覧会は盛況が予想されたけれども、実際に足を運んでみると殊の外空いていた。平日だからこんなものかと、少しばかり興醒めするようだった。しかし、実際に作品と対峙すると男は面食らった。
まず、その作品のおどろおどろしさに。屠殺された牛の肉が吊るされてあったり、叫んでいるようにも嘆いているようにも見える大きな口を開けた謎の生物が描かれていたり、椅子の上に座った霊魂を写し取ったかのような作品がそれぞれあった。それだけでも不気味に思えたが、色使いやタッチなどがその印象をさらに煽った。単に恐怖を与えるために描かれたとは見えないことが、なおさらその気持ちを強くした。
次に、その作風に。描かれたイメージは必ずしも明瞭ではないが、そこに描かれた肉の塊が人間の裸体であったり、一匹の犬であったりすることは、題名や解説を待たずして理解できた。その抽象性の中に燦々としている具象性を判別できたことは、作者と鑑賞者の間、生者と死者の間に一筋の橋が架かったような希望を与えた。しかし、作品は依然として曖昧さを保っており、理解を拒絶するようにも見えた。
そして、その展示方法に。作品が金の額縁に収まっているのは尋常といえたが、それだけではなくガラスの中に収まっていた。最初は作品を保護するためかとも思われたが、黒を基調に描かれた作品の前に立つと、光が反射して自分の姿が映り込んで鑑賞がしにくい。解説によると、それは作者本人の意向であるらしかった。男にしてみれば、その意図はまるで分からなかったし、作品から突き放されることで空天に架かった大橋は脆くも崩れ去ったかのように思われた。
一通り鑑賞を終えた後で、男は最も強い印象を受けた作品の前に佇んだ。それはベーコンが亡くなる前年に描いた最後の三幅対だった。他にも三幅対の作品は展示されていたが、その作品が晩年に描かれた「最後の」三幅対というだけで男の興味をそそった。男はそこに描かれている黒い矩形に、裸の肉体に、特別な意味を見出そうとした。ところが、やはりその作品もガラスの中に収まっているために、矩形の中に男の顔がぼんやりと浮かんでしまっている。そのために男は興が醒めるような気分を味わった。どこまで行っても、作品に、そして作者に追いつけないような思いがした。
ふと、男の隣に立った者がある。それは女性であると、やはり矩形の中に浮かび上がった顔を見て分かった。そして、それは見知った顔、彼が何度も掻き抱いてきた梅子の顔であった。彼は驚愕した。同じ地域に住んでいるとはいえ、梅子のような者がこの展覧会に足を運び、しかもそこで自分と遭遇するとは。そして、三幅対から連想されるものは祭壇画である。聖性すら感じさせるその作品に浮かび上がったのが、娼婦である梅子の顔であったとは。男は梅子に話しかけることもできず、黙って立ち去ることもできなかった。その僅かな異変を梅子は感じ取ったのか、ガラス越しに目が合った。梅子の顔が驚きの色に染まっていくのが分かった。
男は美術館に併設されているレストランに梅子を誘った。梅子は自分の料金は自分で支払いますからそれでも良ければ、と応じた。可愛くない女だと男は思わないではなかったが、今日は上機嫌なので些細な事には目をつぶることにした。男は自分の心理を分析するという習慣を持たなかったが、このときばかりは自分の感情を顧みた。芸術作品を鑑賞し終えた後の疲労混じりの快感のようなもの、それが男を上機嫌にさせ、そうでなければ梅子のような女をランチに誘うこともなかっただろう、と。
ちょうど昼の盛りを過ぎた頃だったので、二人はテラス席に陣取ることができた。男は腕時計で時間を確認して、自分が二時間もあの会場にいたことに驚くばかりだった。
「まさかこんな所で会うとはね」
落ち着いたところで男が口を開いた。梅子も同感であるという風に頷いた。男の言葉に含まれている意味を梅子が感じ取ったかどうかは分からない。
「きみは絵画に興味があるのか」
「特別な興味があるわけではありませんけど、たまにこうして足を運んでみたりするんです」
「ふうん。俺にはよく分からなかったな、あのベーコンとかいうのは」
「それにしては随分と熱心に作品を見ていたようですけど」
空に解けていく言葉尻を掴んで男はびっくりした。この女はいつからこんな口を利くようになったんだ?
それは、男にとってはある意味で待ち望んでいたともいえる、梅子の打ち解けた口ぶりだった。娼婦と客との間に、皮肉めいたやり取りがあるかどうかは男は知らなかったけれども、少なくとも二人の間でそのようなやり取りをしたことはなかった。やはり、朝まで一緒に過ごしたあの日に、二人の関係性は変わったのだと思わざるを得なかった。しかし、その関係はやはりあの娼館の壁の中で完結すべきものだった。
このとき、梅子がどうして男に打ち解けたのか、どうしてそれができたのか、男はそんなことにはまるで関心がなかった。とにかく、男は話の接穂を見つけるのに苦労した。
「うん、まあ、それはそうだな。分からないなりに楽しめたのかもしれない」
「私も似たようなものです。言葉にできない心の中の、もやもやとした、混沌とした何か。それと向き合うためにここまで来たのかもしれません」
「俺は嫌だな、言葉にできないものなんて。人間はきっと、曖昧なものを曖昧なままにしておくことはできない生物だと思うよ」
「そうですか? 言葉で世界を切り取ってみたところで、それはいつか腐ってしまうものでしょう。だったらそのままにしておいて、行く末を見守るという選択肢があってもいいはずです」
「旨いときに実を食ってしまわなければ、いずれ腐ってしまうよ」
梅子はしばらく考え込む様子だった。
「そうやってしか、人間は生きていけないんでしょうね」
「まあ、そうだな」
「こうやって言葉を交わしても、何をしても、人間は分かり合えないんでしょうね」
話が深みにはまっていきそうになった。本能的に逃げ出すためなのか、男はこの状況のおかしさに笑いがこみ上げてくるようだった。
「どうしてきみとこんな話をしないといけないのか、よく分からないよ」
「私のような人間だから、女だから、そういう相手には相応しくないということですか?」
「おいおい、誤解してもらっちゃ困るよ。別にきみを非難してるわけじゃないんだ。ただ、妙な具合だと思ってさ」
「……そうですね。ベーコンの作品の魂が私たちの中に入り込んでしまったのかもしれません」
と、梅子はまたしてもそんなことを言うのだった。