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02

 それから一月が経った。

 男は相も変わらず遊惰に時を過ごしていた。男は一度の浪人生活を経てK大学に入り、一度の留年の後に卒業した。岡山に生まれ育った彼が関東に出てきたのは、東京の立派な大学に通わせて男に箔を付けさせてやりたいという親心のためであったが、男はそのことを知ってか知らずか、就職もせずに実家からの仕送りで生活している。そうして二十代も後半になって欲望のままに生きている彼の生活は、まさに餓鬼道に堕ちたような有り様であった。

 職がなくとも金さえあれば周囲に人は集まった。けれども、気が置けない友人というものは皆無だった。その隙間を埋めるためにも男は女遊びをした。大抵は素人の女ではなく、いわゆるその道の女ばかりだったから、本当に間隙を埋めることしかできなかったけれども、男にとってはそれで充分だった。この点はまさに現代人というべきか、他人と何らかの関係性を持つことは、男にしてみれば負担でしかなかった。

 そんな男が梅子を気に入らなかったのは、少し不思議に思われるかもしれない。あの部屋の中だけで完結してしまう関係は、男にはうってつけであったから。これはまさに都合の良い話であるが、娼婦と客との関係以上のものを男は求めなかったが、相応の金を払っている以上は打ち解けて交わりたかった。梅子の事務的な対応が、男には気に入らなかったのだ。それに一度相手をした女とは余程気に入らない限り、二度目はなかった。とはいえ、男の頭の片隅には梅子の白く艶やかな肌が、もっと踏み込んで言えば初恋の相手に似た可愛らしい顔が焼き付いていた。その声も同じように好ましかった。だから、男は少し窮屈な心地がした。

 男が梅子のことを明確に思い出したのは、とある書店で平積みにされている文庫本を見かけたときだ。それは太宰治の「人間失格」だった。どうして梅子のことを思い出したのかというと、太宰治の作品が梅子の部屋の書棚に並んでいたからだ。書棚といっても大したことはない、ホームセンターにでも売っているような小じんまりとした白い書棚だ。梅子の部屋はできる限り生活感を出さないように工夫されていたらしかったが、その小さな書棚には梅子らしさというか、梅子の声にならない主張のようなものが氾濫していた。

 ふと、男はもう一度、梅子の部屋を訪ねようと思った。携帯電話の電話帳に梅子の番号を探してみたが、いつの間にやらそれを消去してしまったようで、男は途方にくれた。しかし案ずることはない、梅子の部屋の場所はしっかりと覚えているのだから。

 その日の夜、男はいそいそと埋めこの部屋まで出かけて行った。時刻は午後十一時を回っていた。先日の経験からすると、梅子は客を部屋に泊めさせるようなことはせず、長引いても午後十一時までには客を帰すようだった。初めての客と常連客とでは対応も違うだろうが、男にはそれでまず間違いなく思われた。梅子の部屋のチャイムを鳴らしてみたが、返事はなかった。しばらくしてもう一度鳴らしてみると、ようやく梅子が応対に出て来た。バスローブ姿で髪は濡れていたが、化粧だけはしっかりと施していた。


「どうしたんです」

「今夜の相手を頼もうかと思ってね」

「急にいらっしゃっても困ります。きちんと予約をして頂かないと」

「金はあるんだ。普段の倍は払う。だから良いだろう」

「そういう問題じゃないんです。決まりはしっかりと守って頂かないと、私が困るんです」


 梅子は強情だった。梅子の言い分が理解できないわけではなかったが、既に欲望が動き始めてしまった以上、男の方もここで帰るわけにはいかなかった。しばらく玄関先での攻防が続いたが、他の部屋の住人に気取られてはならないからと、梅子は渋々ながらも男を招き入れた。男はソファに座らされ、梅子がオレンジジュースを運んで来た。梅子は床に座って、男がオレンジジュースを飲み終えるのを待っているようだった。男は手招きをしてみせたが、梅子は頑として譲らなかった。

 ジュースを飲み終えた男は財布を取り出し、この前の二倍の金額を梅子に差し出した。梅子はそれを受け取らなかった。


「足りないのか」

「いいえ、とんでもない。今日はお相手ができませんから」

「日付が変わるまで待たせてもらおうか。今日はダメでも明日になれば相手をしてくれるんだろう?」

「馬鹿なことを仰らないで下さい。今日も明日もお相手はできません」


 部屋に招き入れたものの、梅子はやはり打ち解けないままに男を帰すつもりらしかった。しかし、男がそれで満足できるはずもなかった。今度は男の方から梅子の隣に座ると、まだ乾ききっていない黒髪を撫でた。手に水分が付いたので、ちょうど梅子の乳房の辺りで手を拭いた。胸元に生まれた線が乳房の豊かさを表している。男はその線をなぞると、バスローブの中に手を入れた。男の視線が梅子の顔に移ると、梅子は濡れた瞳で見返してきた。この女はこんな顔をしてみせるのかと、明るい照明の下ではっとする気持ちになった。


「やはり、ダメかい?」

「……」


 男と梅子の間でいくつかのやり取りがあった。梅子はそっと男の手を除けると、浴室の方へと去って行った。男が半ば諦めかけたとき、浴室から声が聞こえた。


「どうぞ、こちらへ」




 その日の梅子は積極的だった。早く終わらせて帰らせたいという気持ちもあったようだが、男の方もさっと終わらせて帰るつもりでいたので、ちょうど利害が一致した形になった。梅子はやはり接吻を拒んだが、その代わりと言って良いのか、男の胸や首筋に執拗に口を付けた。男はそれを梅子の熱狂と受け取ったが、身体を洗い流して着替えるときになって、自分の首や胸元に残ったあざのようなものに気付いた。それはまさしく、梅子の反抗の証だった。男は梅子の無言の反抗に、どこかしら快いものを感じるようだった。




 それからしばらく、男は梅子の部屋に通った。梅子はなかなか打ち解けなかったものの、逢瀬を重ねる度に梅子の心も解れてくるようだった。

 梅子はその道に堕ちてしまった女の性というべきか、あまり自分のことを語ろうとはしなかった。それどころか、梅子は無口だといえた。事が始まってしまえばそれでも構わなかったが、梅子が男の身体を洗うようなときには言葉を交わさずにいるのは窮屈だった。男はふと、梅子は他の客にも同じような態度を取るのだろうかと気になった。梅子には無愛想というのを通り越して、冷然としたような印象を受けたから。ただ、梅子が無愛想であったならば、この仕事だけで生活していけるほどの客は獲得できないだろうし、面白い女だという噂も立たないだろう。

 そういえば、梅子のことを面白い女であると紹介されたものだが、男には梅子のどこが面白いのやら、まるで見当がつかなかった。その理由は追々分かるだろうと、男はどっしりと構えたつもりでいたのだが、次第に落ち着かなくなってきた。梅子の面白さを知るまでに、どれだけの逢瀬を重ねなければならないのだろう。もしもそのときまでに梅子の心がすっかり解れてしまえば、もう梅子に会うことはなくなってしまうだろう。

 幸いなことに、その面白さの正体はすぐに分かった。


「この前、大学の同窓会に出たんだ」


 そのときもやはり、男の方から話題を切り出した。梅子は曖昧に頷きながら、布団の中でもぞもぞと身体を動かした。


「この歳にもなると少しずつ格差が出てくるんだ。良い仕事に就けたか良い相手に恵まれたか、そんなことで随分と扱われ方も変わってくるんだな」

「そうでしょうね」

「うん。俺のことを落伍者と呼ぶような奴もいるけれど、馬車馬のように働いて何になるっていうんだろう。もっと余裕を持って生活すべきだよ」

「こんな女を相手にしていると、貴方も見くびられてしまうでしょう」

「そんなことはないさ。きみだって、立派に大学を出たんだろう?」

「いいえ」

「ということは高卒か。このご時世に高卒とは、恐れ入るね」

「違います。私、中卒なんです」

「なにっ?」


 梅子の突然の告白に男はすっかり狼狽してしまった。本当か、本当なのかそれは、と男が尋ねると、梅子はこくりと頷いた。男の梅子への印象はたちまち変わってしまった。それどころか、この関係性をひっくり返すだけの材料が手に入ったと思った。友人が面白いと言っていたのは、このことだったのだ。このときからだ、男が梅子を軽く扱い始めたのは。

 梅子が打ち解け始めてきたのも、このときからだった。それまでは恐る恐る男の手を取っていたような梅子が、男に跨って手を握ってくるようになってきた。少しばかり、饒舌になったようでもあった。


「この前ね、新鮮な鯛が手に入ったんです。これがとっても美味しくて。でもね、一人ではなかなか食べきれなくて、隣近所に配ったんですよ」

「鯛を?」

「ええ、鯛を」

「それは喜ばれただろう。それにしても、きみは料理ができるんだね。少しもそんな風には見えないが」

「母子家庭でしたから。病弱な母に代わって、家事も炊事もできるようになりました」


 母子家庭という言葉を聞いて、男は何となく嫌な気分になった。これから抱こうとしている女の素性、子供の頃の思い出や両親のことなどをあえて訊いて、太陽の下の生活から転落していく女を想像して、興奮するような人間もいるだろう。しかし、男はそのような種類の人間ではなかったので、居心地の悪さを感じた。ここに来るのはやめようかと思ったその晩に、女は初めて男を部屋に泊まらせたのだった。

 その次の朝のことは、既に述べた。川の向こう側に去った男は、それからしばらくの間は梅子の部屋を訪ねることをしなかった。

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