01
朝はいつものようにやって来る。均衡は打ち破られ、これから太陽の時代が始まるのだ。ちょうど東向きになっている窓から、薄いカーテン越しに光が差し込んできている。頭上に咲く陽の光を浴びた男は、見知らぬ部屋に目覚めた。
いや、見知らぬ部屋ということはない。ここは今までに何度も訪れている女の部屋だ。こんなに室内が明るかったことはないので、見知らぬ部屋にいるように感じられたのだ。男は不思議に思った。この部屋で朝を迎えたことなど、今まで一度もなかったのだから。女がそれを許したことに、男は得も言われぬ気分を味わった。必ずしも快い感情ではない。
一糸まとわぬ女を横たわらせて、その乳房を思いのままに扱うことができるのだ。開放的な、優越的な気分でいたことは否定できないだろう。陽光の下に見る女の寝顔も気に入った。男の腕は乳房から顔の方へ伸びて、少し厚めの唇をなぞった。目を覚ますような気配が女にあったが、すぐにまた呆けた寝顔に戻った。女の顎を掴み、口を開けて人差し指を軽く噛ませる。そんな幼児じみた行為が、背中をなぞるような快感を男にもたらした。
昨日は初めて接吻をした。それがあまりにも甘美であったために、男は夢中で接吻を求めた。女はそれを積極的にしない代わりに、男の首やら胸やらに軽く口を付けた。今の男にはそれで充分だった。たったそれだけのことで、女を支配したような気分になっていた。しかし、一晩経って、肉体から漂う唾液の臭みがあった。試しに女の乳房を嗅いでみると、自分の唾液の臭いがした。それが紛れもなく自分に由来している臭いだというのに、男は興が醒めたようになって、それを振り払うかの如く勢い良く跳ね起きた。その拍子に女も目覚めた。
浴室でシャワーを浴びるとき、女は石鹸を手に泡立てて男の肉体を隅々まで洗った。その仕草は甲斐甲斐しかったけれども、まだどこかに義務的なぎこちなさが残った。女は経験不足の素人ではなかったので、まだ自分に馴染まないでいることを暗に示しているのだと男は思った。タオルで水を拭き取った後にもう一度接吻をしてみたけれど、そのときに女が男の胸に手を置いたのは、親しさを示すためではなく、それ以上の接近を許さないためであった。
日毎に日の出が早まる時期のことだ。男はまだ目覚めきらない朝の街を女と歩いた。太陽の下をこの女と歩くのは、これが初めてだった。いや、外を歩いたのもこれが初めてだ。二人の関係はあの狭い部屋の中で完結していたから。男はその関係が新たな局面を迎えたことを知り、どこか落ち着かない気分を味わった。それだけではない。太陽の下を娼婦と並んで歩くことが、何よりも気恥ずかしかった。女も男の心情を察したのか、次第に男の後ろを付き従うかのようにして歩いたけれども、やはり男は娼婦と連れ立って歩いていることが気恥ずかしかった。女の服装は尋常なものである、一目で娼婦と知れるようなものではない。この場合は女が娼婦であるという事実が問題であった。
近くの橋の袂で女が立ち止まった。男はしばらく先まで歩いてそれに気が付いた。最早、言葉を交わせる距離ではなかった。女は深々と礼をすると、男が立ち去るまでその姿勢のままでいるつもりらしかった。男は最後まで落ち着かない気分を覚えながら、川の向こう側へと去って行くのだった。
男は同じ大学出の友人から紹介されて、その女のことを知った。その友人によると、理由ははっきりと言わなかったが、面白い女だということだった。男は職に就いていなかったけれども、交遊費には事欠かない身分だったので、早速、その女の番号に電話を掛けた。娼館というので男が運営しているのかと思ったが、電話に出たのは女本人らしかった。男が掛けたのも、何の変哲もない番号だった。男が友人から紹介されたことを伝えると、女は自己紹介すら省いて希望の日にちを尋ねてきた。男がその日の夜を希望すると、女は予定が入っていると素っ気なく言った。女は直截には言わなかったけれども、どうも一日に一人の男だけを相手にするらしく、予約が入っているときにもそのような言い方はせず、予定が入っているという風なことを言った。何度かやり取りをして、四日後の午後九時に来てくれるようにと言われた。男が住所を尋ねると、女は大体の場所を伝えた上で、四日後にもう一度電話をしてほしい、そのときに予定の時間通り来ることができるのなら詳しい住所を教える、と言った。
頭の片隅に女の対応の冷たさが引っかかったが、男は早く四日後にならないものかとそわそわした。男も女遊びを知らないわけではなかったが、このような秘密めいたやり取りをして初めてたどり着ける奥の院に、少年めいた空想を働かせるのだった。男はその四日間を、夜の街に繰り出すことで埋めていったが、店の女を抱くことでは男の渇望は満たされなかった。
四日後の午後六時、男は再び娼館に電話を掛けた。三回目のコールが鳴るまでの須臾の時間が、とてつもなく長く感じられた。五回目のコールでようやく女が出た。わざと待たせたのだろうと思われた。男が予定通りの時刻に訪ねていけることを伝えると、女は相変わらずの素っ気なさで住所を吐き出した。ではお待ちしております、と言葉だけは丁寧に女が言った。男の方はどう応えるべきか分からず、うんだかはいだか、よく分からない返事をした。
午後八時五十五分、男はその部屋の前に立っていた。何の変哲もないマンションの一室だった。こんな部屋に娼館があるものなのかと思ったが、これだけ念の入ったやり取りをしなければならないのだから、公に認められているはずがない。それが興味をそそるのだ、と男は独り言を呟いてみたりした。チャイムを鳴らすと、しばらくして鍵の開く音がした。けれども、中から人の現れる気配がないので、男は恐る恐るといった体で都会の娼館の中に入って行った。
室内は意外にもと言うべきか、しっかりとした明かりが灯っていた。キッチンがあってリビングがある、テレビがあってラジオもある、特に変わったところのない部屋だった。ただし、リビングの背後には閉め切られた襖があり、そこだけは和室になっているようだった。ごくり、と息を呑む。余裕を持ってこの部屋を訪れたつもりの男も、その閉じられた襖の先に広がる世界のことを思うと、さすがに緊張するのだった。男が壁のハンガーにジャケットを掛けたところで、背後から声がした。いや、正確には廊下の途中から枝分かれした先の、浴室と思われる方から男を呼ぶ声がしたのだ。男がそちらの方へ向かうと、やはりそこは浴室だった。洋服をカゴの中へ、と言う声が聞こえた。それはまさしく、電話越しに聞いた女の声だった。
素裸になって浴室に入ると、湯けむりのおかげですぐには分からなかったが、そこは意外な広さの浴室だった。浴槽が大きいのは当たり前として、洗い場もなかなか余裕のある作りになっていた。まるで、この娼婦のために設計されたかのようだ。男がそんなことを考えながら視界の上の方ばかり眺めていると、下の方に何かが蹲っている。見れば、そこにやはり裸の女が三つ指をついているのだった。
「どうぞ、こちらへ」
洋服を脱いで相対してみれば、素っ気なく感じられたはずの声も今度は寂しく聞こえた。女の案内に従って椅子の上に座ってみれば、いつの間にやら女の手には既に泡が立っている。男の肩から指先、脇から背中、腰からつま先まで丁寧に女の指が這っていく。その指の滑らかさに男の肌も絹の透き通りを見せるようであった。男の胸に手を当てた女と目が合った。男は椅子に座っているのだけれども、女はなかなかの背丈があるように思われた。その疑問が、さっと口をついて出た。
「きみ、身長は?」
「百七十センチです」
「まるでファッションモデルのようだね」
男は自分でもつまらない話をすると思いながらそう言った。女の方もその会話に意味を見出だせなかったようで、曖昧に頷いて手を動かした。女は全てが大きかった。手も足も大きく、乳房も尻も大きかった。肩幅まで広いのにというべきか、広いからというべきか、顔の大きさは並みの女性と変わらないように見えた。このおかげで女は随分と得をしている、と男は思った。思ったところで、女の名を知らないことに男はようやく気が付いた。
「きみ、名前は?」
「梅子です」
「梅子だって? それはいわゆる源氏名ってやつなんだろうね」
「さあ、どうでしょう」
「そうでなきゃ困るよ。梅子なんて時代遅れな名前、恥ずかしくてたまらないよ」
言ったところでさすがに言い過ぎたかと思ったが、梅子は気にもしていないようだった。言われ慣れているとさえ思えた。その間も、梅子は熱心に手を動かしていた。
バスローブに着替えたところで、リビングに案内された。梅子はラジオの電源を入れ、二人分の麦茶の支度をし、襖の奥の様子を確認する。そのてきぱきした様子は、さすがに手慣れているといったところだろうか。それが終わった後で二人はささやかな乾杯をすると、麦茶を一口に飲み干した。折しも中国で起きた大地震のニュースがラジオから流れていた。男は世界から隔絶されたこの部屋の中で、そのようなニュースを聞くことに不思議な気分を覚えた。
ニュースが終わってオペラが流れ始める中、梅子がグラスを片付けると、男の胸の内はいよいよ騒がしくなってきた。梅子がラジオを消し、男の肩に手を置いた。そうして男の手を掴むと、襖を広く開け放した。和室の照明はずっと暗かった。それでも中の様子は仔細に観察できた。娼館といっても造りに違いはない、ごく普通の和室だった。ただ真ん中に布団が敷かれているだけ、つまり、それをするためだけの部屋なのだ。最初からそのことは分かっていたはずなのに、男は急に動悸がしてくるようだった。梅子が後ろ手に襖を閉めたとき、男はこの世界の終わりを知った。
終わってみれば、それは実に呆気なかった。浴室に向かう途中でちらりと見た時計は、午後十時半を指していた。時間の経過としては妥当に思われたが、実際にその時間を過ごしたのだと言われると実感が湧かなかった。ただ、虚しくもあった。それは梅子への愛情に由来しているわけではなく、もちろん一度の交わりでそのような深い情が生まれるはずはなかったが、それでも身体の倦怠感以上の何かがあった。心が揺れ動いている気がした。最後の瞬間、絶頂に至るその瞬間に接吻を拒まれたことが、男の矜持を傷つけてもいた。
汗を洗い流すときも、梅子は極めて義務的に男と接した。玄関先まで見送られるときも、梅子はあまり目を合わそうとはしなかった。再びこの部屋を訪れることはないだろうと、男は何となく思うのだった。