冷たい花 2
「何だ!?」
床の上を流れる赤い血が煙を噴き、そうかと思えば、血濡れた石の床が次々と轟音を立てて崩れ始めた。俺は足場を奪われ、浮遊感にバランスを失う。
「きゃあああああああっ!」
「ライム、飛んで!」
ライムの悲鳴とテイルの声が聞こえたが、例え俺に魔術が使えたとしても、降り注ぐ瓦礫のせいで、とてもじゃないが上へは戻れそうにない。ライムだって同じだろう。俺は落下しながら視線を奔らせ、ライムの姿を探した。
「ライム!」
見つけた姿から、声が聞こえない。瓦礫が当たって気を失ったのか、彼女は額を血に濡らしながら、頭から落ちていた。
「馬鹿っ!」
幸い、距離はそう離れていない。身を捩って思いきり手を伸ばし、何とか彼女を腕の中へ抱き留めた。それでも、下には瓦礫だらけの石の床が待っている。
「くそっ!」
ガンッ!
全身に強い衝撃が叩き込まれ、その勢いで何度かバウンドしてから、ゴロゴロと転がった。ライムを庇ったまま降り注ぐ瓦礫をしばらくやりすごしてから、俺は恐る恐る身を起こした。辺りは薄暗く、瓦礫だらけの床は冷たく凍っていた。一体ここはどこなんだろう。
「おい、ライム。ライム! しっかりしろ!」
軽く頬を叩くと、ライムが僅かに眉を顰めた。
「ライム、起きろ! 寝てる場合じゃないぞ!」
「ん……ぅ」
ライムの長い睫毛が震えながらゆっくりと持ち上がり、海色の瞳が俺を捉える。
「……ゴリラ?」
「しつこいな! 誰がゴリラだ!」
気が付くなり飛び出した暴言に驚いて、思わず目を見開く。ライムは「ふぅ」と疲れたような息を吐いた。
「おまえ本当に失礼だな!?」
憤慨しながら、俺は口を尖らせる。
ライムはそんな俺を無視してゆっくりと身を起こし、一度天を仰いだ後、辺りを見回した。
「駄目な組み合わせになっちゃったわねー」
「駄目って言うな。俺達昔からコンビだろ」
「……ハァ」
「溜め息吐くなよ!」
やれやれといった様子で首を横に振ったライムに舌打ちして、俺は崩れた天井を見上げた。
「戻れそうか?」
「無理ね。誰の仕業か知らないけど、ちょっと上に力の強い〈イクスティン〉が張ってある。〈フライ〉で上がっても、そこで魔術が解けてまた落ちるわ」
「〈イクスティン〉……。なぁ、さっきの偽ヴェネスって何だったんだろう?」
「偽ヴェネス?」
ライムは怪訝そうに眉を寄せた。
「ちょっと待って。偽ヴェネスって何?」
「何言ってんだよ。頭打って記憶トんじまったのか?」
「クレスこそ。さっきの――……待って。ねぇ、さっきのって、メロヴィスが刺した奴のことよね?」
言葉の半ばまでは混乱した様子だったのに、不意に何かに思い当たったかのように、瞳を光らせたライム。俺が頷くと、彼女は眉間に皺を寄せて低く唸った。
「私が――私とテイルが見たのは、リダだったのよ」
「えっ?」
「血塗れのリダが、『止められない。私を殺してくれ』って。リダが『もうレイグのところへ行かせてくれ』って言った瞬間、メロヴィスがリダを突き刺したの」
「何だって?」
俺は呟き、首を横に振った。
「もしかしたら、レイスと同じような特殊生体の仕業なのかもしれないわね。レイスになったジンがあんたの心の隙を突こうとした様に、特殊生体がヴェネスの姿を取って、メロヴィスを。リダの姿を取ってテイルを乗っ取ろうとしたのかも。私とクレスは、より強く気にかけている方に巻き込まれた形なのかもしれない」
「そうか……。でも特殊生体が欲するなら、メロヴィスはまだ大丈夫ってことだよな?」
安堵しながら言うと、ライムは腕を組んで「う~ん」と唸った。
「メロヴィスはともかく、あんたよ。狙われてないあんた。それから私。美味しそうじゃないってことでしょ?」
「は?」
「魂剥がれかけのクレスが狙われないのはともかく、私はれっきとした人間よ。何で狙われないのよ。失礼しちゃう」
さらっと口にして、頬を膨らませているライム。
「魂剥がれかけって。おまえそういう重いこと平気で言うから狙われないんだよ」
「何が重いのよ。剥がれかけてんなら貼ればいいだけでしょ」
しゃぁしゃぁと言い放ったライムに、俺は目眩を覚えて額を押さえた。魂と混沌系統魔術は、紙と糊じゃないんだぞ。
……つまるところ、揺らぐ隙が無い。ライムが自分を主体とした幻覚を見なかったのは、そういうことなのか? それともたまたま、特殊生体の眼中に無かっただけなのか。
「なるほど、それでメロヴィスがテイルに意地悪いなんて言ったのね。テイルが見ていたのはヴェネスじゃなくて特殊生体化したリダだから、氣術じゃ本物かどうかわからないのに」
納得したようにライムは頷いて、それから溜め息をついた。
「でも、レイスと違ってそいつの世界に閉じ込められたわけでもないのに、性質悪いわね。しかも二人に別々の幻覚見せるなんて」
「おいおい、レイスなんてレベルの特殊生体がポンポン出てきて堪るかよ。闇系統の特殊生体が精神攻撃してるだけかもしれないぞ」
「だったらいいけどね」
ライムは肩を竦め、服の裾をパンパンと叩きながら立ち上がった。彼女は手元に、光系統低位魔術〈ブライト〉の白い光を浮かべた。
「行きましょ。さっさと上に戻るわよ」
俺は頷いて、瓦礫だらけの薄暗い廊下を進んだ。
そこは、公爵や騎士達が住まう城というには、いささか荒れすぎているような気がした。廊下の隅には埃が積もり、濃紺の絨毯は薄汚れて凍り付いている。照明器具は電球ではなく蝋燭の入ったランプだったが、どれも硝子が割れてみすぼらしい姿になっていた。これではまるで賊の巣食う廃墟だ。
足早に歩を進めるうちに、廊下の幅は徐々に狭くなり、点いていないランプの間隔でさえも広くなっていった。通路がやや下っていることから、どうも俺達は地下へ向かっているらしいということがわかる。漂っているのは潮の臭いだ。
「もしかしたらここって……」
「知ってるの?」
「あぁ。最初にヴェネスとジルバ城へ来た時、魔獣拷問室っていう地下牢にワープしてきたんだ。満潮になると海に沈む牢獄らしいんだけど……」
俺はヴェネスから聞いた魔獣拷問室についての説明をライムに伝えた。ライムは眉間に皺を寄せて聞いていたが、やがて前方に見えてきた青黒い扉を前に、後ろを振り返った。
「つまり、あの扉の向こうは牢屋で……行き詰まり?」
「……そうなる」