喪失 12
「私は十九階級のヘルになるらしい。ニブルヘイムの神話を知ってるか?」
「いや、知らない」
「上半身は美しい女。その姿で巧みに男を誘い、氷漬けにして喰らう化け物だ。ただ、下半身は腐り果てていて、そのドロドロに腐った半身が自らの冷たさで凍り付いているんだ。その神話に準えた特殊生体が、ヘルだ。捕らえた者の幸せな思い出を奪ってしまうらしい」
「……。リダは確かに美人だけど、男を誘って喰らうっていう下種な表現は、リダには似合わない」
「それはどうも」
リダは鼻で笑った後、それきり口を閉ざした。
しかし、そのまましばらく馬を走らせ、雪の向こうにジルバ城の陰影が見えてきた頃、彼女は不意に言葉を零した。
「じきに退き際かもしれないな」
「えっ?」
「おまえ達には悪いが、私はもう少ししたら降りさせてもらう。そろそろこの身体は限界だ」
苦笑混じりのリダの言葉に、俺は小さく息を呑む。
「ちょっ……と、待てよ。おまえらしくもない。俺、リダに最初に会った時、おまえの瞳に本気で見惚れたんだ。真っ直ぐ撃ち抜くような、芯のある光が凄く綺麗だった」
「そう言われても、もう下半身の感覚がほとんど無いんだ。今だって、気を抜けば簡単にここから転げ落ちる」
淡々とリダは言って、頭に積もってきた雪を髪と一緒に払った。真っ黒な痣に覆われたうなじが妙に物悲しくて、俺は唇を噛んだ。
「諦めてんじゃねぇよ。〈クロス〉を解けば、リダは助かるんだ。ヴェネスの魔導力なら、可能性がある」
「いや……無理だな。もう間に合わないよ」
リダは口の端を上げて振り返ると、無造作に俺の手を掴んだ。
「手綱、掴んで。姿勢を保って、雪に気を付けろ。両足で馬の腹をしっかり挟むんだ」
「へっ?」
「後ろの相手をしてくる」
「はっ?」
「おまえ達はこのままヴェネスのもとへ」
言うなり、リダは馬上で腰を浮かせると、ふわりと俺の頭上を背中で飛び越えた。
「私もすぐに追い付く。大丈夫、ここじゃ死なない」
「リダ!?」
驚愕の声を上げるも、振り返ろうと首を回したらたちまちバランスを崩して、落ちそうになった。前を走っていたメロヴィスとテイルが馬上で振り返り、リダの名を呼びながら駆け足を止める。
「ぎゃふっ!」
結局馬から落ちた俺は、直後に驚愕の光景を目の前にした。
ゴォォォオオオオオオッ!
轟音とともに大地からせり上がったのは、巨大津波がそのまま凍り付いたかのような氷の絶壁だった。それはたちまち巨大な円を描くと、高く聳える氷の壁で、俺達とリダを断絶した。
「リダ!」
テイルが馬から飛び降りて、氷の絶壁へ駆け寄る。拳を叩き付けて、彼は低く唸った。
「くそっ……!」
「リダ、どういうことなんだよ!?」
起き上がりながら俺は叫んだ。その時だった。
バシュゥッ!
強烈な爆砕音とともに、氷の絶壁の向こうで大地が弾けた。雪と土がバラバラと上から降り注ぎ、辺りに猛烈な吹雪が巻き起こった。
「うわっ!」
思わず両腕で身を庇うが、吹き荒れる雪と風は容赦なく叩き付けてくる。特殊生体として変異している俺の身体はともかく、テイルの肌は鋭く切り裂かれ、血を噴いている。
「何なんだこれ!?」
「リダが戦ってるんです! 恐らく、この壁は僕達を巻き込まないために……」
「戦ってるって……誰と!?」
「この様子だと、相手はクローヴィスじゃなさそうですけどね。とりあえず退きますよ!」
「置いて行くのかよ!?」
「リダなら大丈夫です、絶対に!」
テイルは言って、戸惑う俺の腕を掴んで吹雪の向こうへ駆けた。
「メロヴィス、ライム、聞こえますか!? ひとまずリダの間合いを抜けますよ!」
叫んだ声も、吹き荒れる風の音に掻き消されてしまう。しかし吹雪の勢いが収まると、馬を引いたメロヴィスとライムの姿もすぐに見つかった。
「二人とも無事ですか?」
「あぁ、こっちは大丈夫。だけど――」
メロヴィスは心配そうに目を細め、巨大な氷の絶壁を見つめる。
「心配要りません。それにこの調子だと、僕達が参戦しても足手纏いでしょう。リダの攻撃が、もう魔術のようにはコントロールできなくなってる。恐らくこれは特殊生体としての攻撃……僕達が行っても、巻き込まれて終わりです。あれだけ攻撃範囲が広いと、治癒で援護もできませんし」
「一体何があったんだ?」
「わかりません。この距離じゃ氣術も通じない……」
テイルは拳を握り締め、顔を歪めた。だが、すぐに大きく息を吸い込んだ。
「でも、大丈夫。ヴェネスが敵の手にある以上、まずはそちらへ行くのが先決です。リダだって、ここで諦める気はさらさら無いはずですよ。勝ち目がなければ、こんな絶壁で僕達を制したりしない」
「……わかった」
メロヴィスは渋々といった様子で頷き、傍にいたライムをひょいと抱き上げて馬の背に乗せると、自分もそこへ飛び乗った。
「加勢しなかったこと、あとで恨まないでくれよ?」
「当然。恨むなら僕を」
テイルはニッコリと笑って、俺を振り返った。
「さぁ、クレスも乗って。ここはリダに任せて行きますよ」
「でも……!」
「いいから。リダが行けと言ったら行くんです」
俺はテイルに急き立てられるようにして馬に乗り、彼の体に手を回した。彼の背はひどく強張って、身体は小刻みに震えていた。
「テイル、おまえ……」
呟くと、テイルは困ったように笑った。
「寒いだけ。……寒いだけです」
言い聞かせるような言葉に、俺は低く唸った。やっぱり、リダはほとんど死ぬ気でいるのかもしれない……。
降りしきる雪の白は、ますます色を深めていく。