偽りの温度 11
…………。
いや、意識はある。
ただ、全ての思考が停止している。今少しだけ、その回路が復活したらしい。
どういうことなんだ……。
「嘘だろ……?」
口でそう言っても、頭は理解している。記憶の鎖が、正しい螺旋を描いて俺の中に収まっているのが分かる。だが、それを認めようとすると心が悲鳴を上げる。
「ライムが……」
目の前が真っ暗だ。
熱いものが頬を伝ったのがわかった。
「義父さん達を殺したのか……」
血塗れのリビング。
特殊生体に両親を殺され、呆然とするライムをただ抱き締めていた。――ハズだった、俺の大切な記憶。
目の前に、暗い闇が渦を巻く。影はたちまち俺を模って、悲しそうに笑った。ちょうど十二歳くらいの、少年の俺だった。恐らくこれも、ジンの作った幻なのだろう。
「あの時ライムの傍にいたのは、俺じゃなくてジンだったのか」
俺は思わずその影に話しかけた。
『そうだよ』
影は頷いた。
「両親を失ったショックで、ライムは笑う事を忘れた。あの血塗れのリビングでライムを抱き締めて、俺は何があってもこいつを守るんだって、そう思ったはずだった。ずっとあいつの傍にいて、あいつを支えてきたって思ってたけど……そうじゃなかったんだな」
『俺とライムの持っていた記憶は、全部偽りのもの。受け入れ難い現実を捻じ曲げて、都合の悪いところは消してしまったんだ。あの時、君達の持つ記憶は大きく歪んでしまった。影響を受けた記憶、あるだろう?』
「影響を受けた記憶って、レイヴンとの戦争のことか……。でも、ライムが自分の両親を殺しただなんて……そんなの、忘れてしまった方がいい」
少年の影は頷いた。彼の足元で渦を巻いている闇から放たれる光は、優しく穏やかで、とても悲しそうだった。
『俺が俺であり続けるのは、ひどく難しいことなんだ。これは二度目の俺の死――死んだも同然。あの日、俺は学院で魔導力が無いことを馬鹿にされて、使えない魔術を無理矢理に発動させようとしたんだ。それがきっかけで、特殊生体化してしまった。あっと言う間だったよ』
「ジンは知ってたのか……」
呟いたが、それに対する返答は無かった。代わりに、影は静かに目を伏せた。
『……楽に死ぬなら、最後のチャンスだよ』
すると次の瞬間、目の前にいた影の姿が薄れ、渦巻いていた光が弾けて消えた。
――気付くと、俺は薄闇の階段にいた。
「!?」
足元が冷たい水に浸っていて、じんじんと痺れている。辺りを見回すと、傍らにヴェネスが倒れていた。ジンとレイスの姿は無い。
「ヴェネス、おい! しっかりしろ!」
身体を揺すると、彼はゆっくりと目を開いた。荒い呼吸と青白い顔は、レイスと遭遇する前よりも、いくらかマシになったように感じた。
ヴェネスは俺を見るなり、怪訝そうに眉を寄せた。
「あれ? おまえツルチンはどうした?」
「第一声がそれかよ!」
「あはは」
ヴェネスは笑ったが、動けないのか起き上がろうとしない。
「で、どうなったんだ?」
尋ねたヴェネスに、俺は首を捻る。
「……さぁ」
「『さぁ』、じゃないよ」
突然割り込んできたジンの声に、俺は驚いてそちらを向いた。階段の上に、呆れ顔のジンが座っている。ただ――
「……ジン?」
「何?」
「どういうことだ……それ」
彼はまるで幽霊にでも憑かれているかのように、後ろにレイスの姿を背負っていた。頬や目元へ伸びた黒い亀裂に、ぼんやりと薄れて消えている足。
「見ての通り、俺も特殊生体なんだ。クレスとは少し違うけど」
あっさりと言って、ジンはニッコリと笑った。
「嘘……そんなっ」
思わず立ち上がって否定しようとすると、ジンはおかしそうにクスクスと笑った。
「そう言う自分の姿を見てみなよ。嘘みたいな姿をしてるのは、俺だけじゃない」
言われて自分の身体を見下ろし、目を見開いた。
黒い五本の指先と、装甲に覆われた手の甲。まるでグローブでも付けたかのようだが、それは紛れも無く、俺自身の皮膚だった。肘から小指に沿った右腕の側面では、赤黒い組織が絡み合うように這っている皮膚の一部が、筋上に盛り上がっていた。
腕に力を込めると、筋繊維らしきものがミシミシと音を立て、盛り上がった筋の中から、漆黒に煌めく刃が押し上げられてきた。左腕は鈍い黒銀色の装甲に覆われているのみだったが、生半可な攻撃は到底通りそうにない。
――六年前、ディーナとアルテナに襲いかかった黒い特殊生体と同じ姿だ。
そんな自分の姿に驚いていると、ジンが独りごとのように言った。
「不思議だね。昔は何をしても何も感じなかったのに――今の俺は色んな感情を持ってる。どんなに血を浴びても満たされなかった渇きを、おかしなことに俺はもう忘れちゃったんだ」
「……何言ってんだよ」
「小さな感情の欠片が、意思を持って、心になって、〝俺〟になった。だけど、もうすぐそれは全部消えて、俺は昔に立ち戻る。昔よりひどいか。もう意思を持ってるフリもできない。……それも仕方ない。本来手に入らないものを、俺は手に入れてしまったんだ。その報いだね」
そう言ったジンの後ろで、不気味な面のレイスがゆらゆらと揺れる。
「俺はね、クレス。……好きな人がいたんだ。でも、もうその人の顔も声も思い出せない。意識していないと、その人の存在すら忘れてしまいそうになる」
「っ?」
「さぁ、クレス。もうひと勝負しようか」
ジンはニヤッと笑うと、立ち上がって俺に弓矢を向けた。
「心配しないで。間違ってもヴェネスには当てないからさ」
パァンッ!
鋭い音と共に放たれた矢を、俺は横転して避けた。
「何でだよっ、ジン!」
叫ぶと、ジンは次の矢をつがえながら、困ったように笑った。
「だって、クレスってば全然思い通りにならないんだもの。絶対精神攻撃に弱いと思ったのに。――ほら、かかってきなよ!」