偽りの温度 10
「っ!?」
すると、不意に景色が大きく歪んだ。眩んだ視界に足元がふらついた時、俺は一人、見知った場所にいた。
自宅のリビング……。
血の痕を隠す為の絨毯は、まだそこに敷かれていなかった。
「何だ、あれ……」
そこにはディーナとアルテナ、そして巨大な刃を右腕に持つ漆黒の特殊生体がいた。
目を見開いた俺の前で、義父が特殊生体へ手を伸ばす。その黒い化け物は、左手で頭を抱えながら、何か苦しんでいるように見えた。
「クレス、おいで。父さんと母さんは強いから、おまえのことを助けられる」
ディーナの言葉に、クレスと呼ばれた化け物は目を見開き、首を横に振った。
「だって! 駄目だよ、抑えられないんだ! 苦しいよ……俺、このままじゃ義父さん達のことを殺しちゃうよ! 逃げて!」
「安心しろ、クレス。すぐに楽になるよ。大丈夫だから、父さん達を信じるんだ」
優しい声で〝俺〟を「クレス」と呼ぶディーナ。振り翳された刃が不気味に閃く。しかし二人は逃げようともせずに、手のひらを〝俺〟に向けた。
「やだ……駄目、うわああああぁぁぁぁぁっ!」
「――〈カオス〉!」
真っ白な光の爆発。思わず目元を手で覆い、その光が止んで恐る恐る顔を上げると、リビングには真っ赤な血が散乱していた。
「クレス!?」
「そこを動くな、クライスさん」
「っ、エルアント! 一体いつから!?」
リビングには、義父母の他にエルアントとセンジュが立っていた。彼らはそれぞれ、血の付いた得物を手にしている。真っ白な光の爆発に紛れて、化け物を攻撃したようだ。
「そんな……エルアント! おまえ何てことをしたんだ!」
「これ以上、特殊生体に人間のフリをさせるわけにはいかない」
「ふざけないで!」
墳努の表情で二人を睨み付ける義父母と、血塗れで倒れている俺。姿は人間のものに戻っていたが、仮に人間なら、生きているはずがないほどの傷を負っていた。
「義父さん……寒いよ」
リビングに広がる血の海。大きく裂かれた腹から臓物が溢れ、胸を貫かれ、額には銃によって開けられた風穴があり――そのどれからも、恐ろしい量の真っ赤な血を流している。
潰れかけた芋虫のような姿だったが、俺は生きていた。
そんな俺を見下ろして、エルアントとセンジュが顔を顰める。
「可哀想に。この子は何が起きたかすら理解していないんだ」
「エル。こんな姿になって尚、生きている人間などいない。情をかけるな」
「あぁ、分かってる。俺がとどめを。もう逝かせてやろう」
「義母さん……」
二人の会話を聞きながら、俺は喘ぐように懇願する。
「助けて……」
辛うじて動く眼球で、俺は襲撃者達を見上げた。……俺の視線は、いつの間にかそこにあった。
見上げた視線に返されたのは、憐みの色だった。
「……恐ろしいことを。特殊生体を造り出す研究なんて、どうかしてる」
「実の子のライムが、魔導力に見合わない魔術の使い方をしているのは、彼女が自分達を越えてしまわないようにするためなのか? あの子の魔術は、貴方のような魔導師に教わっているのに、力任せで滅茶苦茶だ。まるで魔術が使えないように育てたかのような……。とにかく貴方達には、駆除協会の裏で行われていること、洗い浚い吐いてもらう」
エルアントがそう言って、俺に向けて剣を振り上げた。
カタンッ。
しかしその時、リビングの入り口から小さな音がした。
驚いた様子で、四人が音の方を振り返る。そこには真っ青な顔でガタガタと震えているライムがいた。
「クレス……?」
ライムは血塗れの俺の姿を見つけて、大きく目を見開いた。
「王宮騎士……? クレスに……何をしたの……」
「ライム、来ちゃ駄目! 外に出ていなさい!」
アルテナが叫ぶが、ライムは小さく、首を横に振った。
「嫌……」
バタバタとライムの髪や服が大きくはためき、彼女の周囲に物凄い勢いで魔力が集束していく。これまでに見たことも無いような力だった。
「ライム!?」
玄関の方からジンの声が聞こえた。
「ジン君、ライムを止めて!」
アルテナが叫ぶように声を上げたが、間に合わなかった。ライムは殺意を込めた瞳で、エルアントとセンジュを睨み付ける。
「〈エクスプロージョン〉!」
ライムの呪文と共に、強烈な爆音が炸裂した。
グシャッ!
……濡れた音が響いた。
「ディーナさん!? アルテナさん!?」
絶叫のようなエルアントの声がした。誰が展開したのか分からないが、砕け散った防御系統高位魔術〈イクスティン〉が、薄っすらと光を残して消えていく。その場にいる誰が展開しても、それは類稀なほどに強靭であったはずだ。しかしそれはどういうわけか、ライムの〈エクスプロージョン〉によって呆気なく破られてしまったようだ。
「父さん……母さん……何で……?」
呆然とするライムの視線の先。
そこにはエルアントとセンジュを庇い、身体の左半分を失って息絶えたアルテナと、上半身だけになってしまったディーナがいた。ディーナは震える手を俺に向け、治癒系統高位魔術〈エンジェルキス〉を発動させた。
俺は愕然と目を見開いたまま、その光景を見つめていることしかできない。勢いよく噴き上がる緑色の優しい光が、場違いなくらい美しい輝きを放って、俺の傷を癒していく。
「ディーナさん、どうして!? 貴方は……!」
「エルアント……。悪いがクレスを助けてやってくれ。その子は特別なんだ。魔導力さえ使わなければ、ちゃんと人として生きられる」
「特別って……」
「特殊生体を造り出す研究、調べてみるといい。もし調べる前にクレスを殺したら、絶対後悔するぞ」
ゴボゴボと血を吐きながら、ディーナは最後の力を振り絞るように、ライムへ顔を向けた。
「ライム……」
娘の名前を呼んだ唇が、動かなくなった。ライムの双眸が絶望に見開かれる。泣き叫ぶ寸前のライムの身体を、悲痛に満ちた顔のジンが抱き締めた。同時に目の前が真っ白に塗り上げられて、俺の意識はプツリと途絶えた。