偽りの温度 6
「とにかく、行ってみよう」
俺達はレイヴンの森に足を踏み入れ、あても無く歩を進めた。
「うおっ、何だこの虫! デカッ!?」
温暖な気候のミドールにいる虫や植物が珍しいのか、ヴェネスはキョロキョロと辺りを見回しながら歩いている。心なしか楽しそうに見えるのは、気のせいではあるまい。
「おい、俺達、今レイスの中にいるんだぜ? そんな呑気でいいのかよ?」
「んー。まぁ、メロヴィス様のことは心配だけど、ここから出られないとどうにもならないからなぁ。おまえを焦らせても仕方ないだろ?」
ヴェネスはそう言って、葉の上を這っていた芋虫の後、俺の股間に視線を移した。
「……ぷっ」
「比べんな!」
声を荒げた時、これまで緑に輝いていた木々の中に、ヒラヒラと風に舞う赤い何かが引っ掛かっているのを見つけた。
「ん、あれって……」
枝に絡み付いているのは、赤いリボンだった。少しの間それを見つめていると、頭の奥がビリッと痺れたような気がした。
――私のリボンが無いの。レイヴンの森に出かけるまではあったのに!
幼いライムの言葉が蘇る。思わず頭を抱えた俺に、ヴェネスが不思議そうな顔を向けた。
――聞いて、ライム。風も強くなってきたし、今夜はひどい天気になるそうだ。今から探しに行くのは危ないよ。残念だけれど、今度代わりに新しいのを買いに行こう?
続いて蘇ったのは、諭すようなディーナの言葉。脳の奥がチリチリと疼く。まるで、この記憶を思い出すことを拒んでいるかのようだ。
――嫌! あのリボンがいいの! あれじゃないと嫌!
「あっ!」
そうだ。確か義父さんに連れられて、ライムと三人で森に木の実を採りに行ったんだ。家に帰った後で、ライムがお気に入りのリボンを無くしたことに気が付いた。ライムが泣き止まないから、俺は――
「一人で森に入ったんだ。天気が悪くなったらすぐに帰るからって、公園に行くフリをして……」
あのリボンを探しに来たんだ。
「おいクレス、大丈夫か!?」
よほどひどい顔をしていたのか、ヴェネスが心配そうに俺を覗き込んだ。
そのヴェネスの肩越しに、少年の姿を見つけた。――今の俺の姿よりも更に幼い、六歳くらいの頃の俺だ。
「見つけた!」
少年の俺は嬉しそうにそう言って、リボンへ駆け寄る。手にした木剣を地面に置くと、小さな手で、丁寧に枝からリボンをほどいていく。
「……どうしよう」
そのリボンを見つめて、少年の俺は途方に暮れたように肩を落とす。リボンはあちこちほつれて、もう使い物になりそうになかった。
その時、ズキンッと頭の奥が痛みを訴えた。
「ぐっ!?」
しばらく忘れていたその感覚に、俺は大袈裟なくらいの声を漏らしてしまった。驚いたように俺を見たヴェネスに、俺は思わず込み上げてくる笑みを隠せなかった。その間も、頭はズキズキと痛みを増していく。
「な、何だよクレス……」
「痛いのが嬉しいって、ちょっと変態だよな」
「…………」
「今の姿が本当の姿なら――俺はまだ痛みを忘れたワケじゃない。みんなを傷付けた時に感じた妙な息苦しさとか、胸を引っ掻かれてるような感じとか、本当は全部痛みだったんだ。そういうことだよな?」
すると、ヴェネスは少し驚いたように目を見開いた後、小さく笑って、俺の頭をポンポンと撫でた。
「何すんだよっ……!?」
だが、気恥ずかしさに顔を赤くしたのも束の間。突如強烈な雷鳴が天で轟き、途端に大粒の雨が降り出して来た。
「うあっ!? やっべぇ!」
少年の俺は慌てたように木剣を拾い、走り始めた。俺とヴェネスは、雨でけぶる彼の姿を見失わないように、後を追いかけた。
しかし森の中を走りながら、ヴェネスは困惑したように眉を寄せていた。少年の俺は、城下町の方とは反対方向に向かっていたのだ。
「おいっ、そっちは逆だ! 森の奥に入っちまうぞ!」
思わず俺は叫んだが、少年の俺には届かない。少年は不安そうな顔で、赤いリボンと頼り無い木剣を固く握り締めていた。
ガシャァァアアンッ!
空がカッと閃光のように瞬き、物凄い音がした。俺達ですら、思わず身を竦めてしまうほどの雷だ。少年の俺は頭を抱えて、その場に蹲っていた。辺りは薄暗く、猛烈な雨のせいでほんの数メートル先すら霞んで見える。雨はあまりに冷たくて、少年の俺は恐怖も相まってか、ガタガタと震え出していた。
「義父さん……義母さん……」
少年の俺が呟いて、グッと歯を食い縛る。同時に、頭の奥が一際強い痛みを訴えた。しかしそれでもまだ、俺はこの光景の先を思い出せずにいた。
「クレス! やばいぞ!」
「えっ!?」
痛みに気を取られていた俺の視界に映ったのは、草陰から飛び出してきたレッドウルフだった。気配を感じたのか、少年の俺が勢い良くそちらを振り返る。だが、間に合わない。
「うわああああっ!」
目前に迫っていた牙を、幼い俺が避け切れるはずもなかった。喉笛に鋭い牙が立ち、衝撃と激痛に、小さな身体が仰け反った。
「えっ……」
絶句して目を見開いた俺の前で、少年の俺が地面へと倒れ込む。溢れ出す血の量は、恐らく既に致死量に達している。
「クレスーっ!」
その時、悲鳴のような声と共に、ディーナが飛び込んできた。彼は手にした女王の守護者でレッドウルフを討ち取ると、血塗れの俺に両手を翳した。治癒系統高位魔術〈エンジェルキス〉が発動し、首の咬み傷に光が降り注ぐ。
「と……さん。苦しい……」
少年の俺は、掠れた声で呟いた。ディーナは俺の手を強く握った。
「大丈夫だ! 絶対に助ける!」
「――……」
「おいっ、クレス!?」
ディーナの顔が大きく歪んだ。グシャグシャになった、俺の見たことの無い義父の表情……。
「クレス、駄目だ! 死ぬな! 死んじゃ駄目だ!」
ディーナは叫びながら〈エンジェルキス〉を発動し続けるが、幼い俺は、不安と恐怖に目を見開いたまま、ピクリとも動かなかった。
「クレスっ……駄目だ、駄目……」
ディーナは呻き、動かない俺の体の上に倒れ伏した。光の消えた両手で俺を抱き締め、彼は悲しい獣のような咆哮を上げた。
「…………」
俺は呆然とその光景を見ていることしかできなかった。だってあそこで俺が死んだなら――ここにいる俺は何なんだ。