偽りの温度 4
「気付け! リィナと手を組んだところで、あいつにライムとの幸せな未来が本当にあると思ってるのか!? あるわけないだろ! あいつもあいつだ! 何を血迷ってこんなことしたのか知らないけど――」
言いかけたヴェネスを、鋭い音を立てて飛んできた矢が遮った。
キィンッ!
その矢を器用に銃身で弾いて、ヴェネスは通路の奥に視線を向ける。現れたジンは、全身からポタポタと水を滴らせ、荒い息を吐きながらヴェネスを睨んでいた。
「邪魔するな。……余計なこと言うと、君も殺すよ」
「あぁ、クレスって憐れすぎる! 親友にも馬鹿って思われてるんだ!」
ヴェネスは笑い、ジンの方へ銃口を向けた。
「あんた、悪役には向いてないよ、ジン」
ヴェネスの銃口がもう一度火を噴いた。
「ウォルト・メロヴィス・コーラー・ヴェネス――〈エクスプロージョン〉!」
銃弾はジンの後ろにいたレイスに着弾し、炎系統高位魔術〈エクスプロージョン〉を纏って、レイスを粉々に吹き飛ばした。同時に俺達の足元に冷たい水が戻って来て、物凄い早さで腰の高さにまで浸水した。
ヴェネスは凛として言い放った。
「ジン、報われない真似はやめなよ。自分を苦しめるだけだ。あんた、本当はこの上なく動揺してるだろ。こんなに傷付けても、クレスが我を失わないから」
「……っ」
「『クレスを繋ぎ止める鎖は少ない方がいい』? 馬鹿言うな。何よりもあんた本人が、こいつを繋ぎ止める鎖だろうが。親友に裏切られたってわかっても、クレスは〝クレス〟のままだ。肉体はどんどん特殊生体化してるってのに!」
言われて初めて、俺は自分の体を見下ろした。深緑色の固い表皮に覆われた両腕と、獣のような鋭い手指。痣が広がっているだけではなく、姿かたちまで人間とはかけ離れてしまっていた。確かに、我を失わなかったのが不思議なくらいだ。
ヴェネスは言った。
「特殊生体になっちまった親友なら、自分が楽にしてやろうと思ってたんだろ。いや……それなら協会の連中を特殊生体に変える必要は無い。おまえがリィナと何らかの取引をしたのは本当だろうな。そうすると――こいつがこのまま生き残って、何かに辿り着くことが問題なのか? それがこいつを、どうしようもなく傷付ける?」
「…………」
ヴェネスの言葉に、ジンは堪え切れなくなったかのように顔を歪めた。ヴェネスは喉の奥で低く唸る。
「クレスはおまえの思ってる通りの馬鹿だから……何とかなる、誰かが何とかしてくれるって心の内で思ってるうちは、簡単に自分の意識なんて手放しちまう。だから、自分にとって一番大切なライムがいたって、近くに俺達がいれば安心しきって抵抗しない。本人は必死で抗ってるつもりなんだろうけどな。今のでそれがよーくわかった。置かれているのがどうしようもできない状況なら、クレスは無意識にだって、特殊生体化の誘惑に抗えるんだ。クレスは多分……ジルバに来て俺達に刃を向けて、みんなズタボロになって――思ったより自分が強力な特殊生体になってることに恐怖した。だからここで意識を手放せば、自分は親友を殺すかもしれないってな。そうならないように、自分が弱りきる限界まで、こいつは〝クレス〟で居続けた。本人は全然気付いてないんだろうけどな!」
ヴェネスの怒声に、俺は息を呑んだ。確かにあの瞬間――ジンにトドメを刺されそうになった直前、俺は赤く染まる視界に、今なら大丈夫だと思ったのだ。
俺は変わり果てた手で、自分の胸を押さえた。
「俺は――」
呟いてジンを見ると、彼は悲しそうに俺から目を逸らした。
「同行者がいるところに手を出したのが失敗だったかな。ヴェネス、君は魔導力の使い過ぎで気絶してたんじゃなかったの?」
「動けなかっただけだ。そう簡単に、敵前で意識飛ばして堪るかよ。クレスじゃあるまいし」
ヴェネスは嫌味っぽく口の端を上げた。ジンは困ったように眉を下げ、俯いた。
そんなジンに、ヴェネスが小さく笑った。
「おまえら、俺が本当に気絶してなかったことに感謝しろよ? 特に、馬鹿クレス」
ヴェネスにビッと鼻面を指差され、俺は口を曲げる。
「おまえら、もう戦る気はないだろ? さっきジンが喋ってたこと、どこまで本当なのかは後にして――早くここを出ないと、そろそろ本当に溺死するハメになるぞ」
言われて、俺はヴェネスの身体がガタガタと震えていることにようやく気付いた。ハッとした俺に彼は悪戯っぽく笑うと、当然のように寄りかかって身を預けてきた。満ちてくる海水と同じくらい冷たいヴェネスの体を、俺は慌てて支えた。
「寒くてもう身体が言うこと聞きやしねぇ。クレス、脱出は任せたからな?」
「悪い……相当無理させてるよな」
「はっ、気付くのが遅ぇ」
だが、その時だった。ジンの唇が不気味な弧を描く。
「……ねぇ。まさか〈スプラッシュ〉と〈エクスプロージョン〉だけで、十九階級のレイスが倒せると思ってる?」
「!?」
ブワァッ、と全身が嫌な気配に包まれ、ヴェネスが驚いたように目を見開く。気付けば俺とヴェネスは、青い発光体に包み込まれていた。
「何だよ、コレっ!?」
不気味な光の向こうに、先刻とはうってかわった、冷たいジンの瞳が見える。彼は無表情に俺から視線を外し、仕事は済んだとばかりに、ゆっくりと髪をかき上げた。
「ヴェネス、馬鹿はどっち? 言ったよね、美談は要らないって」
「何言ってやがる! クレスはおまえの大事な親友だろ!?」
「俺はフィラルディン・フレイヤ。ミドールの王宮騎士で、みんなの裏切り者。ジンっていうクレスの親友なんて、存在しないんだよ」
全ての音が、膜を張ったように聞こえる。
「くそっ、頭が割れそうだ……」
ヴェネスが呻くようにそう言った後、ブツン、と抵抗も敵わず意識が引き千切られ、最後に冷たい水の感覚だけ残った。