捕らわれの鎖 11
「ウォルト・メロヴィス・コーラー・ヴェネス――〈スプラッシュ〉!」
ヴェネスの呪文とともに、水系統中位魔術〈スプラッシュ〉が発動。同時に〈イクスティン〉が薄れ消えたが、中位魔術の〈スプラッシュ〉は高位魔術であるはずの〈ソル〉を押し返し、水の奔流がハルを飲み込んだ。「巻き込んだらごめん」と言っていた割に、俺には水の一滴もかからなかった。
同時にヴェネスの身体が再び傾いで、先刻の倍以上の重さで、俺にもたれかかってきた。
「ヴェネス!」
「…………」
ヴェネスはぐったりとして、青白い顔のまま荒い息を繰り返している。〈スプラッシュ〉に呑まれたハルは、水の勢いもそのままに壁に叩きつけられたのか、壁際で動かなくなっていた。
「ウォルト・メロヴィス・コーラー・ヴェネス――〈ワープ〉!」
掠れたヴェネスの声が放たれて、ハルの身体が赤い光に包まれる。彼の姿はそのまま霞のように消えて、ヴェネスが疲れ果てたように目を閉じた。
「あっ」
辺りを照らしていた〈ブライト〉がゆっくりと消えていく。ヴェネスが気を失ったらしい。
「マジで……?」
俺はヴェネスを背負い、生者にしてはやけにひんやりとした彼の体温に焦りを感じながら、暗闇の中を歩き始めた。目が明るさに慣れていたせいで、今は何も見えない。
「だ、大丈夫! 大丈夫!」
声に出してそう言い聞かせながら、俺はいくらか暗闇に慣れてきた目をぐっと凝らした。
ピシャンッ!
「ん?」
水に濡れた音が靴底で弾けて、俺は足で床を探ってみた。じわり、と冷たい水が爪先を濡らした。
「潮が満ちてきてるのか……」
少し焦りながら歩を進めたが、間もなく水は足首まで上ってきた。冷たすぎて、足の感覚が無くなりそうだ。
「はッ……はッ……」
ヴェネスの呼気は、俺の鼓膜を叩くほどに荒れている。
「おい、ヴェネス。大丈夫か?」
声をかけたが、返答はない。その代わり、一瞬ピタリと呼吸が止まった。
「?」
するとヴェネスは、突如盛大に吐瀉物をブチ撒けた。
「んなっ!?」
俺は慌てて彼を下ろし、ヴェネスの口に手を突っ込んだ。
「ヴェネス、ヴェネス! 吐き出せ! 窒息するぞ!」
溜まっていた吐瀉物を掻き出して、乱れていることに違いはないながらも、呼吸が戻ってきたことに一安心する。
そうして落ち着くと、今度はゲロ塗れの肩が気になった。
「あぁ……」
呟いて、小さく溜め息を吐く。まぁいいや。いいことにしよう。
俺は冷え切った足をさすり、ヴェネスをもう一度背負った。
バシャッ……バシャッ……。
「ん?」
不意に後ろから聞こえた水音。俺は嫌な予感と共に振り返った。
「!?」
そこにはテラテラした緑色の表皮に覆われた、両生類のような特殊生体がいた。幽霊じゃないだけまだマシだが、この状況は非常にマズイし、俺はあの特殊生体をこれまでに見たことが無い。
「あいつ、どこから来たんだよ!?」
これまで歩いてきた通路には、特殊生体なんていなかった。俺達が辿り着いた牢獄よりも、ずっと奥から現れたのだろうか。
「くそッ……!」
ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる特殊生体に悪態を吐き、俺は視線を前方へ戻して、一目散に駆け出した。一体この牢はどこまで続いてるんだ!?
床を覆う水は膝の深さまでに達し、俺の速度が落ちるに従い、特殊生体との距離も縮まってきた。振り返ると、赤く輝く目の下で、特殊生体の口が大きく開いた。
「やべぇっ!」
開かれた口には、鈍く発光している不気味な牙が居並んでいる。ぬらぬらと濡れて光っているそこから何かが放たれたのを認めて、俺は目を見開いた。
「だぁぁぁぁあああああっ!」
叫びながら、俺は飛んできた何かを、上半身を逸らして回避。すぐに屈みながら逸らした体を戻して振り返ると、通路左の鉄格子に、ゴツゴツした塊がめり込んでいた。その大きさは暗闇でよくわからないとはいえ、当たれば一撃で頭部爆砕間違いなしのサイズだった。
顔を引き攣らせた俺に、特殊生体が再度攻撃を仕掛けてくる。俺は飛んできた塊を躱し、……水に足を取られて見事転倒。ヴェネスと一緒に冷え切った水の中へとダイブする。
「ぷあっ!」
バシャァンッ!
突き刺すような温度の水の中から身を起こし、俺は後ろを振り返った。特殊生体は、もうすぐそこまで迫って来ている。ヴェネスが気を失っている上に相手のこともわからないし、できれば本格的な戦闘は避けたいところだ。
その時ふと、水に浸かった右手に何か硬い物が触れた。
「?」
水中から出してみると、それは特殊生体から飛んできた何かの塊のようだった。
「このっ!」
俺は塊を鷲掴みにして、特殊生体に向けて投擲。ヒュォォンッと小気味いい音がして、小さな砲弾と化した塊が、赤く輝く特殊生体の左目に突き刺さる!
「よっしゃ!」
俺は小さくガッツポーズ。特殊生体が痛みに悶えている間に、ヴェネスを肩に担いで逃走を再開した。
すぐ後ろから追いかけてくる凶悪な唸り声。大きくはなかったが、焦燥を煽るには十分だ。水位は既に太股まで達している。ちっとも前に進まない。