捕らわれの鎖 7
その言葉は、驚くほど自然に俺の中から滑り出してきた。
「殺してくれ」
もう一度繰り返して、込み上げてきたのは後悔だった。
「何で、もっと早く……俺、ライムやみんなを傷付けたいわけじゃなかった」
次に溢れ出してきたのは、涙だった。
ただ、死にたくなかっただけなのに。
すると、ライムの悲しい声が落ちてきた。
「それは、無理」
「……っ、何で!?」
縋る思いでライムを見上げると、ライムは首を横に振った。
「私達、どんなに良く見積もっても満身創痍よ。今のクレスは――心臓の一突きくらいじゃ死なない。……死ななかったの。今ここでクレスを殺そうとして、またあんたの自我が失われるようなことになったら、私達はきっとみんな死ぬ。特殊生体化が進んでいるのはクレスだけじゃないし」
ライムに言われて、俺はリダの方を見た。彼女の首筋には黒い亀裂が広がり、体から滴る血の滴は、他者の赤と彼女自身の白が混ざり合った色をしていた。リダは薄く目を開けて、俺達の方を見ていた。気のせいかもしれないが、彼女の紅の瞳からは、涙が伝っているように見えた。
そしてメロヴィスもまた、リダと同様にぐったりとしていた。彼は冷たい雪の上に横たわり、傍らで肩を震わせているヴェネスに、優しく笑いかけていた。その口元は、白で汚れている。
「…………」
特殊生体の、白。
あの白い血は、彼自身が吐き出したものだ。そうでなければ、あんなに大量の白い液体が口元を汚す理由が無い。
メロヴィスまでもが、リィナの黒い光を浴びてしまったのだろうか。
俺は呆然として、彼らを見つめていた。
「……っ」
何か言おうとしたのだが、口の中が乾いてしまって声が出なかった。しかし何を言おうとしたのかは、自分でもよくわからなかった。
するとライムが俺を振り返り、小さく笑った。
「それにね、私がクレスを殺させない。もしクレスを守れなかったら、私はあんたと一緒に死ぬわ。……それが嫌なら、お願い。『殺してくれ』なんて言わないで。私が絶対にクレスを助けるから」
彼女の笑顔は、言葉の途中でクシャクシャの泣き顔に変わっていた。俺はその泣き顔に手を伸ばし、血と泥で汚れた彼女の頬をそっと拭った。
「馬鹿。流すのは涙だけで十分だ。鼻水まで出てるぞ」
俺は笑った。心は痛まなかったし、軋まなかった。そういえば、身体の痛みと心の痛みの回路は同じだと、前に何かの本で読んだ気がする。特殊生体化による痛覚の消失は、俺から心の痛みまで消してしまったのか。
でも、涙が止まらない。息が苦しい。
感情と思考による結果が、肉体と結び付かない。俺は混乱した。混乱して、泣きながら笑った。
「ライム……やっぱり駄目だ。わかんないよ、俺」
大切な人を傷付けて、それだけしか能の無い俺が、このまま生き続けることに意味はあるのだろうか。……そんなもの、あるわけがない。
守りたいものを守れない。
ディーナとアルテナを殺したかもしれない俺。
ディーナとアルテナに造られたかもしれない俺。
王宮騎士であるエルアントに殺された俺。
覚えの無いレイヴンとの戦争。
血塗れのリビング。
魔導力に釣り合わない、ライムの魔術。
おぞましい死の感覚と、〝何か〟への衝動。
足りない過去と、記憶にない誰か――●●●●●。
リィナ。
「…………」
何もかも、考えるのが面倒だ。
――あの衝動ニ身を任せてしまえバ……。
「……クレス?」
「!」
途切れかけた思考の途中、ライムに声をかけられて、ハッと我に返った。急速に意識が回復し、激しく高鳴っている心臓の拍動を思い出す。
戦闘中でなくても、こんな有り様だ。俺はいつ自我を失うか、すっかりわからない状態にある。
「……もういい」
「もうたくさんだ!」
俺の言葉の続きを叫んだのは、ヴェネスだった。驚いて彼の方を見ると、気を失ったらしいメロヴィスを抱き締めて、ヴェネスが身を震わせていた。
「ごめん……メロヴィス様。俺、あんたを傷付けてばっかりだ。みんなのことも。俺は昔から何も変わってない。……メロヴィス様から大事なものを全部奪っちまった。俺は〝あんた自身〟まで犠牲にしたのに、まだ傷付けようとしてる」
ヴェネスはメロヴィスを雪の上にそっと横たわらせると、ゆらりと立ち上がった。この様子とタイミングで彼が考えることなど、一つしかないだろう。
「終わりにするよ、メロヴィス様。これで終わらせる」
「ヴェネス、駄目!」
恐らく咄嗟のことだったのだろう。ヴェネスの異変に、ライムがパッと駆け出した。全身に負った傷のことなんて、まるで忘れてしまったかのように。
「ウォルト・メロヴィス・コーラー・ヴェネス――」
ヴェネスの呪文を聞きながら、俺の足は無意識にライムを追っていた。
「ヴェネス、行っちゃ駄目っ!」
青ざめたヴェネスの唇が紡ぐ魔力の渦に、ライムが手を伸ばす。
「馬鹿っ!」
寸でのところでライムの腕を捕まえて、俺は彼女を後ろへ引き戻した。
「クレス!?」
ライムはバランスを崩して後方へ転びながら、驚いた顔で俺に手を伸ばした。一方の俺は止まることができずに、ライムと同じく目を見開いたヴェネスへと突っ込んだ。
「なっ……」
ヴェネスの最後の呪文は言葉にならなかったが、呪文を発動の切り口にしなくても、それだけ彼の意思が強かったのだろう。そういえば以前に聞いたものとはヴェネスの呪文が違ったな、と疑問を抱いたのも束の間。身体が赤い光に包まれて、俺はヴェネスに引き摺られるような形で、浮遊感の中へ放り出された。