闇と交わす口付け 10
俺は齧りかけの林檎を手に持ったまま、眉を寄せた。
「終わるワケない。普通に考えたらわかるだろ、そんなこと」
「そんなこともわからなくなるくらい、混乱してるんだよ。俺ですら、俺が死ねば本当に何とかなるんじゃないかって思うくらいだ。人間が特殊生体になるなんて、完全に理解の範疇を越えてる。無理矢理にでも誰かの所為にしたいんだ。俺もミドールの話を聞くまではそうだった」
「…………」
「俺は、一度は捕まって処刑されそうになったんだ。それをメロヴィス様が助けてくれて、場所を転々としながら、こういう廃村なんかに身を潜めてる。でも逃げ回っている間にも村や町は次々と特殊生体に潰されて――俺達は黙って見ていることしかできなかった」
そんな折に、リダとライムは〈シフト〉の赤い光に包まれて、この地へ来たらしい。リダは衰弱した傷だらけの姿で。ライムは深い眠りの世界に閉じ込められたままで。
リダは寝かせて身の回りの世話をしてやったら、二日ほどで目を覚ましたらしい。だが、ライムはひどくうなされているばかりでなかなか目を覚まさず、試しにヴェネスが精神系統最高位魔術〈クリア〉をかけてみたところ、ようやく目を覚ましたそうだ。誰かに強制的に眠らされていたのだろうと、ヴェネスは言った。
そんなライムの状態を聞いて、俺は己の短慮を後悔していた。もしライムが飛ばされてきたのがヴェネス達のところではなかったら――子どもを嬲ることを快楽とするような人間に捕まっていたら、或いは、誰もいない雪空の下に放り出されていたらどうなっていただろうか。ライムを夢の中に閉じ込めたというリィナの言葉を軽々しく捉えていた自分の行動に、今更ながら背筋が寒くなった。
「闇系統高位魔術〈ナイトメア〉……相当強力に効いてるみたいだった。ライムが今あぁして笑ってるなんて、正直信じられないよ。本来だったら、ほんの数時間で気が狂っていてもおかしくない」
「〈ナイトメア〉って、そんなに酷いのか……?」
「酷いなんてもんじゃない。家族や友人から完全に孤立し、目の前で恋人が八つ裂きにされるような場面を、何遍も体感するんだ。恐怖と絶望の悪夢を、狂い死ぬまでひたすら繰り返し続ける魔術だ」
俺は思わず黙り込み、唇を噛んだ。
「馬鹿、暗い顔してんじゃねーよ。ライムだって、おまえにそんな顔させたくないだろうに」
ヴェネスは首を傾げて、シャクシャクと林檎を頬張る。
「ライム、眠りながらずっと泣いてたんだ。でも目を覚ましたら笑ってた。俺達に向けて『大丈夫』って言いながら、青白い顔で笑うんだ。……おまえの前では泣いただろ、あいつ」
「…………」
「ちゃんと守ってやれ。あいつはおまえを信じてるんだ。そうじゃないとな――」
ヴェネスの顔がぐいっと俺に近付き、黒い瞳が真っ直ぐに俺の眼を射抜いた。鼻先が今にも触れそうな距離に、俺は小さく息を呑む。ヴェネスは言った。
「俺がもらう。……本気だぜ?」
「え……」
「惚れちまったんだよ。俺はあいつの全部が欲しい。ライムは俺の嫁にする」
ヴェネスの顔は、どう見たって本気だった。だが、俺は彼に射抜かれた瞳を、目を伏せて逸らすことしかできなかった。ヴェネスは鼻を鳴らし、「楽勝だな」と薄く笑った。
「俺は――……」
「まぁー、いいや」
ヴェネスは少し大きめの声で俺の言葉を遮ると、芯だけになった林檎を目の前に摘み上げた。
「リダはこの国に起こっている事態に、おまえ達の国を滅ぼした奴が絡んでいるとみてる。それは俺も同感だし、間違い無いだろう。リダも俺達も、戦力は多い方がいいってことで共同戦線組むことにしたんだ。それで王宮騎士の生き残りのテイルと、おまえを呼び寄せた」
「どうして俺達の居場所がわかったんだ?」
「リダが、生きてれば多分二人とも協会にいるって言ってた。本当はついでに協会の調査も済ませたかったけど、まさかテムングスに襲われるとは思わなかったな」
ヴェネスは苦々しげに顔を歪め、肩を竦めた。
「ちなみに共同戦線って言っても、具体的にどうするつもりなのかは知らない。でも、俺はメロヴィス様の判断に従う。おまえはどうするのか考えろ」
ヴェネスはひょいとテーブルから飛び降りて、林檎の芯に〈フレイム〉で火を点けた。ボンッと勢い良く燃え上がった炎は、手品のように林檎の芯を灰へと変えた。パラパラと彼の手から落ちて行く灰が、薄っすらと床を汚した。
それを見ながら俺は口ごもり、ただ俯いていた。先刻ライムと話していた時は随分前向きになれていたというのに、我ながら情緒不安定にもホドがある。
するとヴェネスが歯を見せて快活に笑った。
「だからそう暗い顔するなって。その特殊生体化で色々あるんだろうけど――ナニが自分のせいだとか、アレが自分のせいだとか、気にし始めたらキリがないぜ?」