闇と交わす口付け 4
ライムは細い肩を震わせながら、悲痛な泣き声と共にその場に崩れ落ちた。俺の右手は涙に濡れて、恐怖で冷え切った彼女の指先を、ただ握っていることしかできなかった。
「特殊生体になったら、クレスはどうなっちゃうの?」
「そうなる前に死ぬしかない」
テイルに刃を振り上げ、リダに殺意を向けた自分――あれは到底、理性で制御できるようなものではない。
パンッ!
「っ!?」
突然視界の隅に何かが飛び込んできたかと思うと、軽い衝撃と共に、目の前に星が飛んだ。
「死ぬなんて言わないで!」
頬を叩かれたのだと気付くのには、しばらくかかった。呆然としている俺の前で、ライムの両目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちていく。
「死んじゃ嫌……死なないで!」
「うわっ!?」
体当たりと共に抱き付かれ、気を抜いていた俺は、簡単にベッドの上に倒れた。
「お願い、いなくならないで……」
俺の服を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながら、彼女は小さな擦れ声で言う。
こんな展開は全くの予想外だった俺は、鼻先をくすぐる甘い匂いに、ただ狼狽えることしかできなかった。
「ひぐっ……嫌だよ……」
「……ライム?」
名前を呼んでも、彼女はしゃくり上げるように泣いているばかりだ。
「俺、特殊生体なんだよ? ……怖くないの? 気持ち悪くないのか?」
叩かれたせいだろう。頬が片方だけ熱を帯びているのが分かる。しかし何を尋ねてもライムは無言で、俺の胸にしがみついていた。
「……。俺はどうしたらいい?」
彼女の細い肩に触れるのは躊躇われ、俺は彼女の髪を、そっと撫でた。
するとライムはようやく顔を上げて、「とりやえじゅ」と回らない舌で言い、鼻を啜った。それから一つ二つ咳をすると、ようやく落ち着いた様子で口を開いた。
「とりあえず……自殺なんかしたら、裸にして繁華街に転がすからね。ニップレスだけ付けて」
「何だそのキモい死体は!」
前は「レディース下着で町に転がす」だったのに、えらくグレードアップしている。
「黙って行方を眩ますようなことしたら、ないことないこと喚き立てて、指名手配するからね」
「ないことばっかりかよ」
「罪状は……顔面猥褻罪に大決定」
「が、顔面猥褻罪って」
ライムの容赦無い言葉に軽くショックを受けつつも、俺は彼女を自分の胸から引き離し、ベッドの上に身を起こした。
ライムはベッドの上に伏せったまま、涙に濡れた顔をベッドに押し付けている。
少しの間沈黙があって、不意にライムが言った。
「私、クレスが好き。前にも言ったよね。今の話を聞いても、その気持ちに変わりは無い」
唐突な彼女の言葉。月明かりの中、まるで水面に雫が落ちたかのように、胸の中へ波紋が広がっていく。それは鈍い痛みを伴っていた。
「は……おまえ、何言ってんだよ。だって、それって――俺はおまえの両親殺してるんだぞ!? おまえの仇は俺なんだ! そんな家族愛、もう持つ必要無いんだよ!」
「そんなのわかんない! クレスが父さんと母さんを殺したところなんて本当には見てないもん! っていうか家族愛って何よクレスのニブチン! それにね!?」
激昂した俺に、ライムはベッドに顔を押し付けたまま、負けじと声を張り上げた。
「事情がどうあれ、父さんも母さんも、クレスに生きていて欲しかったのは間違いないの。だって、そうじゃなきゃ変だもの。父さんと母さんは特殊生体駆除協会のエリートだったのよ? 例えクレスに襲われたって、やり返すのはきっと簡単だったハズでしょ」
「それでも、今の俺はもう特殊生体なんだ。血は白いし、痛みも感じない。殺戮衝動にも逆らえない。化け物なんだ!」
「でも、そうじゃなくなる方法はあるはずよ。六年前にクレスが特殊生体化したことが真実だとしたら、それからどうやってクレスは人間として過ごしていたの? ついこの前まで、クレスには特殊生体の面影も無かったんだから」
途端、ライムはハッとしたようにベッドから顔を上げた。そこには、もうグシャグシャの泣き顔は無い。挑むように俺を見つめてきた瞳の強さに、なぜだかわからないが、心臓が大きく跳ねた。
「記憶がおかしいのはクレスだけじゃない。六年前のレイヴン王国との戦争、私も知らないの」
ライムは身を起こし、確信に満ちた表情で言った。
「私達が見たものは全てじゃない。絶対的にパーツが足りないのよ。クレスが見た血塗れの少年クレスが、父さんと母さんの前でカプセルに入ってた光景のことだって、どの場面と繋がることなのか分からないもの。六年前に何か重大なことが起きたのは確かなんだろうけど」
「…………」
確かに彼女の言う通りだ。過去を繋ぐには、あまりに情報が少ない。しかしだからと言って、真実を求めるべく前向きになるなんて、できるはずがなかった。
黙っていると、ライムの手がそっと俺の頬に触れた。
「大丈夫よ。死ぬなんて言わないで」
「……ふざけんな」
言ったが、口調は弱々しい。ライムの特殊生体に対する憎しみは、普段の彼女からは想像も付かないほどに強いはずなのだ。怯え、震え、怒り、「死んでしまえ」と罵られた方がよっぽど楽だった。胸の奥を鋭い爪で何度も引っ掻かれるような痛みで、息が出来なくなりそうだった。
「おまえは父さんと母さんに愛されてたよ。研究のカモフラージュだったなんて、そんなデタラメは信じなくていいんだ」
精一杯にそう伝えた。両親に愛されていなかったなんて、そんなことでライムが苦しむ必要は無い。ディーナとアルテナが特殊生体を造っていたなんて、絶対にまやかしだ。俺がこうなった理由は、きっと他にある。
「俺が今特殊生体である事実は、過去がどうあろうと、過程が何であろうと、変わらないことだ。俺の存在が忌むべきものであることに違いは無い。だけど、義父さんと義母さんはおまえのことを愛してた」
しかしライムは首を横に振った。
「それでも、二人はもう私の傍にはいないの」