闇と交わす口付け 3
「クレス……?」
「ぁ……」
リダの前に風呂に入ったのか、結ばずに下ろされている髪から、柔らかくていい匂いがする。そう思った途端、彼女は突然俺に抱き着いてきた。
「クレス!」
俺の服を握り締め、小さく身を震わせながら胸に顔を埋めてくる。
「ライム……」
彼女の温もりを間近で感じたことで俺の決意はたちまちに揺らぎ、このまま特殊生体化のことを隠し通す方法を、必死に脳内で検索し始めてしまう。
あぁ。
俺の体は痛みを感じないはずなのに、胸の疼きがひどい。心臓が焼け焦げてしまいそうなくらいにヒリつく。
「無事で良かった……心配したんだからね」
息が苦しい。だって、俺はここへは帰ってはいけないのだ。
「ライム」
俺はライムの肩を掴み、自分の身体から彼女を引き剥がした。
「っ……?」
そうされる理由が分からなかったのだろう。ライムは驚いたように俺を見上げた。俺は必死に言い訳を探した。何も見つからなかった。
「いや、ほら、あれだ。とりあえず、部屋に入らないか?」
するとライムは悲しそうに目を伏せて、項垂れた。
「何も知らずにこうできるの、きっとこれで最後だもん」
「え?」
「ごめんね。……勝手だね」
ライムは言うと、今にも泣きそうな顔で部屋の中へと戻って行った。奥のベッドに、力無く腰を落とす。俺は少し躊躇いながらも部屋に足を踏み入れ、ドアを閉めた。
沈黙の帳。
暗黒の渦。
体の底から爪先まで、氷のように冷え切ってしまいそうだ。
「ねぇ」
先に沈黙を破ったのは、ライムだった。
「何があったの?」
泣き出しそうな声。俺はただ、ドアの前に立ち尽くしていた。
「私の知ってるクレスには、魔導力なんて無かった。しかも、今までで最低の顔してる」
「…………」
「隠さないで全部話して……お願いだから」
俺は小さく息を呑み、静かに目を閉じて――それから、ゆっくりと開いた。
足を一歩踏み出そうとすると、思った以上に自分の体が震えていることに気付いた。
「何から話せばいいかわからないけど」
それでも話さないわけにはいかないのだ。俺はベッドの傍へと歩いていった。
「全部、話すよ」
俺は言って、女王の守護者を鞘から引き抜いた。
「何するの……?」
ライムが不安気に尋ねてくるが、俺は黙って、右手の人差し指を刃の上に滑らせた。皮膚が薄っすらと裂けて、その奥から血が滲み出してくる。月光の下に浮かび上がるその色に、まだ俺ですら息を呑んでしまう。深く息を吐いて、開いた右手を彼女に見せた。
溢れた血液が、指先から手のひらへ伝い落ちていく。
「何で……」
大きく目を見開いた彼女の双眸が震えている。流れ出す指先の血の色は、月の光を弾かんばかりの白色をしている。
「今まではちゃんと赤い色……エルアント様と戦った時だって、血の色は赤かったじゃない!」
「俺にもよくわからないんだ」
俺は彼女から視線を逸らしてベッドに腰かけ、ライムと共に眠りについたはずの夜――ミドール城で闇に囚われた夜のことからここに来るまでのことを彼女に語った。
ミドールで取り込まれた闇の中にいた、リィナという謎の女。ライムを助けようと魔術を使ったこと。人の気配を感じないと言われてテイルに殺されかけたこと。自分が殺される光景を見せたくなくて、ライムに〈シフト〉をかけたこと。荒らされていた特殊生体駆除協会と、大量の特殊生体達。記憶に無いレイヴン王国との戦争。戦闘時に感じた快楽と、消失した痛覚。ジンの嘘と行方不明になっているハク王女に、王宮騎士フィラルディンの裏切り。テムングスとの戦闘中に再度闇に呑まれ、リィナに告げられた言葉。
最後に、ここ最近の眩暈と、それに伴って見ていた過去の映像。つまり……異形と化した俺がライムの両親を殺した時の光景。俺は全てをライムに伝えた。
「嘘でしょう……?」
最初に零れたライムの言葉は、いかにもな感じの、有り触れた台詞だった。彼女の双眸に、大きな涙の粒が浮かぶ。
「こんな嘘つかない」
答えると、涙の雫が床に大きな染みを作った。固く握られた拳が震えていた。次の瞬間、ライムは隣の部屋に聞こえそうな声で叫んだ。
「クレスが父さんと母さんを殺したなんて嘘よ! だって……だってそれじゃぁ、〈ナイトメア〉そのままじゃない! クレスが言ったこと全部、私が夢で見たそのままよ!」
「〈ナイトメア〉?」
「ミドールであの変な女に首を絞められた後、私は真っ暗な中に放り出されたの。辺りに強い魔力を感じたから、すぐに何かの魔術に取り込まれたことに気付いた。そしたら、父さん達が殺された時のことが、まるでその場で起こってるみたいに再生されて――必死で魔術を解こうとしたけど駄目で、気が付いたらここにいた。……ねぇ、だけど、クレス。私、そこでもっと恐ろしいことを聞いたの」
ライムはポロポロと涙を零しながら、縋るように俺に手を伸ばした。白い血の流れている俺の右手を強く握り、唇を噛み締める。
「クレスが王宮騎士に――エルアント様に殺された時。エルアント様が言ってたの。父さんと母さんは、特殊生体を造り出す研究をしているって」
「えっ?」
「クレスは捨て子なんかじゃなく、父さんと母さんに造られた……特殊生体で。私の存在は、それが世間にバレないようにするための、優しい家庭を装うための、カモフラージュみたいなものだって」
ライムの言葉に俺は目を見開き、息を呑んだ。
「魔導力の割に私が魔術を使えないのは、父さんが自分の力を超えないように、私が上手く魔術を使えないようにしたからだって」
ライムの体がガタガタと震え、次から次へと嗚咽混じりの涙が溢れ出してくる。一方で俺も、完全に思考停止していた。
「何だよ……それ。有り得ないだろ。〈ナイトメア〉の中で見たことだろ?」
「わかってるけど――きっとそれだけは違うの。それが私の正しい記憶なのよ!」
声を荒げるライムに、俺は当然ながら戸惑いを隠せない。
ディーナとアルテナが死んだ日の記憶を、俺だけでなくライムも塗り替えていたのか。……都合の悪い部分を、忘れるように。