裏切りと崩壊 10
…………。
そして、しんと静まり返る。辺りは真っ暗で、テイルもヴェネスも傍にいない。
「クスクス……」
嫌な笑い声。俺はこの声を知っている。
振り返ると、そこには夢に出てくる女が立っていた。
緑がかった黒髪に、暗黒が秘められたような深緑の双眸。血のように赤い口唇と、石像のように白い肌。リダやライムとは異なる雰囲気の、無生物的な美しさ。
「おまえは……」
小さく呟いて、俺はふと、自分の呼吸がうまくいっていないことに気付いた。唇を行き来する空気はヒューヒューと浅い音を立てて、おまけに心臓の鼓動が破れそうなくらいに波立っている。全身に冷汗が滲み出し、なぜ感じているのかもわからない不安と恐怖に、押し潰されそうだった。
「ふふっ……何をそんなに怖がっているの?」
俺の心情を見透かしたのか、女は妖艶な微笑みを浮かべた。
「あなたは本来こっち側でしょう? 恐れることはないわ」
「こっち側って……――何なんだよ、おまえは。俺の夢に出てきて、ワケわかんないこと言ってたと思ったら! 起きてる時までおまえの相手してられるほど、俺は暇じゃねぇっ!」
精一杯の虚勢で叫んだが、女は妖しい微笑みを崩さない。
「くそっ、こんな闇!」
俺はミドールで闇の中に閉じ込められた時の感覚を思い出し、魔力を練り上げた。
造り上げるイメージは、闇を形成しているであろう魔力を掻き消す力――防御系統中位魔術〈イクスティン〉だ。
「フロスト・ディーナ――」
「……歪み」
しかし呪文を唱えかけたところで、女が口を開いた。
「何?」
眉を寄せると、女は赤い唇の両端をゆっくりと吊り上げた。
「消された過去、消された罪、消された穢れ――歪んだ記憶」
闇の中に彼女の声が響く。俺は小さく息を呑んだ。
「何が言いたい」
「繋がらないんじゃないの? あなたの過去は」
「俺の過去……?」
記憶に無い光景。習得したはずの無い魔術。覚えていない戦争。そう、俺の過去の記憶はひどく曖昧だ。今まで気付きもしなかったことだが。
「自分の左手を御覧なさい?」
言われて、俺は左手を持ち上げ、視線を移した。
「!?」
掌の半ばほどまで、真っ黒だ。硬化した皮膚が黒く変色し、亀裂のような筋が手首の方まで伸びている。感覚は右手と変わらないが、俺は既に痛覚を失っており、そうアテにできる目安ではない。
「消された過去、消された罪、消された穢れ、歪んだ記憶」
女は、淡々とした口調でもう一度繰り返した。
「教えてあげる。貴方の過去と、罪と、穢れと、それから本当の記憶を」
彼女の言葉の一つ一つに、全身の血液が大きく波を打つ。耳を貸すなと心が警告を鳴らすが、彼女の言葉が頭から離れない。それどころか、言葉の一片一片が体中に深く根を張り、全身に食い込んでくるかのようだ。
「私はリィナ。すぐに本当の貴方を思い出させてあげる」
「……っ」
闇に魂を吸われるかのように気が遠くなりかけた、その時だった。
「クレス、聞いてはいけません! それは人間じゃない!」
鋭いテイルの声が耳を貫き、俺はハッと我に返った。
ヒュンッ!
不意に視界の隅を駆け抜けた白銀。鋭い風の音が闇を引き裂き、俺の傍らにテイルが現れた。
「テイル!?」
テイルは険しい表情で、指先をリィナの方へと向けていた。
「彼女、クレスの知り合いじゃないですよね?」
「まさか。リィナなんて知らないよ。人間じゃないってどういうことだ?」
「人間の持つ氣を感じられないんですよ。クレスのような感じとも違う。まるで爆発する感情の塊のような――貴女、一体何者ですか?」
すると女は小さく笑って、そっと自分の首筋に触れた。
「変わった特技を持ってるのね。でも……」
バキンッ!
「っ!?」
不意に奇妙な音が響いたかと思うと、テイルの人差し指は有り得ない方向へと折れ曲がっていた。テイルは短い苦鳴を漏らし、顔を歪める。
「あははっ、痛い?」
リィナは楽しげな笑い声を上げ、自分の人差し指をくるくると動かした。
「ほら、もっとあげる」
シュパンッ!
「!?」
テイルの白磁の頬から弾け飛ぶ鮮血。溢れ出る血は滝のように流れて、彼の衣服を汚していく。彼から切り取られた一房の黒髪が闇の中へと溶け行き、テイルは目を見開いて、自分の頬に触れる。
「そんな……」
手の平にベッタリと付着した自分の血を見て、テイルは愕然と呟いた。
リィナはその反応に満足したようにニッコリと笑った。
「貴方に興味は無いわ。引っ込んでてくれる?」
リィナの笑みは嘲笑へと変わり、彼女が蝿を振り払うような動作をした刹那、テイルの喉から絶叫が発せられた。