裏切りと崩壊 6
「うっ……」
途端に吐き気が込み上げて来て、俺は壁に手を付いた。部屋中に溢れている凄まじい臭気に、堪らず気が遠くなりかけた。
「クレス、ここは僕が調べておきます。部屋の外へ――」
「いや」
俺の様子に気付いたテイルが申し出てくれたが、俺は彼の言葉を遮り、壁から離れた。
「俺も一緒に調べる」
「でも……」
心配そうな視線を俺に向けるテイルを横目に、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。
「こんなワケわかんない状況――人から聞いた内容じゃ、信じるも何もなくなりそうだ」
「そう……。でも、無理はしないでくださいね」
「あぁ。ありがとう」
破れて散らばっている血塗れの衣服には、様々な色やデザインが混ざっている。複数の人間が、この惨状に巻き込まれたに違いなかった。しかしあちこちに散乱している肉片は細かく、どれがどの部位だったのか、まるで検討も付かない。
「これ、協会の人達ですよね……」
「多分な」
頷きながら、俺は血溜まりの中に沈んでいるノートを見つけた。テイルはまだじっとりと湿っているそれを拾い上げると、破らないように丁寧にページを開いた。ページのほとんどが血で汚れてしまっていたが、白く残された余白には、書き殴ったような文が記されていた。
『テイル様はフィラルディン様の裏切りを知っているのだろうか。もう逃げ切れそうにない。仲間達は次々と特殊生体に姿を変え、残っているのは私と数名の協会員だけ。人が特殊生体になるとは、一体どういうことなのか。
協会員曰く、先程の轟音は防護壁が下りた音だそうだ。この部屋に扉以外の脱出口は無く、私達はもう死を待つしかない。
協会と王国に何が起こっているのだろう。フィラルディン様はなぜこんなことを。あの黒い気配は何なのだ。今回の状況は、六年前にレイヴンが滅んだ時とよく似ている気がする。
恐らく私は死ぬだろう。まさかテイル様までもが、こうなると知って私達をここへ送ったのではないことを祈る』
文はそこで終わり、あとは白紙に血飛沫が舞うばかりだった。この部屋にいた騎士隊の誰かが、死ぬ前に記したのだろう。
「フィラルディン様の裏切りって……どういうことなんだ? 王宮騎士って、テイルとリダしか生き残ってないはずだろ? 裏切った張本人が死んでるって変じゃないか?」
「わかりません……」
テイルは呟くように言って、唇を噛んだ。押し隠そうとしているようだが、彼の横顔には焦燥と混乱が滲んでいた。
そんなテイルに、俺は遠慮がちながらも尋ねた。
「……なぁ、ここに書いてある『六年前にレイヴンが滅んだ』っていうのは、一体何のことなんだ?」
「えっ?」
テイルが秀麗な眉を寄せ、怪訝そうに俺を見る。
「ミドールとレイヴンの戦争のこと、覚えてないんですか?」
「あぁ、いや……」
レイヴン王国。イリア草原を抜け、レイヴンの森を越えた先に、かつてミドール王国と友好関係を築いていた国があった。だがレイヴン王国は六年前に国力の疲弊から滅亡し、ミドールに吸収されている。
自分の知っている限りを伝えると、テイルはますます怪訝そうな顔になった。
「確かにレイヴンとミドールは友好関係にありましたが、六年前、ミドール王国軍がレイヴン国民を攫って売買・殺害していると訴えて、レイヴンがミドールに攻め込んで来たんです。もちろんミドール王国軍がレイヴンの国民を誘拐しているなんて、根も葉もない話だったんですが……。戦の結果はミドールの大勝でしたが、その後レイヴンは国力の弱ったところになぜか特殊生体の大群に襲われ、滅亡してしまったんです。……本当に知らないんですか?」
説明しながら、テイルは怪訝を通り越して困惑顔。それだけミドール王国民にとっては大事件で、知っていて当然のことだったのだろう。しかし俺は曖昧に笑って肩を竦めることしかできなかった。
「あの時の特殊生体の大量発生は、すぐに沈静化したんですけどね。原因はわからず仕舞いですが」
テイルがそう言った時、不意に彼の双眸が鋭く光った。
「不覚でしたね」
「えっ?」
キキキキキキィンッ!
突如、俺の正面で連続した金属音が鳴り響く。同時に俺の視界を覆った黒は、テイルの身体だ。襲ってきた何かから、俺を庇ってくれたらしい。
「ぐっ……」
だが、同時にテイルの苦しげな声も零れた。濡れた音がして、血塗れの床に新たな血の雫が落ちる。
「テイル!?」
「大丈夫、掠っただけです」
テイルの左上腕は、鋭い爪で引っ掻かれたように服が破けていた。そこからポタポタと血が伝い落ちている。
「ギャォオオオオオオオオオオオッ!」
突然の後ろからの絶叫。
驚いて振り返ると、鋭い鍵爪の付いた手足と、人の肌など触れるだけで裂けてしまいそうな剛毛に覆われた白い胴体に、赤い顔面をした獣が、鋭い牙を剥き出しにしていた。