紅い舞踏会 9
俺は明かりを頼りに縁に手を付き、何とかコンクリートの上に這い上がった。そこでも何度か咳込んで、喉の奥に詰まっていたものを吐き出す。
「ひどい格好ね、クレス」
ようやっと立ち上がって体中のスライムを払い落していると、何やら綺麗な格好のままのライムが、面白そうに口元を歪めていた。
「あ、おまっ! 何で落ちてないんだよ!?」
「クレスが落ちた時に変な音がしたから、〈フライ〉を使ったのよ」
「そうか。……――いや、大丈夫か?」
「何が?」
首を傾げたライムに、俺は「何でもない」と言って、小さく笑った。魔術が使える程度には気分が落ち着いたことに安堵したなんて、口が裂けても言わない。
すると、美女が先に歩を進めながら俺達を振り返った。
「ここから地下を進みます。絶対に僕から離れないで下さいね」
「え、僕?」
自然に出てきた一人称に困惑すると、彼女はおかしそうに笑った。
「僕はテイル・クツァーシュラ。よく間違えられますが、男ですよ、これでも」
「……え?」
咄嗟に返すべき言葉が見当たらず、俺は目を見開き、硬直した。ライムが「ぶっ」と噴き出して爆笑する声を聞きながら、テイルを凝視する。
「こうすれば見覚えがあると思うんですけど――」
言って、テイルは長い髪を首の後ろへ束ねて見せた。確かに見たことがある。
「う、嘘……王宮騎士の?」
「えぇ。ミドール王国王宮騎士のテイルです」
確かに、女性にしては声が少し低いかな、とか、随分胸が小さい、というより厚いな、とも感じた。それでも、それらの疑惑を吹き飛ばしてしまうくらい、超ストライクゾーンの美人に思えたのだ。
……思わず涙が零れそうになった。
凹んでいる俺に、ライムが笑い過ぎで滲んだらしい目下の涙を拭いながら口を開く。
「私はライム・クライス。それで――その馬鹿がクレス。さっきは助けてくれてありがとうございました」
「いえ、気にしないでください。さっきの地震のせいで通路が塞がれてしまって――外に出た時にたまたま見つけただけですから」
彼はニッコリと笑うと、スライムの海の反対側に続く真っ暗な道を〈ブライト〉で照らし、「行きましょう」と俺達を促した。ライムはまだニヤニヤしている。
「おいライム、いつまで笑ってんだよ。おまえだって気付いてなかっただろうが」
「そうだけど、男だってのはわかってたわよ」
「なっ……!」
おかしそうに笑うライムに、俺は何も言い返せない。
電球一つない壁は冷たいコンクリートでできていて、それが前方の暗闇に溶けてしまうまで、真っ直ぐに続いていた。マンホールの先には水路があるとばかり思っていたのに、水が流れている気配は無い。いかにも何か出そうな雰囲気漂う通路に、三人分の足音が響く。
歩きながら、ライムが口を開いた。
「テイル様……これ、一体どこへ続いてるんですか?」
「今はミドール城に向かっています。――ここはミドール全域を繋いでいる地下通路で、さっきのマンホールのように、特定の場所から出入りができるようになっています。ただ通路には大量の罠が仕掛けられているので、僕と逸れないようにしてくださいね」
「罠って……さっきの、スライムみたいな?」
尋ねたライムに、テイルは笑いながら首を横に振った。
「あれは子どものお遊び程度です。この先、古典的なタライの類から殺人的な刃物まで。何でも揃っていますから気を付けてください」
軽い口調で怖いことを口走ったテイル。だが、彼は不意に迸った風切り音に上半身を逸らしながらピタリと足を止めた。左手で自分の右手に触れながら、じっと正面の暗闇を睨んでいる。
「どうしたんですか?」
足を止めたテイルを不審に思ったのか、ライムが様子を窺おうと身を乗り出そうとした。刹那にテイルが素早く手を伸ばし、彼女を自分の方へ引き寄せる。
「!?」
ヒュォッ!
その彼の後ろを、何か細長い物が駆け抜けていく。テイルはゆっくりと腕の力を緩め、ライムを解放した。
「引っ張ってごめんなさい。怪我はありませんか?」
優しい声で尋ねられたライムは、微かに頬を赤らめて首を横に振った。
「えっ、えぇ。大丈夫、ありがとう。……でも、一体何が?」
「矢だ」
テイルに代わって俺が答えると、ライムは不思議そうに首を傾げた。
「何が嫌なの?」
「嫌じゃねぇよ、矢だ。弓矢の矢。こんなところでおまえの中途半端なボケは期待してないんだよっ」
「なっ……ボケって何よ! テイルが男だと分かった途端に態度豹変して。あんたじゃ、例えテイルが女でも、お付き合いなんてできるワケ無いでしょーが」
「どういう意味だよ、おまえ失礼だぞ! それが義兄に言う台詞か!?」
「はぁ? あんたのこと『お兄ちゃん』なんて、言ったことも思ったことも無いわよ。ってゆーか、クレスのタイプは優しくておっとりした色白貧乳美人だったのね」
「貧乳って言うな! 俺はどちらかと言えば巨乳の方が好き――って何言わせてんだおまえ! 野蛮なおまえを毎日見てたら、おしとやかな女性がタイプになりもするわ!」
「こんなところで巨乳好きなんてカミングアウトしな――」
ライムが言いかけた時だった。俺は彼女の背後に、不穏な気配を見た。
「ぉ、おい、ライム。後ろ、後ろ」
「え?」
そこには、天女の微笑みを浮かべて拳の骨を鳴らしている、世にも恐ろしいテイルの姿があった。彼はニッコリと笑みを深めたが、俺達を見る眼差しは、笑顔どころか怒髪天である。
「お二人とも、今がどんな状況か分かってます? さっきから何回声掛けたと思ってるんですか。一回死んでみますか?」
「あはは、すみません。どうも俺達、お互いに緊張感は――」
「緊張感は母親のお腹に置き忘れて来ただなんて冗談吐いたら、ぶっ殺しますよ?」
下手を踏んだら、本気で殺されそうだ。俺達は、「もう無駄話しない」という意思を込めて、手で口を塞ぐ。テイルは目元の怒りを少し収めて、改めて前方を見遣った。
「クレスが言った通り、さっきのは壁から噴出された矢です。この先五十メートル程、左右の壁から矢が飛んできます。青い鏃には毒が塗ってありますから、十分に気を付けてください」
「そんな無茶な! それに、毒って……」
テイルが言うと、不意に、ライムが「ぁっ」と小さく声を上げた。テイルの右手を取り、甲を光の下に晒す。細い傷口があり、血が零れていた。
「じゃ、これって……」
ライムに心配そうな顔で見上げられると、彼は小さく微笑んだ。
「これは大丈夫。……とにかく僕がサポートしますから、全力で走り抜けてください」
俺達は暗闇に消えている真っ直ぐな道に息を呑み、小さく頷いた。