いつかの日 4
「ライム……」
やっとのことで小さく呟いた俺に、しかしライムは突如拳を振り上げた。そうかと思うと、目にも留まらぬ速さで、俺の左頬に右ストレートが叩き込まれた。
「ぶっ!?」
目の前に星が飛び、何の構えも無くよろめいた俺を、彼女はそのまま床へと押し倒した。
「ぐあっ!?」
「馬鹿クレス!」
彼女は俺の胸に顔を埋めて叫ぶと、あとは声を上げてわんわん泣き始めた。
「お、おい……ライム」
どうしていいのかわからず、俺は助けを求めてヴェネスを見上げた。すると彼は悪戯っぽく眉を上げると、素知らぬ顔でどこかに電話をかけ始めた。電話口で何を話しているのかは、ライムの泣き声で聞こえなかった。
「ごめん……遅くなった」
そっとライムの身体に腕を回すと、懐かしいほどの甘い香りと、微かな消毒液のにおいがした。しばらく黙って抱き締めていると、ライムの泣き声が収まった頃に、ヴェネスがパンパンと手を鳴らした。
「はいはい。ライム、黒のパンツが見えてんぞ。その辺にしてくれ。おまえら、ここに一人、どうやら女にフラれたらしい可哀想な奴がいるってわかってるか?」
ヴェネスに言われて、ライムはグシャグシャの顔を両手で擦りながら、慌てたように立ち上がった。そして申し訳無さそうにヴェネスに頭を下げる。
「あの、さっきは期待させるようなこと言ったのに、ごめんね……。でも、気持ちはとても嬉しい。ありがとう」
「あーっ、何か惨めになるからそういう顔するな!」
ヴェネスは言うと、床から起き上がろうとしていた俺に顔を近付けた。
「言っとくけど、五年のブランクはデカいぞ。俺は諦めないから、目ェ開けたくらいで勝ったと思うなよ」
「うっ……肝に銘じておく」
差し出された彼の手を借りて立ち上がると、扉がノックの音を立てた。
「あぁ、入って。さっき呼んだばっかりなのに、こいつらも早いな」
扉が開かれると、そこにはヴェネスよりも簡素な軍服に白衣を羽織ったテイルと、ゆったりした服で大きなお腹を抱えているリダがいた。
「えっ……えぇ!?」
もうどこから突っ込んでいいのかわからず、俺は殴られた頬がズキズキするのも忘れて二人を凝視した。そんな俺に、ヴェネスがおかしそうに笑う。
「あの二人のじれったさといったら、半端無かったぞ。去年ようやく結婚したんだ」
「テイルの奥歯を犠牲にしてね」
ライムがニヤニヤしながら付け足すと、テイルが「ぐっ」と小さく呻いて、顔を耳まで赤くした。
「ライム、その話は――」
「あのね、あれからしばらくして、リダが改めてテイルに告白したんだけど、テイルはばっさり振ったのね」
ライムの言葉に、ヴェネスが続けた。
「リダがテイルを好いてるのは当時周知の事実だったんだけど、まぁ、こんな美女に誰も手を出さなかったのはテイルがいたからなわけだ。でもリダがテイルに振られた後、『もう別の男に目を向ける』って言ったのがその日のうちに広まって、翌日には三人の青年と薔薇の花束がリダの前に並んだ」
「そしたら、それを見たテイルがいきなり足元のタンポポ引き千切って、リダにプロポーズしたの。自分で振った相手が他の男のものになると思った途端に求婚するって最低でしょ? しかも野草とか有り得ない」
口々に語るライムとヴェネス。テイルは顔を真っ赤にしながら二人を止めようとするが、もちろん無駄。遂にはリダまで口を開いた。
「腹が立ったから、返事の代わりに顔面に右ストレートをぶち込んだんだ。下顎骨折と奥歯二本で済んだんだから、感謝して欲しいくらいだ」
「うわぁ……」
「私より容赦ないわよね。さすがリダって感じ」
現場を想像して背筋を寒くしていると、ライムがクスクスと笑ってそう言った。
「ちなみにこれも周知されて、おかげで私は鬼嫁扱いだ」
リダは不服そうに口を尖らせたが、「それは間違ってないんじゃないか」とは口が裂けても言えなかった。
しかし二人が生きていたことだけでも驚きなのに、結婚して妊娠までしているとは……何やら二人とも、見たことが無いほど幸せそうな顔をしているし。
ひとしきりみんなで笑った後、リダは俺に視線を向け、申し訳無さそうに目を伏せた。
「おまえに全部背負わせてしまって、すまなかったな。その上おまえの目覚めを待たないまま、私達だけ先に進んでしまった」
「えっ、そんなの謝らないでくれよ。そこは別に気にするところじゃない。それに俺、てっきりリダもテイルも死んだものだと思ってたんだ。……二人が無事で、本当によかった」
言うと、ヴェネスが同意するように頷いた。
「確かに、俺もあの時はおまえら死んでるのかと思った。二人して血塗れでぶっ倒れてんだもん」
「僕も自分は死んだものだと思っていましたが――こうしてしぶとく生き延びたのは、きっとライムに引っ叩かれていたおかげですね」
ということは、俺がリィナを取り込んだ後、二人はメロヴィスとヴェネスに助けられたのだろうか。とにかく、俺は二人に心からの笑みを向けた。
「おめでとう。リダ、テイル」
「ありがとうございます。……クレスも、無事で良かった。またこうして話ができて嬉しいです」
テイルは穏やかに笑い、俺を引き寄せて強く抱き締めてくれた。彼もライムと同じく、薄っすらと消毒液のにおいがした。
「なぁ、ところで――みんなのその格好、何なんだ? ライムに至ってはワケわからんけど、ヴェネスとテイルの軍服はミドールのでもジルバのでも無いし……大体、どうして部屋に見張りの兵士なんているんだ?」
尋ねると、ライムが腰に手を当てて口を尖らせた。
「ワケわからんとは何よ。可愛いでしょ? ヴェネスにおねだりして許可出してもらったんだから」
「ヴェネスにおねだりって……?」
困惑した俺に、リダが言った。
「グレイアス共和国。……特殊生体駆除協会が隠蔽していた情報を公開し、あの惨劇――今はアダム紛争って呼ばれてる――の生き残りを集めて、ミドール王国の跡地に魔術の使用を最小限とした国家を興したんだ。と言ってもほんの一年前に国として旗を上げたばかりで、領土もミドールの城下町だった部分のみの小国家だ」
「グレイアスってどっかで聞いたな……」
呟いて少しの間考え込んだが、しばらくして思い至り、俺は再度ヴェネスを凝視した。確かこいつの名前、ヴェネス・グレイアスだった気がする。
「まさか……」
驚きのあまり開いた口が塞がらない俺に、ヴェネスはニヤッと笑った。
「そのまさか。俺が初代の国家元首」
「はぁぁああっ!?」