いつかの日 3
俺は黙り込み、唇を噛んだ。あれほどメロヴィスを慕っていたヴェネスは、二度と戻らぬ彼の姿に、膝を折ることはないのだろうか。
すると俺の心中を察したのか、メロヴィスが自信たっぷりに言った。
「ヴェネを侮ってもらっては困る。あの子は、今の彼が持つ全てを無下にすることがどういうことか、きちんとわかるはずだ。例え私がいなくてもね」
「メロヴィス様……」
「どうせ眠りに就くことが敵わないなら、ここで新たな責任を果たすというのも悪くない。まぁ、もし君が出て行こうとした時に彼女が暴れるなら、別の案を考えないといけないかもしれないが。そうでなければ、何の問題も無い。私も一人きりで彷徨うより、君を見守っていた方が楽しそうだ」
「……すみません」
「謝る事は無いよ」
「……俺、戻ります。ありがとうございます」
俺はメロヴィスに深々と頭を下げると、俺は花畑をぐるりと見回し、天を仰いだ。咲き誇る花々が甘い香りを風に巻き上げ、大きく息を吸い込んだ。
そっと目を閉じると、メロヴィスがリィナに優しく囁いた声がした。
――大丈夫、ここにいる。
眩い光の渦と暗闇が交互に視界を駆け巡り、最後にまた暗闇が戻ってきた。頭上から、誰かの声が聞こえる。
「……――あいつ、泣いたぞ。おまえがいなくなってからもずっと平気な顔で笑ってたくせに、さっきいきなり俺の前で泣きやがった。次の誕生日までにおまえが目を覚まさなかったら、俺の嫁になるってよ。おまえ、それでいいのか?」
歯を食い縛るような、低く震えた声だった。
「いい加減に目を覚ませよ、クレス」
ゆっくりと開いた視界の先に、オレンジ色の暖かな炎があった。見覚えの無い質素なシャンデリアの灯りだった。
視線を動かすと、唇を噛んでいたヴェネスの、驚愕に見開かれた瞳と目が合った。
「起きた……」
ヴェネスは呆然と呟いた。彼は何やら頭の良さそうな眼鏡をかけていて、前のものとは全く異なるデザインの、立派な軍服を着ていた。口を半開きにした間抜け面だが、眼鏡と服のせいか、以前よりも雰囲気が堂々として落ち着いたように思える。手には万年筆と書類の束を持っていて、それがバサバサと音を立てて床へ落ちていく。
「起きた!」
彼は叫んで、軽いパニックにでも陥ったのか、なぜかその場で一回転した。何が何だかわからず身を起こした俺は、大型犬よろしく飛び付いてきた彼の抱擁を受けながら、目をパチパチさせる。どうやら俺はベッドの上にいるようだ。
「ヴェネス……おまえ、その格好は一体?」
「あはは! おまえ寝すぎなんだよ! もう目覚めないんじゃないかって、無茶苦茶心配したぞ! リィナは無事に制御できたのか?」
「それが……メロヴィス様が助けてくれたんだ」
ヴェネスの異様なテンションに戸惑いながらそう言うと、ヴェネスは不思議そうに首を傾げた。
「メロヴィス……誰だ、それ?」
「……え?」
俺は愕然と目を見開き、ベッドから飛び起きて立ち上がりながら、ヴェネスを凝視した。
「ちょっ……と、待てよ。何で……おまえ、メロヴィス様のこと覚えてないのか!?」
「え、あ、いや……懐かしい感じがするのは、わかる。でも思い出せない」
ヴェネスは困惑した様子で、眉間に皺を寄せた。
「俺に深く関わった人なんだな……。その人、もしかして混沌系統魔術に絡んでないか?」
尋ねられ、俺は唇を噛みながら頷いた。ヴェネスは黙って目を閉じると、長い息を吐いた。
「本当に、魔術なんてロクなことが起こらないな。特に混沌系統なんてクソなことばっかりだ」
彼は呟き、頭を抱えて髪をグシャリと握り潰した。当然信じられず、俺は首を横に振った。
「おい、嘘だろ? 本当に覚えてないのか? おまえの人生、そっくり引き受けて変えてくれた人だぞ?」
「あぁ……。でもきっと、ここに写ってた人なんだと思う」
ヴェネスは言って、懐から一枚の写真を取り出した。そこには幼い笑みを浮かべているヴェネスが写っていたが、彼の位置は不自然に右側に寄っており、左側に妙な空間があった。
「誰かがずっと傍にいてくれた気がするのに、顔も名前も思い出せないんだ。……聞かせてくれ、その人のこと」
ヴェネスはそう言って眼鏡を外したが、何かに思い至ったように「いや……」と呟くと、眼鏡を胸ポケットに引っ掛けて、ニッコリと笑った。
「その前にみんなに知らせないと。何せ五年振りだ。おまえは二年って言ってたのに、本当に何の根拠も無かったんだな」
「五年!?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げ、改めてヴェネスをまじまじと見つめた。そうか、ヴェネスが大人びて見えたのはそのせいだったのか……。その視線を何と勘違いしたのか、彼は肩を竦めた。
「心配するな。おまえに惚れたままかどうかは別として、ライムは元気だよ。今呼んでやるから――」
バァンッ!
「お邪魔します!」
突然部屋の扉が勢い良く開いたかと思うと、長い水色の髪をした女が飛び込んできた。彼女の着ているものは、上は軍服のようだったが、下は丈の短いスカートだった。
「おぉ、早っ。まだ見習いのくせに、感じ取ったのか」
ヴェネスは腕を組みながらよくわからないことを言って、クツクツと笑った。ライムは俺のよく知る大きな蒼い目に、少し大人びた面立ちをして、涙を一杯に溜めていた。
その姿が幻なのではないかと思うほど、込み上げるたくさんの感情に身体が震え、息ができなくなった。




