いつかの日 2
驚いてメロヴィスを凝視した俺の前で、リィナの影の動きが止まっていた。メロヴィスは続けた。
「確かにクレスは、アルベルトが混沌系統魔術で作り出した特殊生体だ。でも、君はクレスにアルベルトを感じて、彼に近付いたわけではないね?」
リィナは応えず、沈黙を守っていた。まぁ、彼女から言葉が返って来たことなど、これまで一度も無かったが。
「特殊生体駆除協会の君のいた場所で、いくつか資料を見つけた。一つには、アルベルトに混沌系統最高位魔術〈アダム〉を発動させてクレスを生みだした旨と、それによって彼が亡くなったことが記されていた。もう一つは、クレスについての研究内容がまとめられていた。その他に、ライムとヴェネスのこと。それら以外にも同様の形式で保存されている資料は大量にあったが、保管場所はあの場所とはかけ離れていた。……クレス達の資料は、君が持ち出したんだね?」
「それって――」
困惑している俺に、メロヴィスが確かめるように尋ねた。
「クレスのものではない記憶が蘇った時、アルベルトの名前、わからなかっただろう?」
確かに、最初はリィナが誰かを呼んでいるのはわかっても、その誰かの名前はわからなかった。頷くと、メロヴィスは「やっぱりそうか」と呟いた。
「リィナはアルベルトを覚えていないから、クレスに干渉して見せた過去の光景の中に、アルベルトの名は出て来なかったんだ。クレスはアルベルトを取り込んでいるし、そのせいでアルベルトの記憶もそれなりに持っているようだから、クレスに自分を疑わせるには十分だったようだが」
「つまり……アルベルトの名前が出て来ない記憶は、俺やアルベルトのものじゃなくて、リィナの記憶だったってことですか?」
「あぁ。……リィナは憎悪に身を焼かれながら、きっと記憶の中で自分を助けてくれた誰かの――アルベルトの救いを手に入れようとしていたのかもしれないね」
「じゃぁ……俺の中にいたアルベルトは、何だってあんなに凶暴だったんです?」
「そりゃあ、リィナを敵視していたクレスから、リィナを救うアルベルトなんて出てくるわけないだろう。リィナが干渉を仕掛けても、彼女は人に優しくすることなんて知らないだろうから、自分と同じものしかイメージできない。クレスの中にいたのは、言わば二人目のリィナだ」
メロヴィスは言うと、球体から手を離し、彼女に恭しく頭を垂れた。
「ジルバ公国騎士、メロヴィス・C・アークレイル。君にとって名も知らぬ男に代わり、君の呼びかけに応えようと思う。……もうわかっているだろう? 王妃と同じ様にクレスの魂を奪い取っても、また滅びるだけだ」
ざわめいていた空気が僅かに緩み、リィナが女の姿へ戻った。どうやらメロヴィスの言葉が通じているらしいことに驚き、俺は口を半開きにして彼らを見つめていた。
「大丈夫。クレスは少々頼り無いが、優しく誠実な男だ。彼がいなくなったからといって、この場があの冷たい地下道のように変貌することなど絶対に無い。でも、クレスは私達と違って生きているんだ。ここから出て心を揺らすことをしなければ、この世界もそう長くは維持できなくなってしまうだろう。……大丈夫、私が傍にいるよ」
メロヴィスは俺の方を振り向くと、優しい表情で僅かに首を傾げた。
「外で色々あったもので、来るのが遅くなってすまなかった。何か異変があればすぐに知らせるから、クレスは戻りなさい」
「でも……あれだけのことをしたリィナが、アルベルトと全く関係の無いメロヴィス様が傍にいるだけでいいなんて、そんな都合の良い話――」
言いかけて、俺はハッとして目を見開いた。
「メロヴィス様……そういえばさっき、何て? 『クレスは私達と違って生きてる』ってどういう意味なんですか!?」
すると、メロヴィスは穏やかに笑う。
「あぁ、私の肉体と魂は朽ちた。ヴェネは混沌系統魔術を使うことを望んだが、それを拒んだ私を受け入れてくれたよ。肉体の方は、特殊生体化する前に自分でケリを付けてきた。それでも私の意識が消えないものだから、最期に何かできないかと思ってね。試しに君のところへ訪れてみた」
メロヴィスはそう言って、目の高さに自分の右手を持ち上げた。ふわりと柔らかな風が吹いて、その指先からゆっくりと、彼の手が俺の内部に張り巡らせた〈フォートレスチェーン〉と同じ姿になっていく。
「こうして君と同じモノになれば、君の代わりを務められるだろう。今リィナを抑えているクレスだって、本当はアルベルトじゃないんだから」
「何で……そんなことが……」
「テイルと同様、私は混沌系統に適した性質を持っているんだろうね。例えば、混沌系統で創られたどんな肉体や魂にも適応できるとか」
愕然としている俺の前で、メロヴィスは変化した右手でリィナを閉じ込めた球体に触れた。鎖の模様を浮かべた光の中に、容易くメロヴィスの右手が溶け込んだ。
「混沌系統魔術で何度肉体を作り変え、何度偽物の魂を植え付けても、私は私であることを忘れなかった。特殊生体が魂の何たるかを憶えている為に魂を欲し殺戮を繰り返す存在なら、今の私は特殊生体ですらない。……もしかしたら人ならざることを繰り返し過ぎて、私は生命として歪んだ存在になってしまったのかもしれないな」
そう言ったメロヴィスは、なぜか少し寂しそうだった。しかしすぐにその表情は優しい笑顔に変わり、彼の全身に、〈フォートレスチェーン〉の白銀の鎖が浮かび上がった。
「そのまま、俺と同化する気なんですか……?」
「この球体の一区画だけ、ちょっと借りるよ。決して君を乗っ取ろうなんて、そんなことはさせない。彼女は君の中にいたアルベルトのように――ただの思いの欠片となって、魂の渇望から逃れることができるはずなのだから」
「でも、メロヴィス様……」
「クレス、一応言っておくと、君も歪んだ生命の一人だ。いつかそのツケを払うことにはなるだろう。でも……だからといってここを去ることを後ろめたく思う必要は無い。生きたいと思うのは、生まれてきた以上、当然のことなのだから」
「…………」
「ヴェネによろしく伝えてくれ」
俺は躊躇ったが、この何の刺激も無い静かな場所から出て行ってもいいと――ライムのところに行っていいのだと言われると、堪らなかった。
「どうして――……。ヴェネスから聞きました。自分の人生全部投げ売って、ヴェネスを助けたって。どうしてそんなことばかりできるんですか?」
メロヴィスは少し驚いたように目を見開いた後、「そうだなぁ」と空を仰いだ。
「私の弟のことは、ヴェネから聞いたか?」
「弟?」
「あぁ。とても仲が良かったんだけど、長く患っていた病で死んでしまった。私の家は所謂名ばかり貴族ってやつでね。治療費を出せなかったんだ。……私が軍で出世して治療に必要な金を貯められた頃には、もう手の施しようがない状態になってしまった。弟を亡くしてから、私はまるで抜け殻のように過ごしていたんだが――ある日、路地裏で暴行を受けているヴェネを見つけた。彼と目が合った瞬間、弟に『俺の代わりに彼を救え』って言われたような気分になった。だから死んだ弟の為に貯めていた治療費で、ヴェネを引き取った。色々あったから、ヴェネは私にかなりの負い目を感じていたようだけど――ヴェネの存在は、何より私の救いだった」
メロヴィスは俺に視線を戻し、穏やかに微笑んだ。
「ヴェネの人生を変えることになった責任は果たそうと思い、今までやってきた。でもあいつはもう私がいなくても、惑わされることなく自分の足でしっかりと歩けるだろう」