いつかの日 1
【 終・いつかの日 】
――変わらぬ青空を見上げ、ふと、近付いてきた足音に気付く。
「ここはいいところだね」
振り返ると、彼はそう言って優しく微笑んだ。思わぬ人の来訪に、俺は目を丸くする。
「メロヴィス様!? えっ、え? どうして?」
混乱する俺に、メロヴィスはおかしそうに笑う。彼の姿は、以前とほとんど変わらないように思えた。
「久し振りだね。元気そうで安心したよ」
「いや、あの、元気は元気なんですけど……何でここに?」
「来ちゃいけない?」
「そんなことはないですけど――」
「リダとテイルは付き合ってるみたいだし、ライムは学校の先生か。まさかヴェネがミドール王国軍で大佐になってるとは思わなかったよ」
そう言って近付いてくる彼の足元で、サクサクと緑の草が音を立てる。見上げてみると、澄み渡る青空には、いつもと変わらず白銀の鎖模様を浮かべた光の膜が張られている。
「一体どこから入ったんです?」
「何言ってるの。隙だらけだよ」
メロヴィスは肩を竦めて首を横に振った。
「そもそもそれ、隙だらけだった結果だろう?」
「うっ……」
言葉に詰まり、俺は誤魔化し笑いを浮かべる。メロヴィスの溜め息の先には、白銀の鎖と光の膜で作り上げた球体の中に渦を巻く、黒い靄があった。
「表層の世界にアルベルトとリィナの居場所を作って、奥には入れないんじゃなかったのか?」
「あははは……実は、アルベルトを生み出すところから既に失敗しちゃったんです。俺に影響を及ぼさないものなんて、どう頑張っても俺の中には作れなくて。それなのに表層の世界にいるライム達は、無事だったらどんな生活してるかなぁ、なんて考えていただけで、いつの間にかそうなってました」
「それでどうしようか考えているうちに、リィナがここまで来ちゃったと」
「まぁ、ちゃんとあの球体の中に入ってるだけ、マシだと思ってください」
メロヴィスは頷くと、青空を見上げた。
「時間の経過の感覚はあるのか?」
俺は首を横に振る。
「ありません。でも、あれから結構な時間が経ったのはなんとなくわかります。ただ、不思議と辛くはないです。眠らなくても疲れないし、空腹も感じない」
笑った俺に、メロヴィスは僅かに渋い顔をした。
「なぜ戻らないんだ、クレス」
ザァッと強めの風が俺達の間を駆け抜けて、色とりどりの花びらが宙を舞う。メロヴィスは黒い靄を閉じ込めた球体に目を向けた。
「以前よりも嫌な感じがしない……あの光の効果なのか?」
「いいえ、俺が特化してるのは守りの力だけです。あの時のヴェネスが展開した〈フォートレスチェーン〉よりも堅牢だとは思いますけど、それほど嫌な意志が伝わって来ないのは、壁の厚さのせいじゃないです」
その時、球体の中で黒い靄がゆらりと揺れた。僅かに目を見開いたメロヴィスの前で、靄は一人の女の影へと姿を変える。
「……彼女が今のリィナです。でも俺を介して存在しているだけで、もう魂は持っていないようです」
「それは――かつての王妃のようなことになりかねないんじゃないか?」
「靄の状態の時は、うっかり油断してるとあの球体にヒビ入れられたりします。だから気を抜けないんですけど――でも、あの姿の時は大丈夫。あの姿を取る時は、憎しみよりも寂しさと恐怖が上回って、アルベルトを探しているようなんです」
「そう……。意思の疎通はできるのか?」
「うーん、それは微妙ですね。たまに反応してるような気もしますが」
俺は苦笑して、メロヴィスからリィナに視線を移した。
「何度か外の世界に意識を戻そうと試みてはみたんですけど、それは彼女を刺激してしまうみたいで、暴れ出すんですよね。危うく壊されるところでした。だからしばらくは彼女と過ごすしかなさそうです。万が一にも身体を取られるのはご免ですし」
メロヴィスを促してリィナのところへ行こうとすると、不意にメロヴィスが俺の手を掴んだ。驚いて振り返ると、彼は優しい表情で俺を見下ろしていた。
「戻りたいか? クレス」
「!」
思わず目を見開き、俺は息を詰まらせた。しかしすぐに、首を横に振った。
「俺はここを離れるわけにはいきません。リィナを引き受けた責任は、俺がきちんと果たさないと。彼女を救うことは、アルベルトとの約束ですから」
言うと、メロヴィスはじっと俺を見つめた。
「もしクレスさえよければ、私が彼女のもとに残る」
「なっ……何言ってるんですか。気持ちは嬉しいですけど、メロヴィス様はヴェネスのところに帰らないと」
「あいつは、もう一人で大丈夫。私の役目は終わった」
メロヴィスはニッコリ笑うと、もう一度俺の頭をポンポンと撫でた。
「それにクレスがずっとここに閉じこもったままでは、ライムだって命を賭けた甲斐が無いだろう。いくらアルベルトとの約束でもね」
「でも……」
すると言いかけた俺を遮って、メロヴィスが言った。
「まぁ、彼女が私では納得しないと言うなら、話は変わってくるが――試してみてもいいかな?」
「試すって……あ、ちょっと!?」
止める間もなくメロヴィスはリィナの方へと近付いて行き、彼女に笑いかけた。そしてメロヴィスは臆する様子もなく、リィナを閉じ込めている球体に触れた。
「なぁ、そろそろクレスを解放してやってくれないか。寂しいなら、代わりに私が傍にいるから」
女の姿を形作っていた影がゆらっと崩れて、僅かに辺りの空気がざわめき立つ。焦る俺を尻目に、メロヴィスは笑みを崩さない。
「彼はアルベルトじゃないんだよ、リィナ。彼はアルベルトの記憶を持っているだけだ。それもほんの一部だけ。それに……そもそも君は、アルベルトがどんな男なのか知らないだろう?」
「!?」