暗い幻 11
リィナの真上から突き下ろした刃は真っ白な閃光を纏い、肉を貫く感触の直後、剣を起点に放射状の光の爆発が巻き起こった。リィナの干からびた身体が引き千切れるように弾け、その腹から黒い靄が勢い良く噴き出してきた。
「クレス!」
不気味な哄笑が黒い靄から溢れ出し、ライムの叫ぶ声がした。
「ウォルト・メロヴィス・コーラー・ヴェネス――〈フォートレスチェーン〉!」
たちこめた黒い靄が俺をすっかり覆ってしまう前に、滑り込んできたヴェネスが頭上に手を翳しながら呪文を唱えた。すると彼を中心として円状に現れた白い鎖が絡み合うように編み上がり、薄っすらと虹色に輝く白い光のドームを形成していった。そのドームが完全に閉じられる前に、ライムを抱えたメロヴィスが飛び込んできた。
「さすがだ、ヴェネ! でも初めて見る魔術だな」
完成した光のドームはもうすっかり黒い靄に包まれてしまっているが、靄が中にまで入ってくる様子はない。しかしヴェネスはメロヴィスの労いに肩を竦める。
「防御系統最高位魔術〈フォートレスチェーン〉だよ。外部からの干渉を物理魔術共に防ぐんだけど――実は俺も初めて使う魔術だし、長くはもたないよ。これのイメージ、維持するのが難しいんだ。ドームを通して攻撃に転じられれば理想なんだけど、俺の力じゃ辛うじて防衛するくらいが精一杯」
そう言って、ヴェネスは耳を押さえた。辺りにはリィナの笑い声が響いており、その中に「殺してやる」「死ね」といくつもの呪いの言葉が繰り返し木霊していた。それは決してただの言葉や雑音として聞き流せるようなものではなく、いちいち胸の奥に突き刺さるような黒い敵意を持っていた。直に受けたらどうなるのかわかったものではない。
「メロヴィス様、ライムは?」
尋ねると、メロヴィスは小さく微笑んだ。
「気を失った。でも呼吸も落ち着いているし、顔色も悪くない。ただ魔導力を全く感じないね――」
「魔導力はリィナにやられる前からです。……多分大丈夫」
あの根っこのような黒い筋は、ライムの腕から綺麗に消え去っていた。俺がほっと息を吐くと、ヴェネスに胸を小突かれた。
「おまえ、よく無事に戻ってきたな。ライムに感謝しろよ」
「あぁ、ありがとう。ヴェネス達も、無事で良かった」
言うと、ヴェネスは苦笑を浮かべた。
「結局、ジルバの方はどうにもならなかったけどな」
「向こうが落ち着いたわけじゃないのか……?」
尋ねると、ヴェネスは渋い顔で口を閉ざした。代わりにメロヴィスが答えた。
「助けた人達は、やはり特殊生体に変わっていったんだ。そうでない人も何人かいたが、ヴェネがその人を庇った時に後ろから刺された。『おまえのせいだ』ってね。みんな止めるどころか歓声を上げた。……まぁ、彼らも死んだよ」
メロヴィスは落ち着いた口調で言ったが、そこには静かな怒りが溢れていた。
「そんな……。ヴェネス、刺されたって大丈夫なのかよ!?」
驚いて尋ねると、ヴェネスは傷付いたような弱々しい笑みを浮かべた。
「素人から致命傷食らうような鍛え方はしてないよ。ありがとな」
ジルバでの出来事が気になったが、ヴェネスは「それより」と話題を切ると、黒い靄をぐるりと見回した。
「これを何とかしないと、俺達も死ぬけどな。一体何なんだ、こいつは」
「特殊生体化したリィナだよ。ライムの身体、乗っ取ろうとしてきたんだ。ライムは不用意に手を出すなって言ったけど、もうそんなの考えていられなくて」
「ライムの腕にあった、根っこみたいなやつのことか?」
ヴェネスに尋ねられ、俺は頷く。メロヴィスは眉を寄せた。
「ライムが死んでいないと駄目なんじゃなかったのか?」
「ライムが言うには、リィナには特殊生体としての特性があるらしい。相手に自分がリィナだって思い込ませるんだって」
「じゃぁ、肉体が滅んでもリィナっていう存在は継続するわけだ。……性質が悪いな。でもライムに乗っ取りを仕掛けてたんなら、さっき全然反撃してこなかったのはどうしてだ?」
「わからないけど、もしこの状況になるのを狙ってたんだとしたら――俺達みんなリィナになるのかも。いや、その前に死ぬのか……?」
「俺達がみんなリィナに? げぇっ、勘弁してよ」
「あいつ、この靄を溜め込んだ腹を自分で引っ掻きながら笑ってたんだ。破裂させたかったのかもしれない」
「有り余る力を振り回して暴れた挙句、力が尽きたら無差別増殖か。本当はあわよくばライムの身体が欲しかったんだろうけど、彼女がクレスの中から戻ってきたものだから、簡単にいかなくなったんだろうな。……本来のリィナの身体は、もう滅んだんだろうか」
メロヴィスはライムを床に寝かせると、上着を脱いでライムにかけた。
「身体が滅んだっていうより、この靄が本体なのかもね。ただ、思考力はさっき倒した肉体の方にあったのかもしれない。だから肉体があるうちは意図的にライムを狙ったんだろ。ライムから根っこみたいなやつが消えたってことは、肉体を介して相手の中に入り込むことはできなくなったって考えていいんじゃないか?」
「リィナとしてライムの中に収束するか、特殊生体として拡散するか――リィナの理想は前者だったんだろうが、どちらも最悪だな」
「力の使い過ぎで自滅かと思いきや、こんな奥の手は反則だろ」
ヴェネスまで上着を脱ぎながらそう言って、何をするのかと思ったら、彼は脱いだ上着を綺麗に畳んでライムの枕代わりにした。
「……何見てるんだよ」
「いや、ヴェネスが紳士なこともあるんだなと思って」
「俺を何だと思ってるんだ」
「変態」
「いやいや、それほどでもない」
なぜか照れているヴェネスに、メロヴィスが苦笑する。
「これから死ぬかもしれないとは思えない会話だな」
「何言ってんのメロヴィス様。死なないし。全然生きるから」
「何か案でもあるのか?」
「まだ無い」
首を傾げたメロヴィスに、ヴェネスはきっぱりと言った。そんな彼を横目に、俺はヴェネスの展開している〈フォートレスチェーン〉に、そっと指で触れてみた。
「この鎖、何かに似てるんだよな……」
白く光るドームを形成している鎖の向こうでは、呪いのようなリィナの感情が渦巻いている。
――アルベルト。
ふと、俺はリィナの言葉の中に、アルベルトを呼ぶ声があることに気付いた。
「!」
両手でドームに触れ、耳を澄ませてみる。途端に、猛烈な悪意が俺の中に流れ込んできた。殺してやる、死ね、消えろ、助けて、殺す、殺して、アルベルト、怖い、誰か――
「おいクレス! 何やってんだ!」
ヴェネスに肩を掴まれて、俺はドームの壁から引き剥がされた。心臓が激しく脈を打ち、ズキズキと焼けるような痛みを訴えてくる。噴き出した冷や汗が背中を伝い、気付けば指が大袈裟なくらい震えていた。
「おい、真っ青だぞ。大丈夫か?」
心配そうに尋ねてきたヴェネスに、俺は頷く。
「リィナの感情を意識的に受け取るなんて何考えてるんだよ。俺の力じゃ辛うじて防衛するのが精一杯だって言っただろう」
「悪い……大丈夫だ」
「この様子じゃ、靄の中に放り出されたらあっと言う間に取り殺されるな。まるで怨霊だ」
ヴェネスはそう言って肩を竦めた。俺はライムの傍らに膝を着き、彼女の頬に触れた。
ライム、俺におまえとの約束を守る力はあるだろうか……。
心の中で呟いて、俺は目を閉じた。〈フォートレスチェーン〉の鎖は、俺の心の世界にあった白銀の鎖と同じなのだ。それはただの思い付きで自信も無いが、迷っている暇は無い。
「俺の心の世界に、リィナの居場所を創る。あいつが落ち着くまで、そこに閉じ込めよう」