暗い幻 8
「クレスは、リダがヘルになった時の姿――一番大きな鏡を見ましたか? きっとリダにとって、あの瞬間が全ての決定打だったんでしょうね」
「一番大きな鏡……」
あれは恐らくレイグを失った直後だったのだろう。真っ暗な部屋で自らに銃を向けるリダと、それを止めたテイルの姿が映し出されていた。
「『どうしておまえじゃなかったんだ』」
テイルは言って、自嘲するように笑った。
「あの時の言葉、僕には『おまえが死ねばよかった』って聞こえたんです。それでどうしようもなく自分が嫌いになった」
「でもあれは――」
「僕ね、レイグが羨ましかったんです。特殊生体で、死ぬしかないような運命で、それでもリダにとって特別な存在。その感情はレイグが亡くなった後も自分の中にあって、『どうしておまえじゃなかったんだ』と言われて、死んでもいいからレイグの立場になりたかったと、自分が本気で思っていることに気付いちゃったんですよね」
テイルは機械からディスクを取り出すと、何も言わずにそれを半分に折って床へ投げ捨て、靴底で踏み割った。そうすることに、もちろん異論は無かった。
「レイグは『死にたくない』と言った。僕は死んでもいいと思った。……最初から彼女を悲しませてもいいなんて思っている僕に、彼女を幸せにできるわけがないんです」
パキパキと小さな音を鳴らしている粉々のディスクを、テイルは最後に爪先で蹴散らした。
「思えばレイグが亡くなってからですね。リダが身体に傷を残すようになったの。……その理由に思い至らない僕も僕だ」
確かにビデオに映されていたリダの肌に傷は無く、俺がジルバで見た彼女の体には、無数の傷痕が刻まれていた。しかしあれが彼女の抱えた過去による結果だと、一体誰が気付くというのだ。
「リダのことは好きです。大好きです。……でもそれを恋愛事にするには、自信無いんです。レイグとは同じ顔だから、尚更。僕を見るのではなくレイグの面影を重ねさせてしまうだけなら、僕達はこれ以上近付かない方がいい。センジュの言う覚悟だって、まさかこの腕でリダを抱き締めろなんてものでもないでしょう」
「……ごめん、余計なこと言って。でも、リダはおまえのこと、今も大切に思ってる。それだけは間違いないよ。だからもう命を粗末にするような真似はしちゃ駄目だ」
「そうですね。……僕もライムを見習わないといけないのかもしれません。彼女は口だけじゃなくて、実際にクレスを取り戻したのですから」
そう言って笑みを浮かべたテイルに、俺は慌てて言った。
「やめとけ。あいつみたいなキャラって、基本はウザいんだ」
「まぁ……確かに」
ライムには不本意かもしれないが、テイルは納得したように頷いた。
「……なぁ、訊いてもいいか?」
「何ですか?」
「どうしてレイヴンはミドールに戦争を仕掛けたんだ?」
するとテイルは悲しそうな顔をして、首を横に振った。
「わかりません。でも、レイグは最期にこう言ったんです。『騙されていたんでもいい。リダに逢いたい。……死にたくない』。もしかしたら、彼はここで生まれた記憶を思い出してしまったのかもしれません。何しろ場所がミドールの地下ですからね。まさかレイグも、ミドールまでもが実験の一部だとは思わなかったんでしょう」
「じゃぁ、戦争に負けた後、レイヴンは最終的に協会に滅ぼされたのか……? 気付いちまったから?」
「確証はありませんが、恐らく。人として生活していた特殊生体にかけていた魔術を解いたのでしょうね。だからある程度の強力な特殊生体を倒してしまえば、それ以上は増えることなく収束したんだと思います」
「『騙されていたんでもいい』っていうレイグの言葉、リダは知ってるのか?」
「いいえ。彼の最期の言葉は、全てをリダに伝えるべきではないでしょう。……レイグは自身の出生を思い出して、知らぬ振りができなかったんでしょうね。先に僕やリダを問い詰めればいいものを、彼はそれをしなかった。僕らに裏切られたと思って死んだなんて――」
テイルは続く言葉を失ったように、唇を引き結んだ。俺は言った。
「それでもレイグにとってテイルは大事な友達だったと思うよ。敵うはずの無いミドールに戦を仕掛けて、その上でテイルと対峙したなら――レイグはきっと苦悩や憤りを覚える一方で、例え演技でもいいから自分を受け入れてくれたおまえに最期を任せたかったんだよ。人と違うのって、どんなに誤魔化しても結構堪えるんだ。血が白いことを知っても親しくしてくれたってのは、物凄い安堵があったと思う。……裏切られても構わないくらい大切な人って、いるよ」
するとテイルは少しだけ目を見開いた後、小さく笑みを浮かべた。
「ありがとう。だけどリダには内緒ですよ? 彼女、意外と泣き虫ですから」
しかしそう言って彼が歩き出そうとした時、不意に一発の銃声が鳴り響いた。
「!」
恐らくリダの銃の音だ。だがその後はしんと静まり返り、足音一つ響いてこない。
「特殊生体か何かが出たのかな……」
早足で通路に出てみると、少し進んだところにリダとライムが倒れているのが見えた。
「リダ!?」
テイルが悲鳴のような声を上げ、リダへと駆け寄った。
近付かなくてもわかるほどに、うつ伏せに倒れているリダの背中は真っ赤に染まっていた。床の上にも溢れた血が大量に流れており、血溜まりになっている。
「リダ、しっかりしてください!」
テイルはリダに呼びかけたが、リダはピクリとも動かない。一方で俺がライムに呼びかけると、彼女は小さく呻いて目を開いた。
「ライム、何があった!?」
「う……――クレス、後ろ!」
「!?」
咄嗟にライムを抱きかかえて飛び退くと、巨大な火球が壁にぶち当たり、辺りを黒く焦がしながら弾けた。
「何だ!?」
「クレス、避けて!」
シャァンッ!
テイルの声と共に、彼の手から放たれた銀の雨が降り注ぐ。床を転がりながら回避すると、幾筋もの鋭い光が、俺の頭上に迫っていたモノを弾き飛ばした。
「何だよこいつ!?」
「十九階級特殊生体のアローニェですね。王宮騎士達はみんな倒したはずなのに、まだ高階級の特殊生体がいるなんて」
銀色の鋭い爪を持った長い八本の足と、赤黒い棘の生えた胴体に、鋭い牙。巨大な蜘蛛を呈しているようだが、どうやら装甲は甲虫のそれらしい。テイルの鋼糸はそいつに直撃したはずなのに、傷一つ負っていない。
「……こいつがリダを?」
「爪で一突きに……私、何もできなくて」
リダを庇うような姿勢で鋼糸を構えながら尋ねたテイルに、ライムが唇を噛んだ。テイルは低く唸ると、リダの身体に片手を翳した。
「リダ、気張ってくださいね!」
キィンッ、と金属を打ち鳴らしたような甲高い音が響き、一瞬だけ空気が弾かれたように震えた。魔術を使ったようには見えず、リダの方にも反応は無かった。ただ、テイルの顔は明らかな苦痛に歪み、脂汗が滲み出したのが見て取れた。彼にも余力は無いはずだが、氣術を使ったのだろうか。
「くそっ……」
テイルは小さく悪態をつくと、荒い息を吐きながらアローニェから放たれた糸を腕の一振りで断ち切った。
「ここは僕が引き受けます。二人は先へ進んでください。凄く嫌な気配が一つ――多分、この先で全てが決まります」
「何言ってんだ!? 俺達も一緒に戦う!」
「足手纏いです。魔術は期待できないし、剣一本のクレスの戦力だけで、どうやって十九階級と戦う気ですか。特殊生体化してない劣化版クレスなんて、ただの十二階級でしょう」
「!」
目を見開くと、テイルは不敵に口の端を吊り上げた。
「僕、リダがいない世界には興味無いんで。でも時間稼ぎくらいなら力になりますよ」
「リダがいないって……そんな、嘘だろ!?」
今までだって、どれほど血塗れになってきたというのだ。何が起こったのかもわからないまま、たった一撃でリダが死ぬわけ――
「クレス」
混乱しかけた俺の手を、ライムの手が握った。
「テイルの言ったこと、聞こえなかった? この先で全てが決まる――きっとリィナがいる。アルベルトと約束したんでしょ。クレスが決着を付けないと」
「この先にリィナが?」
テイルを見たが、彼はそれには答えず、左腕を大きく振るった。テイルとの間に幾筋もの銀の煌めきが走ったかと思うと、それはまるで金属網のように通路を塞いでしまった。
「無闇に触ると切れますよ。……早く行って」
「テイル……」
躊躇う俺の手を、ライムが強く引いた。一方で、青白い顔で平然を装ったように笑うテイルと、倒れているリダの左手薬指にはめられている銀の指輪が、俺の後ろ髪を引いた。……あの指輪は、今までリダの胸元に下げられていたはずなのに。
あれではまるで、死者を追いかけたようではないか。
ライムは以前のように、テイルを叱り飛ばそうとはしなかった。このままでは、きっとテイルは死んでしまう――それなのに、何の解決法も浮かばなかった。
「テイル、必ず戻る! 持ちこたえてくれ!」
そう叫んで走り出した直後、後ろで大量の液体が飛び散る音がした。首筋に跳ねてきた冷たい液体を拭ってみると、真っ赤な血だった。
「テイル!?」
堪らず振り返ろうとしたが、ライムはそれを許さなかった。
「駄目! ここで三人とも死ぬ気なの!?」
そう……確かに勝ち目は無いのだ。
俺はざわつく胸を押さえ付け、通路を更に奥へと走った。