林檎と剣 8
鉄錆はライムの足元を覆い尽くし、更に階下へと向かっていく。部屋の中では濡れた音と喘ぎ声が響き出し、ライムが愕然としながらそちらに視線を戻すと、ヴェネスの指が肌の上を滑り、彼女の秘所に潜り込んだ。
「嫌……やめて……」
ライムは震えながら首を横に振る。被虐的な笑みと共にヴェネスの指先が蠢く度、彼女は甘い声を漏らす。クレスの影は、部屋の隅でじっとそれを見つめている。
「やめて……こんなの嫌だ」
血の臭いが更に濃くなる。ヴェネスの指に激しく責め立てられると、女は弓なりに背を反らせた。引き抜いたドロドロの指を舐め上げながら、ヴェネスはメロヴィスを振り向く。彼は先を促すように淡く微笑んだ。
「嘘でしょ……ちょっと。ここ、クレスの中なんだよねぇ?」
ライムは血の気の引いた表情で、クレスの影を見た。すると影はライムの方を見て、ニヤリと笑った。ゆっくりと彼女へ近付いて、首を傾げる。
「これが望みだろう?」
「そんなわけないでしょ……何考えてるの」
「ライムはヴェネスとの方が幸せになれる。俺は必要無い」
「この視姦プレイのどこに幸せを見出したのよ、あんたは」
眉間に皺を寄せ、ライムは影を睨み付けた。
「クレスが折れるのも納得だわ。こんな滅茶苦茶な世界を抱えて、正気でいられる方がおかしいもの。……この鉄錆に覆われちゃった部屋、他も全部こんな感じなんでしょう?」
「俺が好きだなんていう、おまえの言葉は嘘なんだ」
「……あんた、マトモな会話もできないほど知能指数低いわけ? クレスはそんな残念な奴に乗っ取られちゃったの?」
「俺がいなくなれば、俺のことなんて忘れてしまう癖に」
「あんたがいなくなるのは大歓迎だけどね。でも、クレスがいなくなるのは嫌だからここへ来たのよ。あんたに用は無い」
「俺はクレスだよ」
影はライムの腕を掴み、割れた硝子越しに彼女を自分の方へ引き寄せた。唇が触れそうな距離で、ライムは怯むことなく影を睨み続けた。
「クレスじゃない。ヴェネス達へのちょっとした嫉妬心や羨望は、そりゃぁクレスだって持っていたかもしれないけど。こんな幻のために、自分を否定する必要なんてないの。この光景を私にとっての幸福だなんて考えているあんたは、本来いなくていいモノなのよ」
「おまえがクレスを本当に想っているなら、証明してくれよ」
「は?」
「全部俺で埋め尽くしてあげる。受け入れてくれるよね?」
「!?」
「俺のこと、好きって言ってくれたろ?」
掴まれた部分から、黒い影がライムの腕を這い上がる。咄嗟に手を引こうとしたが、影はそれを許さなかった。
「離して! 私の話聞いてないでしょ!?」
ライムの腕を影が螺旋状に侵蝕していくのとは対照的に、影の腕にはライムと同じ肌の色が浮き上がり始めた。まるで二人の体が同化していくかのようだった。
「離しなさい! ――〈フレイム〉!」
叫んだが、発動しない。目を見開いたライムに、影は楽しそうに笑う。
「威勢良く振る舞っても、本当は物凄く動揺してるんだろ? 中位程度の魔術も発動できないなんて、集中力が足りないよ」
「……っ」
「前にも一度あったよな。ミドールが滅んだ時――街路の血の海を見て、おまえは〈フライ〉を使えなかった。あの時は義父さん達が死んだ時を思い出したんだろ? ……あ、二人の事はおまえが殺したんだっけ。おまえが全身バラバラに吹っ飛ばしたんだ」
ライムの全身を影が這い、代わりに影がクレスの姿形をはっきりと現し始める。ライムは逃げ場を探して視線を走らせたが、その拍子に、後ろからヴェネスに貫かれながらメロヴィスのものを口に含んでいる自分を見つけ、顔を歪めた。彼女の口元から零れた白濁は、シーツの上に落ちて鉄錆になった。
「あんなの私じゃない……」
呻くように言ったライムに、影は――クレスは優しく微笑んだ。ライムの身体が微かに震える。
「そうだな。あれはおまえじゃない。……おまえは俺のだ」
「あんただってクレスじゃない! 離してよ!」
叫んだ時、突如ライムの反対側の腕が勢い良く引っ張られた。
「こっち! 付いてきて!」
「!?」
ライムはその力に引き摺られるように、影から離された。彼女の手を引いて階段を駆け上がるのは、蒼い軍服を着た黒髪の青年だった。
「誰!?」
驚いた様子で尋ねるライム。上にも下にも部屋の見えない位置まで階段を上ると、青年は足を止めて振り返った。
「俺はアルベルト」
「アルベルト!?」
ライムは大きく目を見開くと、ゆるゆると首を横に振った。
「本当にクレスの中にいたのね……」
「いた、というよりクレスの中に生まれちゃったんだよね。困ったことに」
アルベルトは困ったように肩を竦めた。
「元々の俺は、心の形も持てないような、小さな小さな記憶の欠片だったんだ。いや、記憶と呼ぶのもおこがましいくらいにいい加減なモノだ。でもクレスの意識が俺をここまで大きく育ててしまった」
「どういうこと?」
「クレスは魔力の塊なんだ。常に自分の中で自分を想像し続けることで彼自身を維持している。もちろん無意識でやっていることだから、彼も気付いていないと思うけど。彼は混沌系統魔術の〈アダム〉で構成されているから、存在自体が普通の人間とは随分違う」
アルベルトは言って、鉄錆だらけの壁にそっと触れた。
「リィナに干渉され続けたせいで、彼の意志とは関係無しに、彼の基盤が崩されてしまったんだ。どんなに抗おうとしても、こうして彼の根本が変わってしまうからどうしようもない。万人が持ち得るちょっとした疑念や嫉妬ですら、リィナが膨らませて彼そのものにしてしまう」
「クレスそのものが魔力で自分自身を想像してる? じゃぁ、クレスが魔術を使うと特殊生体化が進むのって、そのせい?」
「その通り。彼が魔術を展開することは、彼そのものを消耗させる行為になりかねない。多分クレスには、君のように魔力を外部から取り込んで術として展開する感覚がわからないはずだ。自分を削って魔術を展開し、消耗したら、彼に必要な魔力が自然と充填されるのを待つ。ただ自分を削ってしまった分、一時的とはいえ彼自身の状態はひどく不安定になるんだ」
「そうか……クレスは自分を削って魔術を使うから、クレスを維持できるだけの魔力が体内に無くなった時点で、特殊生体の姿に飲み込まれるのね。十二歳の頃じゃ、まだ魔術のイメージなんてほとんど持ってないから、力任せになってあっと言う間に消耗したんだ……」
確かめるように尋ねたライムに、アルベルトは驚いたような顔をしていた。その反応を肯定と受け取ったのか、ライムは小さく溜め息を吐く。
「ついでに、クレスの人格は超が付くほど脆いってコトよね。リィナの影響とはいえ、ネガティブすぎる自分どころか、全く別人の貴方まで自分の中に生み出しちゃうなんて」
ただ、とライムは言葉を切った。手にしていた鞭を、突き付けるようにアルベルトへ向ける。
「もし貴方がクレスの想像から生まれたのだとしたら、クレスが知らないことを知ってるわけないわよね。押し付けがましいだけの他の影と比べると、貴方はあまりに異質だわ」
「…………」
「貴方の腹積もり、教えてもらっていいかしら?」