林檎と剣 1
【 十・林檎と剣 】
気付くと俺は、ジルバ城の屋上を見下ろしていた。
何だろう、この視点は……。
頭がボーッとして働かない。
眼下の屋上では、吹き荒ぶ白い雪の中に、ヴェネスが立っていた。ゴゥゴゥと唸りを上げる風に身を竦める仕草も見せず、眼下に広がる真っ白な世界を静かに見つめている。時折視界は白一色に塞がれて、その合間から見える黒い闇すらも、じきに飲み込んでしまいそうだった。
「今年は本当に雪が早いな」
苦笑混じりに呟いて、ヴェネスは屋上の扉の方を振り返る。
扉の前には、険しい表情をしたメロヴィスが立っていた。
「今はこんな吹雪も悪くないって思うよ。メロヴィス様のおかげだね」
「ふざけるな。何を企んでる」
ヴェネスの穏やかな微笑みを一蹴し、メロヴィスはヴェネスを睨み付けた。ヴェネスはおどけたように肩を竦める。
「そんなに怖い顔しないでよ」
「これがヘラヘラ笑っていられる状況か」
ジルバ城の屋上で向き合うメロヴィスとヴェネス。ヴェネスの手には、銃が握られていた。
「ねぇ、初めてメロヴィス様と会った時のこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるけど、今は思い出話をしている場合じゃない。仮にもし今その話をするなら、ヴェネはロクでもないことを考えているに決まってる」
声音に怒りを滲ませるメロヴィスに、ヴェネスはおかしそうに笑った。
「確かメロヴィス様にも話して無かったよね。メロヴィス様に拾われたあの日、俺は生まれて初めて好きになった女の子を殺して、主人のところから逃げ出したところだったんだ。まぁ、彼女はあの日に売られてきたばかりだったから、一目惚れなんだけどね」
「ヴェネ、やめろ」
「凄く綺麗な子で、『穢される前に殺して欲しい』って。俺は彼女に望まれるまま、彼女の首を絞めて殺したんだ。名前もわかんないままだったけど、その子、泣きながら笑ってた。俺は彼女を殺すことでしか助けられなかったけど、あの日あんたに会えるなら、彼女と一緒に逃げれば良かった。……それだけが、俺の人生最大の後悔だよ」
「ヴェネ!」
「でも、実際あの時俺は、自分のことしか考えてなかったのかもしれない。彼女が動かなくなった後、どうせぶっ殺されるなら、こんな薄暗いところじゃなくて太陽の見えるところで死にたいと思ったんだ。決死の思いで飛び出したら、めっちゃ雪降ってんの。太陽の光なんて一筋も見えやしない」
ヴェネスは明るく笑って、空を見上げた。ちょうど激しく雪が吹き荒れて、空が見えないほどに白くけぶった。
「それでも、今はこの空がそんなに嫌いじゃない」
「ヴェネ、何する気なのか知らないけど駄目だ、やめろ。まずは屋上の縁から離れて、銃をしまえ。どうしても思い出話がしたいなら、それから付き合う」
ヴェネスの一挙一動も見逃すまいとするように彼を睨み付けながら、メロヴィスはじりじりとヴェネスに迫った。一方のヴェネスは、朗らかな笑顔を崩さないまま続けた。
「メロヴィス様に拾われた後、あんた、自殺しようとした俺を思いっきりぶん殴っただろ。メロヴィス様があんまり優しいから、俺は手にした光を失うのが怖くて――あんたに裏切られて奈落の底に突き落とされるくらいなら、幸せな気持ちのまま死んじゃおうって思ったんだ。だからメロヴィス様が本気で止めてくれて、本当に嬉しかった。初めて誰かの世界に入れた。誰かの大切な人になれた。人を信じてもいいんだって、心から思えたんだ」
「ヴェネ、わかったからもう黙れ。リィナに何を唆されて本気にしたのか知らないけど――ヴェネ、あの時言ったよな。『それだけは絶対に許さない』からな」
ヴェネスは銃を指先でクルクルと回す。まるで運命のルーレットのように見えた。
「ごめん、メロヴィス様。俺は殺すことでしか助けられないんだ。メロヴィス様みたいになれない」
「助ける? ……全く話に付いて行けないな、ヴェネ」
「要するに、こういうこと」
ヴェネスは銃口を自分のこめかみに向けた。
「俺を殺して、あんたを救う」
そう言った途端、不意にヴェネスの目から涙が溢れだした。
「リィナと約束したんだ。こうすればメロヴィス様は殺さないって」
「そんな馬鹿げた約束のために死ぬのか? 私の為に死のうだなんて、そんな悲しいことは言わないでくれ。私は大丈夫だ。そう簡単に特殊生体になったりしない」
「メロヴィス様……」
ヴェネスは一度俯いて、それから、顔を上げた。
「メロヴィス様、俺――」
しかしその時だった。
バキバキバキィッ!
耳を劈くような音が、メロヴィスの身体から発せられた。
「うあああああああああああああああ―――――っ!」
絶叫と共にメロヴィスの背中が大きく裂けて、真っ白な血が噴き出した。そうかと思えば、骨肉を砕くような音と共に、黒い翼が彼の背中を突き破って生え出してきた。
「メロヴィス様!?」
ヴェネスが彼に駆け寄ろうとすると、不意にヒュオンッと鋭い音が空を切り、ヴェネスの手から銃が弾け飛んだ。その次の瞬間には、ヴェネスの喉元に剣の切っ先が突き付けられていた。
「逃げろ、ヴェネ……! 抑えが効かん!」
「何で!? あんたの肉体、特殊生体化なんて始まってなかったはずだろ!?」
「今迄こそ安定した状態を保ってきたが、そもそも私は他に例の無いイレギュラーだ。いつ術が解けてもおかしくはない」
「そんな!」
愕然とした表情のヴェネスに向けて、メロヴィスの剣が勢いよく振り上がる。
「ヴェネス!?」
その時再び屋上の扉が開き、ライムが飛び込んできた。彼女はヴェネスを突き飛ばしながら、自分もそのまま前方へと倒れ込んだ。
ザァァアアッ!
冷たい雪の上を滑り、ライムは後ろを振り返る。
メロヴィスは四つん這いになって、ガクガクと身体を震わせていた。不気味な枯渇音は鳴り止まず、メロヴィスの顔面を黒い痣が覆い始める。
「メロヴィス様!」
ヴェネスは悲鳴のような声を上げたが、すぐにキュッと唇を引き結んでこちらを睨み付けた。その視線の先――俺の傍らでは、リィナが薄く笑っている。
「リィナ……死んでやるからよく見てろ」
呟いて、ヴェネスは静かに立ち上がった。弾かれた銃の代わりに、銀色に煌めく一振りのナイフを取り出しながら、ライムに笑いかける。
「凄いな、ライム。何でここがわかったんだ? エントランスからは随分離れてるのに」
「何か嫌な感じがしたから、それを追って来たんだけど――でもまさかリィナの気配だったなんて。ヴェネス、これって一体どういうことなの?」
「リィナの気配を追って的確にここまで来られたなら、おまえ大した魔導師だよ」
「ちょっと待って。ヴェネス何する気!?」
ヴェネスは戸惑うライムを尻目に、ザクザクと雪を踏みながらメロヴィスの方へと近付いて行く。苦しげに顔を上げたメロヴィスの表情が、明らかに凍り付いた。
「ヴェネ……何する気だ、それ……」
そんなメロヴィスを見て、ヴェネスが柔らかく微笑む。
「メロヴィス様が生きていてくれるだけで、俺は最高に幸福で嬉しいんだ。だからメロヴィス様……この世界に俺がいないことくらい、我慢して」
「やっ……駄目だ、駄目だヴェネ! おまえが死ぬなんて許さない! やめ――……」
「さよなら、メロヴィス様」