冷たい花 3
「そういうことは早く言いなさいよ。正反対じゃない」
「今気付いたんだから仕方ないだろ」
言い訳する俺を尻目に、ライムは絨毯の上に爪先を滑らせた。絨毯は点々と、部分的に凍っているようだった。
「これ、誰か通ったのかしら」
俺は元来た道と青黒い扉を交互に見比べた。
「濡れたヴェネスが通った跡が凍ってるのかもしれない」
「じゃぁ、やっぱりヴェネスは上に向かったのね」
「多分な。ヴェネスと来た時は牢屋の中からスタートして、どこか階段を上って――。この扉の先が、その階段なのかも」
言った時、元来た方向の廊下が、ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされた。
「何だ?」
体感温度が急速に上がったかと思うと、足元の氷がじわりと溶けた。ランプを灯した誰かが歩いてくるような、そんな生温い様子ではない。何か猛烈な熱の塊が近付いてくる。嫌な予感に、全身がざわざわと粟立った。
「さっき上にいた奴とは雰囲気が違うみたいだけど……そういえば、王宮騎士ってセンジュ以外は全員倒した?」
「いや……」
じりじりと扉の方へ後退りしながら、俺とライムは横目で視線を合わせる。
「クローヴィス様が変化したテムングスはまだ倒してない。テイルとヴェネスと三人がかりで駄目で……内側からクローヴィス様がテムングスを抑えてる間に、逃げたんだ」
「テムングスって――じゃぁ、あいつがそれ?」
「多分な。逃げるぞ!」
廊下の向こうに、赤く燃える巨大な体躯がチラリと見えた。俺とライムは頷き合い、青黒い扉を思いきり押した。重たい音を立てて開いた扉の奥へ身を滑らせて、二人がかりで素早く閉める。しかし直後、閉めた扉に強烈な圧力がかかり、ジュゥゥゥッと真っ白な煙を上げて、扉が熱を持ち始めた。
「やべぇ! 走れ!」
「わかってる!」
ライムが慌てた様子で叫ぶが、扉の向こうは石の下り回廊で、ところどころが凍っていた。たちまち足を取られたライムが派手に転倒。俺に黒の下着を見せつけながら、階下へと転がって行った。
「慌て過ぎだ、馬鹿!」
シュウウウウッという水蒸気の音を背中に聞きながら急いで後を追いかけると、階段の一番下に、大股開脚状態で倒れているライムの姿を見つけた。千年の恋も冷めそうなポーズだが……生きてるのか?
「おい、大丈夫か?」
彼女の脇にしゃがんでツンツンと突くと、ライムは両腕で顔を隠し、それから開いていた股を閉じて、「ああぁぁ……」と妖怪のような呻き声を漏らした。彼女の身体は防御系統中位魔術〈シールド〉の青い光に包まれているから、怪我に関しては大丈夫だろう。
「大丈夫、忘れるって。忘れる忘れる」
声をかけるが、ニヤニヤが止まらない。何でこいつは、こんなピンチに面白いことをしてくれるのだろう。
「もう嫌。嫌すぎる。殺したい」
「待て。そこは普通『死にたい』だろ」
「目撃者のクレスを消せば無かったことになるわ!」
バッと起き上がったライムの手には鞭が握られており、力強くしなったそれが、後ろへ飛び退いた俺の足元で弾ける。
「ふざけんな! 今本気で当てるつもりだったろ!?」
「クレス、そんなことより後ろ見た方がいいわ」
ライムはニコッと爽やかな笑みを浮かべた後、パッと身を翻して脱兎のごとく駆け出した。振り返ると、滲み出すような熱を孕んだオレンジ色の光が、回廊の壁を照らしたところだった。
「おいっ、置いてくなよ!」
ライムを追って駆け出したものの、このまま進んでも地下の行き詰まりへ進んでいくだけだ。いや、そこへテムングスを誘き寄せれば海に沈めて倒せるのかもしれないが、そう上手くいくだろうか。
……俺がテムングスの気を引き、ライムを向こう側に逃がすしかない。俺は足を止め、後ろを振り返った。
「クレス!?」
俺の足音が追いかけて来ないことに気付いたのか、ライムが驚愕の声を上げる。
「ライム、このまま逃げても追い詰められるだけだ! 隙見て向こう側に抜けろ!」
「は!? あんた正気!?」
「特殊生体化が進んで、俺もテムングスに対抗できるようになってるかもしれないだろ」
「馬鹿、なってるわけないでしょ!?」
赤く燃える巨大な体躯が、闇の向こうに姿を現す。じりじりと伝わってくる熱が辺りの氷を溶かし、水蒸気が噴き上がる。赤黒い筋が浮き出た太い腕に握られた真紅の槍が、そいつ自身の炎に照らされて不気味に輝き、この距離でも感じるほどの強烈な熱量が勢いを増してくる。最初にテムングスに遭った時、いかにクローヴィスが内側でその力を抑えていたのかがわかった。真っ赤に輝く獰猛な瞳にビビりながら、俺は女王の守護者を構え、精一杯に口の端を吊り上げる。
「いいな、ライム。全力で逃げろ」
言うと、防御系統中位魔術〈シールド〉の青い光が、俺の正面で鮮やかに輝いた。
「そういう台詞は十年早い。クレスが戦うなら、私も戦う」
「何言ってんだ。どう見積もっても倒すのは無理だぞ」
「いいえ、無理じゃない」
一体何が根拠なのか、自信に溢れた表情と声で、ライムが俺の隣に並んだ。彼女の凛とした愛らしい横顔に、恐怖は浮かんでいない。うっかりそんな気になりかけて、俺は慌てて被りを振った。
「いやいや、騙されないぞ。無理じゃなかったら最初から逃げないだろう」
「あんたと私が戦る気になれば、大丈夫よ」
「気合いの問題か? さっき駄目な組み合わせとか言ってなかったか?」
「つべこべ言わない!」
パンッ!
ライムの振るった鞭が、再度俺の足元で弾ける。
「いけるわ。今の私、ヴェネスにも負ける気しないもの」
「それ、撤回するなら今だぞ」
「私は大魔導剣士ディーナ・クライスとアルテナ・クライスの娘、ライム・クライスよ。できないわけがないじゃない」
「親の七光って知ってるか?」
「親が七光るなら、子は八光るのよ!」
ライムは自信満々に言い切ったが、意味がわからない。
「くるぞ!」