あやかし問答・天狗
『あやかし問答』 〜天狗之巻
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昔々、出雲の国の霧尾という山には沢山の天狗が住んでおった。
中に一匹、獰猛な天狗がおってな。
山に迷い込んだものを捕まえては、こう聞いてきたそうな。
「わしの名前を言え」
答えられんと、そのまま連れ去られ、皆食われてしもうたそうな。
ある不作の年、一人のにょうばんこ(女の子)が山に入ってしまったそうな。ひもじくてなんぞ食べぇモンでもないかのぅいうて入っていったんじじゃろうなぁ。
その子がむかごを見つけて手を伸ばした時、天狗に見つかってしもうた。
天狗が問いかける。
「わしの名を知っとるか?」
にょうばんこはこう答えたそうな。
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「ぶわっかでぇ〜そんな昔話信じちょるんけ?」
拳骨が入りそうなくらい大きな口をあけて、七原武実が笑った。
「あんなもん、山のキノコを採られんように、て坊さんが考えた嘘じゃろうが」
若狭泰佳も武実――タケの隣で呆れ顔。
二人に挟まれて耳まで顔を真っ赤にしているのは加住弘樹。空鳥小学校へ転校して来た十一歳の少年である。
件の昔話に出てくる霧尾山は、彼らの暮らす六海市内で一番大きな山。古くから山岳仏教が伝わっており、かつて役行者という人物が訪れたこともあるという。今でも山頂に、その役行者が修行したと言われる皇黄院という寺院と、十二からなる宿坊がある。更に宿坊から別れた十ヶ寺の寺院があり、一つの山に全部で二十三ヶ寺の寺院が集まっている。天狗伝説には格好の環境だ。
同じ市内の隣町へやってきた弘樹は、霧尾山の伝説は誰でも知っているだろうと思い込んでいた。そこで転校初日、早速共通の話題で仲良くなれたら……と考え天狗の話を持ちかけたのだが――。
「な、なんだよ! 信じてないの? 今でも天狗さんが……」
「天狗さん〜じゃねぇっつぅの!」
泰佳――ヤスが語調も荒く突っ込む。
タケとヤスは空鳥小でも有名な悪ガキのツートップである。決して、文字通りの悪いヤツではないのだが、自分達の意に反したことには絶対に従わない。友人も多いが、敵も多いタイプである。先生方からは嫌われるが、仲間からは頼りにされていた。
この二人にまず話しかけたのが弘樹の失敗であった。広い霧尾山ではあるが、子供達には格別な遊び場。タケもヤスもいつも霧尾山を探検している。今まで一度も天狗など見たことが無いのだ。
この二人が「いない」と言うのだから、いないのだろう、とクラスメイトの殆どが思っていた。中には「いても良いじゃないか」と思うものもいたが、わざわざ口に出す者はいない。
「そんなに言うなら――」
天狗はいる、と、確信している弘樹はタケとヤスに真っ向から噛み付いた。売り言葉に買い言葉。こうして三人は、日曜日、霧尾山へ出かける事になったのである。
※
「やっぱりいないじゃん」
ヤスが片方の眉を上げて弘樹をねめつける。
背中に何やら大きな荷物をしょった弘樹は、気にせず前へ進む。
霧尾山は、中国地方を南北に分断する中国山地の一部である。高さは精々五〜六百メートル位のものだが、裾野は広い。六海市内の四町に渡り、登山口も様々だ。近年道が整備され、途中までハイキングコースにもなっている。
小鳥達のさえずりの中、黙々と歩く弘樹に、憮然としながら付いてくるタケとヤス。所々伸びた枝はあったが、邪魔にはならない。弘樹を残して途中で帰るのは二人のプライドが許さない。短気なヤスは別として、タケの方は、素直に弘樹が負けを認めれば許してやろうと思っていた。
(早く諦めれば良いのに)
内心そう思い、弘樹がギブアップするのを待つ。折角の転校生。新しい仲間が増えるのが心から楽しみでもあったのだ。
「あった……!」
やがて三人の前に小さなお地蔵様が現れた。
(こんな山の奥に?)
ヤスが不思議そうな顔をする。それを見て取った弘樹が説明した。
「これは道祖神っていうんだ。通る人の安全を祈るんだって。それから――ここからは入るなっていう境界線だよ」
胸を張る弘樹に、タケが首を捻る。
「なんだそれ? 入ったら天狗様が出てくるのかよ」
「うん! そうだよ」
小ばかにした気持ちで口にしたタケだったが、満面の笑みで答える弘樹に閉口した。
「へ、じゃぁ入ってみようぜ」
ヤスが一歩踏み出す。躊躇なく藪の中に分け入った。弘樹が止める間もなくタケもヤスに続く。
「あ、待って! 駄目だって、ちゃんと挨拶しなきゃ……」
弘樹の声をヨソに、ズンスンと二人は進んでいく。慌てて弘樹も後を追った。
「天狗様、お邪魔します!」
弘樹の大声がこだました。
※
うっそうとした笹と下草が、歩みを拒むかのようにびっしり生えている。見事な竹林が続いているが、中々前に勧めない。ガサガサと賑やかな音を立て三人は道なき道を行く。
「あんまり入りすぎると迷うな」
「大丈夫、こっそり印を付けてきたから」
ヤスの囁きに、タケが右手を突き出す。手には油性のマジックが握られていた。ここに来るまで、タケに矢印をつけてきたらしい。
いつしかシンと静まり返った山の中。時々、ギャアギャアとカラスのものらしき声が聞こえるが、それ以外は三人の息遣いと、草木の揺れる音しかしない。
――と。
バサバサ、と一際大きな羽音に似た音が三人の頭上を通過した。自然、視線は上を向く。
無数のカラスが頭上を旋回する中、人とわかる格好をした影が竹の先端にいた。
「……え?」
「なに……?」
タケとヤスが同時に呟き――終わる前に、唐突にソレが急降下してきた。
「うわわぁぁっ!」
思わず腰を抜かした三人が、地面に転がる。
「ほぅ、小僧が三人も……何の用かな?」
大地にふわり、と着地した人物が口を開く。見たところ、修行僧の格好をしている。驚きはしたが、相手が普通の人間と見るや、タケが立ち上がった。
「坊さん、ここの人? 俺ら天狗探しに来たんよ」
男の黒い衣が風に巻かれてバサバサと音を立てる。弘樹は、さっきの音はこれか、と納得しかけて――細い竹の先端に立っていた事の不思議さに眉をしかめた。
「ほう……天狗を、なぁ。物好きな」
にやにやと男が顎をさする。若い顔に似合わず、黒いひげが伸びていた。
「そんなもんおらんよなぁ」
漸く元気を取り戻したヤスが立ち上がった。
「いや、おる」
男の一言に、タケとヤスは一瞬間をおき、そして噴き出した。
「ぶっ、ぶははははは……! おっちゃん真顔でナイスボケじゃ!」
「ははは、何でそう思う?」
男も満面の笑みで問いかける。
「そりゃ、だって……」
言いかけて、次第にヤスの声が小さくなる。
(あれ、このおっさん、こんなに背高かったっけ……?)
気が付くと、さっきよりも首が上に向いている事を感じ、ヤスはタケを見た。タケも何かしら感じ取っているらしく、顔が強張りだしている。
「知っちょるか? 天狗はな、――子供の生き胆が大好きなんじゃぁ」
ごぉぉぉぉぉ、という風の音と共に、男の髪が逆立つ。怪しく男の目が光り――緑がかった黒目部分が俄かに赤味を帯びる。
「……っひぃ、ひぃぃぃぃぃ!」
慌ててタケとヤスが駆け出した。
「はっははっはっはっは!」
男はなおも楽しそうに大声を上げるが――一向に逃げ出す気配のない弘樹を見て、キョトンとする。
「なんじゃ? お前は逃げんのか? ほれ、仲間はもう見えなくなったぞ?」
瞳の色が元の緑がかった黒目に戻った。
「……た」
「んん? なんじゃと?」
弘樹の呟きに歓喜の色が帯びている。男が聞き返すと――。
「やっぱりいた♪ 僕、知っているよ! アナタは玄蓮坊さんでしょう?」
男は驚きを顔中に浮かべる。
「ヒイバァちゃんから聞いたんだ♪ 噂の天狗は、ちっとも獰猛じゃなかったよ、って。それからこんな唄も。
♪霧尾の山の 竹の奥
隠れて棲むは 玄蓮坊
人を脅かし 腹抱え
何より 酒が大好物
……はい、これ。ヒイバァちゃんから」
唄い終わると、弘樹は背中から何かを取り出す。それはサラの一升瓶。白くにごった液体が、ちゃぽん、と音を立てる。
「これは――“戸岬の華”……お前は……?」
頬を上気させ、男――玄蓮坊が酒瓶に飛びついた。既に酒の味を思い出したのか、喉をごきゅん、と鳴らす。
「僕のヒイバァちゃん、戸岬スエ、っていうんだ」
弘樹の言葉に、玄蓮坊が遠い目をする。
「おを……スエのひ孫か……時の流れはほんに早いのぅ」
そしてゆっくりと瓶の封を開け、ごくり、と傾けた。
「――旨い」
にぃ、と笑って弘樹に顔を近づける。
「スエはどうしちょる?」
「元気だよ♪ 再来年、き……じゅ? の祝いとかいうのをやるんだ〜。僕がこの霧尾山近くに転校するって言ったら、玄蓮坊さんのこと、教えてくれたよ」
「……そうか。ヒイバァちゃん大事にせぇよ。ほんでまた酒、持ってきてくれ」
そう言うと、軽やかに飛び上がった。舞うように竹林の中へ姿を消す。
「あ、待ってよう! もっとお話聞かせてよ!」
弘樹が泣きそうな顔で叫んだ。
『ほれ、そこまで迎えが来ちょうるぞ、また今度な』
遠くから玄蓮坊の声が響いた。姿が完全に見えなくなった頃――「弘樹〜!」と声がこだました。
弘樹が振り向くとタケとヤスの姿が近付いてくる。
「良かった、無事だったか!」
「お前だけ喰われたら俺らのプライドが許さんけんのう」
足をがくがく震わせながら精一杯胸を張っている。
二人が自分を心配して来てくれた事に、弘樹は胸が熱くなった。
「……で、さっきの天狗は?」
恐る恐るタケが辺りを見回す。
「……うん、また遊びに来いって」
ニッコリ笑う弘樹に、タケとヤスは顔を見合わせる。
「さ、帰ろう♪」
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山裾から三人が顔を出す頃には、すっかり意気投合していた。一人天狗に立ち向かい、あまつさえまた来いと誘われた弘樹に対して、タケもヤスも既に見直していたのだ。夕焼けの中、カラスが見下ろす道の上に、長い三本の影が、仲良く並んで尾を引いた。
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戸岬スエは十歳の頃、霧尾山でかくれんぼをしていて道に迷った。当時はまだ登山道も整備されていない。藪の中を進むうち、辺りは暗くなり始めた。
ふと夕月を見上げると、竹の上に黒い布のようなものがはためいていた。
「誰かいるの?」
声をかけてみると、返事が帰って来た。
「をう。おれが誰かわかるか?」
スエは大きな声でこう答えた。
「わからねぇ。わからねぇから降りてきて顔見せておくれ。そしたら友達になろう」
しばしの沈黙の後、スエの頭上からは愉快そうに響く笑い声が降ってきた。
「友達になろう、か。そりゃいいや」
影はゆらり、と降り立った。
こうしてスエは新しい友人を得たのである。