第1話 私の夕食に、椅子を一脚
食卓には、椅子が四脚あった。
私はそのうちの一脚を、窓へ向けた。
夕方の光が、背もたれの細い傷に引っかかっている。
誰かが座った年月のある椅子だった。
手のひらで座面を拭き、少しだけ引く。
それから、鍋を見に台所へ戻った。
まだ沸いていない。
戻ってきて、椅子を元の位置へ押し込もうとして、私は手を止めた。
食事の途中で座っていたら、誰かが通りにくいかもしれない。
そう思ったのだ。
誰が。
私は、空の食堂を見回した。
奥にも机が二つある。椅子はどれも、今は空いている。
宿は、まだ開けていない。
「ここに、座ります」
小さく言ってみた。
許可を出す人はいなかった。
*
王都の商館で食堂係をしていた頃は、立ったままの方が早かった。
皿を下げる。次の食事の仕込みをする。急に人数が増えた部屋へ、鍋を一つ分ける。
人の食べる時刻が決まっていると、自分の食べる時刻は、少しずつ後ろへ動いた。
それが嫌で辞めたのかと聞かれたら、違う、と答えると思う。
同僚と、台所の隅で残りのパンを分けた時間は好きだった。
また来ると言ってくれる商人もいた。
ただ、十年近く過ぎて、この先も同じように働いている自分を想像した時、少しだけ息苦しくなった。
二十八歳の誕生日にも、私は人数の増えた晩餐の献立を考えていた。
食べたかったのは何だったかと尋ねられて、とっさに答えられなかった。
叔母の宿を一年借りると決めた時、母は最初に屋根のことを尋ねた。
大きな夢の話より、雨漏りが心配だったらしい。
私も今は、屋根が心配だった。
雪待ち峠の古い街道沿いにある、山あかり亭。
叔母が店を閉めてから、しばらく人を泊めていない。
町から乗せてもらった荷車を降りた時、思ったより建物が大きく見えた。
四つの客室と、十二人が座れる食堂。
鍵を一本回しただけで、全部が私の仕事になるのが、怖かった。
叔母のジゼルは、今日は町の用事で戻れない。
先に預かっていた玄関の鍵と、台所の隣の小部屋を使えば今夜は眠れる、という手紙を頼りに、私は荷を解いた。
明日は朝から一緒に、使える部屋を見て回る約束になっている。
王都から持ってきた前掛けを、壁の釘へ掛けた。
いつもの場所と違うせいで、結び紐が床へ付きそうになる。
結び直すと、それだけで少し、自分の台所らしく見えた。
食料の包みを開いた時は、思わず笑った。
出発前、同僚が大きなパンを一つ押し込んでくれたのだ。
あんた一人なら、ちゃんと座って食べなさいよ、と。
ここまで来ても、私の癖を覚えている人はいる。
台所から、ふつふつと音がした。
鍋を火からずらし、持ってきた器へスープをよそう。
蕪と麦の、簡単な夕食。
湯気の向こうに、自分で選んだ椅子が見えた。
*
扉が、二度鳴った。
私の肩が、勝手に仕事の形になった。
器を置き、壁へ掛けた前掛けに手を伸ばす。
でも、指が届く前に、もう一度、空の食堂を見た。
今日は、まだ開けていない。
私は前掛けを取らず、扉へ向かった。
立っていたのは、雨よけの外套を着た男だった。
胸元に、街道警備の印がある。
差し出された小さな包みには、叔母の筆跡で私の名前が書かれていた。
「裏の物置の鍵だ。ジゼルさんから預かった」
「ありがとうございます。ナディア・リースです」
「ロアン・ヴェルク。峠の詰所にいる」
短い挨拶だった。
彼は扉の上を見て、それから私の後ろを見た。
「もう、客を取るのか」
「まだです。明日、部屋を見直してから」
答えると、彼はうなずいた。
よいとも、無謀だとも言わなかった。
「外の雨戸は、片方の留め金が緩い。夜、風が変わることがある」
私は戸口の横を見た。
到着した時には、気づかなかった所だった。
食堂の広さと台所のかまどばかり見て、外を一周すらしていない。
「見ておきます」
少し固い声が出た。
自分の見落としを言われただけなのに、宿を借りたことまで間違いだと言われたような気がした。
彼はそんな話をしていない。
私は唇を閉じ、留め金の位置をもう一度見た。
ロアンは食卓の方へ目を向けた。
湯気は、まだ上がっている。
「先に食べればいい。外から留められる」
言って、鍵の包みを私へ渡した。
私は、手伝ってもらうほどのことでは、と言いかけた。
知り合ってすぐ、何かを頼むのが怖かった。
でも、彼はもう雨戸の所へ歩いていた。
こちらへ上がり込むのではなく、外の金具だけを確かめている。
「では、そこだけ、お願いしてもいいですか」
「ああ。今夜動かないようにはできる。直す相談は、明日してくれ」
私はうなずいた。
彼が何もかも直してくれるわけではないと分かると、かえって頼みやすくなった。
扉を細く開けたまま、食卓へ戻る。
椅子を引く。
今度は、押し戻さなかった。
最初のひと口は、思っていたより熱かった。
私は慌てて器を置き、それから少し笑った。
人に出す時には、いつも気にしていた温かさだった。
*
食べ終える頃、外で短く金具の音がした。
ロアンが戸口から、今夜はこれでよい、と声をかける。
私は残りのパンを置き、そちらへ行った。
「お茶くらい、お出ししましょうか」
「今日は戻る。詰所で待っている者がいる」
断られて、私は差し出しかけた手を引いた。
お礼をすぐ返しておかないと、落ち着かなかったのだと思う。
彼は私の手を見て、戸口の包みを指した。
「預かった鍵を届けに来ただけだ。夕食まで延ばさなくていい」
私はもう一度、ありがとうございますと言った。
今度は、別の用事を増やさずに済んだ。
街道に、もう一人、馬を引いた警備の人がいた。
隊長、と呼ぶ声に、ロアンが片手を上げる。
私は初めて、彼が詰所の隊長なのだと知った。
馬の足音が遠ざかる。
戸を閉めると、食堂はまた静かになった。
でも、さっきまでと同じ空き家の静けさではなかった。
私は皿を洗い、残りのパンを布へ包んだ。
机に手帳を広げ、明日見る物を書いていく。
客室の鍵。水場。雨戸の留め金。
書くほどに、自分がまだ知らない仕事の多さが分かった。
貯金が尽きるまでに、宿を続けられるようになるだろうか。
本当に泊まりたいと言う人が来るのだろうか。
今夜、答えを出せることではなかった。
私は手帳を閉じ、窓辺の椅子を見た。
明日も、あそこで食べようと思った。
食べ終わったら、また次の支度をすればいい。
食堂の灯りの石を一つ消すと、窓に映った机の輪郭が薄くなった。
私は椅子を通り道の邪魔にならない所へ寄せ、それでも、自分の席がどれだったかは覚えていた。




