桜が散る頃
引きこもりが初めて描きました
読んでくれると幸いです
春になると、駅前の古い時計台の下には、決まって桜の花びらが吹き寄せられる。誰かが掃いても、風がまた新しい花びらを運んでくる。その淡い桃色のじゅうたんを見るたびに、僕は祖母の言葉を思い出す。
「散る花はね、終わりじゃないんだよ。誰かの思い出になるために降りてくるんだから」
子どもの頃の僕には、その意味がよくわからなかった。ただ「そうなんだ」とうなずくだけだった。けれど二十歳になった今なら、その言葉が胸の奥で静かに息づいている理由がわかる気がする。
祖母が暮らしていたのは、小さな海辺の町だった。電車は一時間に一本。駅前の商店街は夕方になると人影もまばらになり、魚屋のおじさんは店先で丸くなった猫に話しかけている。潮風が細い路地を吹き抜け、遠くでは船の汽笛がゆっくりと響く。子どもの頃は退屈だと思っていた町だった。けれど離れてみると、不思議なくらい何度も思い出す町でもあった。
高校を卒業して進学すると、僕は町へ帰る機会がほとんどなくなった。大学の講義、アルバイト、友人との約束、就職活動。忙しいという言葉は便利だった。その一言で、自分に言い訳ができた。気づけば、季節だけが何度も巡っていた。
そんなある日の夜、母から一本の電話がかかってきた。
「おばあちゃんね、最近ちょっと物忘れが増えてきたの。時間があるなら、一度帰ってきてあげて」
その声は明るく振る舞っていたけれど、どこか寂しそうだった。
「わかった。今度の休みに帰るよ」
それだけ答えて電話を切ると、胸の奥が少しだけざわついた。
久しぶりに降り立った駅は、改札が新しくなり、小さなコンビニまでできていた。けれど、潮の香りは昔のままだった。風に混じる海の匂いも、遠くを飛ぶカモメの鳴き声も、子どもの頃と何ひとつ変わっていない。家へ向かう坂道を歩いていると、庭先で遊んでいた記憶が、足元から静かによみがえってくるようだった。
玄関を開けると、縁側で祖母が日なたぼっこをしていた。
「あら、お客さん?」
その一言に、胸が少しだけ締めつけられた。僕のことが、わからないのだろうか。そんな不安がよぎった、その時だった。
祖母は僕の顔をじっと見つめ、ふっと目を細めて笑った。
「ああ……駿か。大きくなったねえ」
その笑顔は、昔と何も変わらなかった。
「もう二十歳だよ」
「そうだったねえ。時間は本当に早いね」
祖母は照れくさそうに笑った。僕もつられて笑った。その笑顔を見られただけで、帰ってきてよかったと思えた。
その日は、庭の草むしりを手伝った。二人で昼ご飯を食べ、近所をゆっくり散歩した。祖母の歩幅は、昔よりずっと小さくなっていた。僕は何も言わず、その歩幅に合わせて歩く。
すると祖母が、公園の古いブランコを指差した。
「覚えてる?」
「何を?」
「ここで泣いて帰らなかったこと」
「そんなことあったっけ?」
「あるよ。ジュース一本で機嫌が直ったんだから」
思わず二人で笑った。笑いながら、僕だけは少しだけ泣きそうになっていた。あの頃は、祖母のほうが僕に歩幅を合わせてくれていたのだ。今は、その役目が僕に変わっただけだった。
夕方になると、祖母は押し入れから古いアルバムを持ってきた。少し色あせた写真には、小さな僕が何人も写っていた。泥だらけで笑う僕。運動会で転んで泣いている僕。海で夢中になってカニを追いかけている僕。
「全部覚えてる?」
祖母が優しく聞いた。
「いや……ほとんど覚えてないよ」
そう答えると、祖母は写真を指先でそっとなでながら微笑んだ。
「それでいいの。覚えている人が、一人でもいれば、その日はなくならないから」
その言葉は静かだった。だけど、不思議なくらい胸の奥へ深く沈んでいった。
翌朝、帰る時間になった。祖母は駅まで見送りに来てくれた。ホームには僕たちしかいない。
「また来るよ」
「うん。またおいで」
電車のドアが閉まる。祖母は最後まで手を振り続けていた。その姿は少しずつ小さくなり、それでも笑顔だけは、ずっと変わらなかった。それが、祖母と交わした最後の約束になった。
秋の終わり、祖母は眠るように旅立った。葬儀の日、母から一冊の大学ノートを手渡された。
「おばあちゃんの日記」
ページをめくる。そこには毎日の献立や、庭に咲いた花のこと、近所の猫、天気――そんな何気ない日常が丁寧な字で綴られていた。そして、春の日の日記で僕の手が止まった。
今日、駿が帰ってきた。背は大きくなったけれど、笑う顔は小さい頃のままだった。「また来る」と言ってくれた。約束は守れなくてもいい。帰ってきたいと思える場所が、この家でありますように。
文字が涙で滲んでいく。最後まで読もうとしても、何度も視界がぼやけた。こんなふうに泣いたのは、いつ以来だっただろう。
翌年の春、僕はもう一度、この町へ帰った。家には誰もいない。庭も静かだった。それでも縁側には、あの日と同じようにやわらかな陽だまりができていて、風がゆっくりと通り抜けていく。
駅前の時計台まで歩くと、桜が満開だった。一枚の花びらが肩に舞い降りる。その瞬間、祖母の声が聞こえた気がした。
「散る花はね、終わりじゃないんだよ」
僕は花びらをそっと手のひらに乗せた。思い出は、過去を忘れないためだけにあるものだと思っていた。でも違う。思い出は、もう会えない人が、それでも自分の中で生き続けていることを教えてくれるものなのだ。
風が吹く。桜は静かに舞い、町全体をやさしく包み込んでいく。僕は空を見上げ、小さく笑った。
「ただいま」
返事は聞こえなかった。それでも春風は、どこか懐かしい声で「おかえり」とささやいてくれた気がした。時計台の下には、今年も桜の花びらが静かに積もっていた。
心温まるどこか切ない話をこれからも書いて行きます




