立ち食いそばに椅子はいらない
午前中の打ち合わせは、予定より二十分長引いた。
長引いた、というより、終わりそうで終わらなかった。論点は出ている。宿題も出ている。次回までに確認すべきことも、だいたい見えている。それなのに最後の五分で、誰かが「ちなみに」と言う。
ちなみに、ではない。
その「ちなみに」は、だいたい次回でいい。
私は駅へ向かいながら、スマートフォンで次の予定を確認した。移動時間を考えると、昼食に使える時間は十五分ほどしかない。店に入って座るには短い。何も食べずに次の訪問先へ行くには長い。そういう、いちばん中途半端な空白だった。
改札の手前に、立ち食いそば屋があった。
券売機。カウンター。湯気。店内に椅子はない。
いい。
椅子がないというだけで、こちらも余計な期待をしなくて済む。ゆっくりしない。味わいすぎない。考え込まない。食べて、出る。いまの私に必要なのは、まさにそれだった。
私は券売機の前に立った。かけ、たぬき、月見、わかめ、かき揚げ。迷うほどの選択肢ではないが、こういう店で迷っている時間は、なぜか普通の店で迷う時間よりも恥ずかしい。
後ろに人の気配がしたので、私は反射的にかき揚げそばのボタンを押した。
食券を取る。
そのとき、背後から声がした。
「かけを一枚。いや、一杯か」
聞き覚えがあった。
私は食券を持ったまま、少しだけ固まった。
まさか。
振り返ると、そこにいた。
紺のジャケット。白いシャツ。ネクタイなし。自分で自分を老舗に寄せている感じ。
あの男だった。
しかも、向かいには例の若い男性もいる。いや、向かいというほどの場所はない。立ち食いそば屋なので、二人は券売機の前に並んで立っていた。
立っていても、もう逃げられない感じがする。
私は素早く視線を外した。
気づかれていない。たぶん。
ここで余計な反応をしてはいけない。私は食券をカウンターに出した。
「かき揚げそば、お願いします」
店員は短くうなずいた。その無駄のなさがありがたかった。ここでは、すべてが短い。注文も、待ち時間も、滞在も短い。
人間関係も短いはずだった。
「いいか」
後ろで男が言った。
短くなかった。
「立ち食いそばに椅子はいらない」
知っている。
だから立ち食いそばなのだ。
私は水を汲み、カウンターの端に立った。できるだけ男たちから離れた場所を選んだつもりだったが、店内が狭いので、どこに立っても声は聞こえる。
聞こえすぎず、聞こえなさすぎない。
また、この距離。
「なぜ椅子がいらないかわかるか」
若い男性は、もう慣れているのか、食券を握ったまま静かに首をかしげた。
「立って食べるからですか」
正解。
それ以上でも以下でもない。
しかし男は、満足そうにうなずいた。
「半分正しい」
全部正しいと思う。
「椅子とは、滞在の意思なんだ」
始まった。
「人は座ると、場所に対して自分の時間を置いてしまう。腰を下ろすというのは、そこに少しだけ人生を預ける行為なんだ」
重い。
椅子に座るだけで、そんな契約を結んだ覚えはない。
「だが、立ち食いそばは違う。ここでは誰も人生を預けない。食券を出し、そばを受け取り、食べ、去る」
それはそう。
「つまり、立ち食いそばは、食事から滞在を取り除いたものなんだ」
言葉だけは整っている。
嫌だ。
私のかき揚げそばが出てきた。黒めのつゆに、少しやわらかそうなそば。その上に丸いかき揚げが乗っている。特別なものではないが、いまの十五分にはちょうどよかった。
私は七味を振り、箸を取った。
熱い。早い。そして、ちゃんとおいしい。
こういうのでいい。
本当に、こういうのでいい。
「駅のそばは、味だけで評価してはいけない」
男の声がした。
味で評価させてほしい。
「重要なのは、接続だ」
出た。
また仕事に持ち込めそうな単語が出た。
「電車と予定。空腹と移動。午前の疲れと午後の自分。その間に、そばが入る」
やめて。
午前の疲れと午後の自分の間に、あなたは入らないでほしい。
男たちのかけそばも出てきた。男は丼を受け取り、すぐには食べなかった。
でしょうね。
「まず、湯気を見る」
若い男性も湯気を見た。
見なくていい。伸びる。
「湯気は、そばがまだこちら側に来きっていない証拠だ」
どちら側。
「厨房と客の間。提供と摂取の間。立ち食いそばは、その中間を最短でつなぐ」
私はそばをすすった。
男の言葉を聞かないためには、食べるしかない。立ち食いそば屋では、咀嚼が防御になる。
「食券も重要だ」
まだあるのか。
「食券は、注文の前処理だ。席に座ってから悩む余地をなくす。つまり、意思決定を入口で済ませる仕組みなんだ」
それは、まあ、そうかもしれない。
だが、私はかき揚げそばを反射で選んだだけである。
「後工程に迷いを持ち込まない。これが立ち食いそばの強さだ」
後工程。
そば屋で聞きたくない言葉がまた増えた。
若い男性が言った。
「じゃあ、券売機は要件定義みたいなものですか」
あなたも戻ってきて。
男は深くうなずいた。
「近い。ただし、要件定義より正直だ。押したボタンの結果が、数分後に必ず出てくる」
それは、会議より優れている。
思ってしまった。
危ない。
私はかき揚げを少し崩した。つゆを吸った衣が、ゆっくり沈んでいく。最初は固かったものが、だんだんほどけて、つゆと混ざる。これはこれで、悪くない。
「かき揚げを頼んだんですね」
声がした。
私ではない。若い男性が、男に言ったのだ。
やめて。
かき揚げ方面に来ないで。
「かき揚げは、立ち食いそばにおけるチームだ」
来た。
「玉ねぎ、にんじん、衣。個々は小さい。しかし油で一度まとまり、つゆの中で再びほどける」
私は箸を止めた。
「プロジェクトと同じだ」
違う。
絶対に違う。
「短期間で組成され、熱を通され、成果物として投入される。そして最後には、組織の汁に溶けていく」
組織の汁。
最低の言い方である。
若い男性は、たぬきそばを食べながらうなずいていた。たぬきでよかったですね。かき揚げだったら、あなたもプロジェクトにされていた。
男はかけそばをすすった。
少しの間、黙った。
そばが勝っている。
私は心の中で、立ち食いそばに感謝した。この店には椅子がない。そして、そばは伸びる。つまり、男にも時間制限がある。
「立ち食いそばの本質は、長居しないことではない」
復活した。
「長居できない構造に身を置くことだ」
それは少しわかる。
「人間は、放っておくと考えすぎる。座る。悩む。比較する。言い訳をする」
言い訳は立っていてもする。
「だが、そばは伸びる。電車は来る。予定は迫る。だから人は、未完成のまま次に行く」
男は丼を置いた。
「立ち食いそばは、未練を切る訓練なんだ」
少し良いことを言った。
よくない。
良いと思ったら負けだ。
私は残ったそばを急いですすった。午後の予定まで、あまり時間がない。ここで男の言葉を咀嚼している場合ではない。
丼をカウンターに戻し、水を一口飲んで、出口へ向かう。男たちの横を通らずに出るルートを瞬時に探した。
なかった。
狭い。
立ち食いそば屋は、回転は早いが逃げ道は少ない。
私はできるだけ自然に通り過ぎようとした。その瞬間、若い男性と目が合った。
あ、という顔をされた。
覚えられている。
私は曖昧に会釈した。
社会人としての最小限の動作。これ以上、関係を深めてはいけない。
男もこちらを見た。
「ああ」
やめて。
「以前、蕎麦屋で」
やめて。
「それから、肉汁うどんと佐野ラーメンでも」
全部覚えてる。
私は一秒で回答方針を決めた。
短く。一般的に。比喩を使わない。椅子に触れない。大宮を呼び込まない。
「急いでいたので、助かりました」
完璧。
閉じた回答。
男は深くうなずいた。
「そうです。立ち食いそばは、急いでいる人を助けるのではない」
拾われた。
「急いでいる自分を、肯定してくれるんです」
やめて。
今の私に少し刺さる。
「忙しさは、ときに人を雑にする。しかし、立ち食いそばは雑ではない。手を抜いているのではない。時間を抜いているんです」
時間を抜かないでほしい。
でも、また少し良い。
本当にやめてほしい。
若い男性が言った。
「時間を抜いても、手は抜かない仕事、ですね」
あなたはもう完全に向こう側だ。
男は満足そうにうなずいた。
「そう。立ち食いそばは、短納期の倫理です」
違う。
私はもう一度だけ会釈した。
「失礼します」
これ以上ここにいると、午後の議事録にそばが混入する。
店を出ると、駅の空気は少し冷たかった。ホームへ向かう人の流れがあり、改札を抜ける音と、発車標の文字と、どこかで流れる案内放送が重なっている。
私は腕時計を見た。
間に合う。
かき揚げそばも食べた。電車にも間に合う。あの男にも会った。最後の一つは不要だったが、もう起きてしまった事実である。
電車に乗り、吊り革につかまりながら、私は午後の打ち合わせメモを開いた。
確認事項。先方への宿題。社内で整理すべき論点。次回までに決めること。
私は無意識に、こう打ちかけた。
「入口で意思決定を済ませ、後工程に迷いを持ち込まない」
止まった。
これは、業務用語としては普通にあり得る。
あり得るが、さっき券売機について男が言っていた。
私は消した。
別の表現にする。
「事前に選択肢を整理し、会議では判断に集中する」
よし。
これは安全。
そう思ったのに、指が勝手にもう一行打った。
「椅子を置かない進行にする」
私は慌てて削除した。
危ない。
本当に危ない。
短くても、雑ではない仕事。
時間を抜いても、手は抜かない仕事。
短納期の倫理。
立ち食いそばに椅子はいらない。
変な言葉ほど、なぜか残る。
私はスマートフォンを閉じた。
電車が次の駅に着く。ドアが開き、人が降り、人が乗る。
私は吊り革につかまったまま、心の中で思った。
午後の会議では、絶対に座って考えよう。




